3度五輪出場の元祖「カー娘」、人気急上昇にトリノ後は「少し苦しかった」…8年後「スポンサーに感動」
[冬の記憶]カーリング女子 小笠原歩
アスリートが自身の五輪を語る「冬の記憶」。2006年トリノ五輪で強豪相手に劇的に勝利して日本のスポーツファンに新鮮な感動を与え、競技人気も大きく高めた「カーリング娘」のスキップ・小笠原(旧姓・小野寺)歩さん(46歳)がカーリングと歩んだアスリート人生や競技への深い愛情を語ります。(聞き手、東京本社運動部・畔川吉永)
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トリノ五輪の1次リーグでイタリアを下し喜ぶ小野寺(当時)歩(右)と本橋麻里、奥は林弓枝(いずれも青森県協会)の日本チーム(2006年2月)
――トリノ五輪は02年にソルトレークシティーに続いて自身2度目の五輪出場でした。
ソルトレークシティーは(他の選手に)連れて行ってもらった五輪。そうではなく、次は自分で五輪に行くんだと考えました。周囲や家族からも自立した環境に身を置きたいと思っていた当時、カーリングの施設ができると聞いて、(故郷の北海道から)青森市に移りました。
「遊びの延長」と思われていた
――当時のカーリングは冬季競技の中でも認知度が低かったと聞いています。
競技スポーツではなく遊びの延長――と思われていたこともありました。でも自分でやっていてこんなに面白い競技はないと感じていたので、オリンピックでメダルを取って認められたいという思いがありました。
――トリノでの日本はスピードスケートといった期待された競技でメダルを逃すなど苦戦が続きました。カーリング女子日本代表として出場した「チーム青森」は7位。カーリング王国のカナダや前回金の英国を破るなど、劇的な勝利の連続やひたむきな戦いぶりが日本で話題となりました。
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トリノ五輪に出場した「チーム青森」。青森市内での記者会見後にポーズをとる(前列右から小野寺歩、林弓枝、後列右から本橋麻里、目黒萌絵、寺田桜子)(2006年3月)
カナダ戦後、(取材対応する)ミックスゾーンでメディアの数がすごく増えたのを覚えています(笑)。当時はSNSもなく、家族も現地に応援に来ていたので、日本の盛り上がりについては正直現地では分からなかったんです。チームメートと『どうしたんだろう?』などと話していて……。それでも、日本に帰国するまでトリノ市内で知らない人に追いかけられたことや、帰国してからの歓迎ぶりなどもあって、本当に180度私たちを取り巻く環境が変わったことを実感しました。
――実際は葛藤もあったのでは。
うれしい一方で「メダルを取っていないしなぁ……」という思いもありました。「カー娘」などと呼ばれてテレビなどで取り上げられたりしましたが、メダリストでもなかったので少し苦しかったのは事実です。
結婚・出産経て復帰
――ただ世界選手権など五輪以外の大会やカーリング自体が注目されるようになりました。
トリノ五輪の後は私たちだけでなく、日本のカーリング選手を取り巻く環境の向上や通年のリンクなど施設の増加につながった部分もあります。どの競技でも誰か壁を破る人が必要であって、カーリングはたまたま自分たちのトリノ五輪が、もしかしたらそうだったのかなと思います。今は、私たちの経験も意味があることだったのかなと振り返ることができます。
私たちの時はユニホームなども自分たちで買わなきゃいけなかったりして、自分でアルバイトをして資金を稼いだこともありましたし、周りの支えなどもありました。今はトップ選手にスポンサーがつくなど、当時と比較すると想像がつかないくらい恵まれています。そこを目指してはいたのですが自分の想像を超え過ぎていて……。今の環境に対して本当に選手たちは感謝しなきゃいけないとは思っています。
――結婚と出産を経て「ママさんカーラー」として復帰しソチ五輪に3度目の出場を果たしました。
たまたま私が母親だっただけで、自分ではカーリングがやりたいからもう1回戻って、五輪を目指したというだけでした。私が若い頃から、海外では母親の女性選手が多かったので、そういうのも間近に見ていたので私の中では当たり前の考え方でした。でも実際やってみるとなかなかつらい思いもしました。子供のそばにいてあげた方がいい時に遠征などでいることができなくて。でもそこは覚悟を持って、自分で選んだ道なのであれば、きちんと全うして子供には見せてあげるというふうに思っていました。
がむしゃらだったソチ五輪
――復帰後は「北海道銀行」でプレーしました。
復帰した時には中部電力などチーム数も増えていてすごい時代になったなぁと思っていました。自分も子育てしながらの競技となると、環境面でも充実させることが必要だと考え、支援先を探そうとなった時、スポンサーについていただきました。「選手にスポンサーがついてくれる時代になったんだな」と感動しました。そういう支えてくれる人たちにもプレーで恩返ししたいという気持ちがわきました。もしかしたら、その思いがどのチームよりも、どの選手よりもきっと強くて、ソチ五輪出場につながったのではないかと考えます。
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ソチ五輪の閉会式で日の丸を掲げて笑顔で入場する小笠原歩。開会式でも日本選手団の旗手を務めた(2014年2月)
当時は自分たちが日本代表決定戦に勝って、さらに世界最終予選で自分たちの手で出場権をとって五輪で戦いました。1シーズンにピークを何回も持ってくる必要がありました。復帰後、ソチを目指してはいたけれど、心の底からは実際に間に合うとは思っていなかったです。あのシーズンはカーリング人生の中でもものすごく濃い1年になりました。
――ソチ五輪での順位は当時過去最高タイの5位でした。
もうやるしかないと誓って、一戦一戦、一投一投、みんなでつなげていこうとしました。年齢差もあり、結婚したり母親になったりするなど、いろいろなバックグラウンドを持った5人が集まってすごくがむしゃらにやりました。
アスリートの評価は引退後にどう生きるか
――改めて感じたカーリング競技の面白さは。
氷の上に立つ4人と(リザーブを含めた)5人が一つのショットに対し、それぞれの仕事がうまくかみ合った時、ショットが決まって、それがまた次のショットにつながっていく――というところに達成感や喜びを感じます。誰一人欠けてはならないし一人ではできない競技です。チームメートが互いを必要とする関係性というのにもすごく魅力を感じます。
――2018年、22年の五輪で女子が2大会連続でメダルを獲得しました
カーリングはいつかオリンピックで日本がメダルを取る競技だと思っていました。それが自分の時ではなかったけれど、後輩や仲間が取ってくれる未来はあるだろうと信じていたので、それが現実になった時は自分のことのようにうれしかったです。
――現役引退後は日本カーリング協会の理事やコーチを務めるなどし、後進も育成しています。
第一線から退いたときに違う道を考えたこともあるんですが、カーリングはオリンピアンなどトップ選手が理事などになる前例がなくて、運営する協会と選手の連携をうまくはかれるような人材が必要だと要請されました。
誰かに必要とされるのは幸せなことですし、先人の思いを受け継ぐことは誰かがしなければなりません。またアスリートの評価は、アスリートではなくなってからどう生きるかによって決まるのだと思います。