近藤勇と決別したが生涯を新選組同志の慰霊にささげた永倉新八 幻の手記発見でみえた実像

大正2年、愛用の羽織を着用した晩年の永倉新八(左)=札幌市厚別区(個人蔵)と、近藤勇
新選組二番隊組長、永倉新八(1839~1915年)。剣豪の名をほしいままに幕末、明治、大正を生き抜いた新選組の生き証人だ。誰よりも新選組を愛し、盟友だった局長・近藤勇と決別するも、太平の世に生きたその後は近藤ら同志の慰霊顕彰に奔走。彼らの等身大の実像を史実に浮かび上がらせた。功績は現代にも息づいている。

近藤勇らの供養塔と永倉新八の墓=東京都北区
供養塔建立に尽力
JR埼京線板橋駅前の一角に、近藤、土方歳三ら新選組隊士の供養塔がたたずむ。明治9(1876)年、永倉が発起人となって建立。塔の脇には、昭和4(1929)年に永倉の長男が建てた永倉の墓碑もある。
この地は、処刑された後の近藤の胴体が埋葬された場所だったという。供養塔の側面には戦死した隊士ら110人の名が刻まれ、今も近くの寿徳寺が、毎年近藤の命日にあたる4月25日前後に供養祭を営む。
永倉は、明治に入り松前藩に帰参し「杉村義衛」と名乗って北海道で暮らしていたが、明治8年に上京。旧幕府典医、松本良順の協力を得て、供養塔の建立にこぎつけた。
一方で、永倉は5年から新選組当時を振り返る手記「浪士文久報国記事」の執筆に取り組み、供養塔が建立された9年に書き終えた。「永倉はおそらく、供養塔建立の資金集めのためにこの手記を書いたのではないか」。幕末維新史研究家の木村幸比古さん(77)が推測する。
慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いで敗走した新選組は、江戸で再起を図った。永倉も近藤が率いる甲陽鎮撫隊に加わり、甲州城奪取をもくろむ。戦況が厳しい中、近藤は会津藩の援軍が駆けつけると言い含めたが、敗走を食い止めるための噓だった。怒った永倉は近藤と決別。新政府軍との戦いで東北各地を転戦した。

北海道博物館で、晩年に永倉新八が愛用した羽織を見る杉村和紀さん(右)と木村幸比古さん=札幌市厚別区(個人蔵)
一方、近藤は同年4月、新政府軍に捕らえられ、板橋の刑場で斬首。土方は明治2(1869)年5月に函館(箱館)で戦死した。永倉は上京の途中、同地にある土方らの慰霊碑を訪れて弔ったという。
自らが生きた証し
「大名などの身分にあこがれるあまり、主張が変遷した近藤に対し、永倉は正論を言う。いつでもどんな時でもぶれなかった」と木村さん。たもとを分かつものの、永倉にとって新選組や近藤、土方らはかけがえのない存在だった。「たとえ意見が異なったとしても同志は同志。その思いとともに、戦いを振り返り、自らが生きた証しを残すことが必要だと思ったのだろう」
3冊からなる「浪士文久報国記事」には後日談がある。長らく行方不明となり「幻の手記」といわれてきたが、平成10年に入手した古美術商から木村さんが鑑定を依頼され、永倉の自筆と確認。明治9年の完成から122年がたっていた。
手記には、新選組の結成当時から土方の死までが、体験者ならではの視点でリアルに描写されている。池田屋事件の際には、抜刀した長州の志士たちに、近藤が「御用御改、手向イイタスニヲイテハ用捨無切捨ル」と大声を発し、志士らがたじろいで後ずさったと記すなど、臨場感あふれる筆致が残されている。
「決してうまい文章ではないが、人一倍新選組を好きだった永倉の思いが伝わる」。木村さんはその生涯をたたえる。「常に光が当たるのは勝者の歴史。永倉の手記や実歴談がなければ、新選組の実像は永遠に闇のままだった。永倉の顕彰活動の功績は大きい」
「曽祖父の遺志伝えたい」 ひ孫のTVディレクター杉村さん
「楽しかった夏が終わってしまいます」。7月から北海道博物館(札幌市)で開かれた特別展「新選組永倉新八と会津藩士栗田鉄馬」の会期末が近づいた9月中旬、永倉新八のひ孫、杉村和紀さん(58)はそう惜しんだ。
新選組時代から晩年まで、エピソードに事欠かなかった永倉。50代半ばだった明治27(1894)年の日清戦争当時、長男にあてた手紙には「抜刀隊」を組織して参戦し、「皇恩」に報いたいと記したという。
「僕も酒飲みなので似ているかな」。和紀さんは、酒豪だったという曽祖父に思いを重ねて笑う。幼い頃から曽祖父の話を親に聞いて育った。当時は新選組ブームの時代。テレビや小説に新選組がたびたび登場した。小学5年のとき、ドラマで俳優の夏八木勲さん演じる永倉を目にし、「『おお、これがひいじいさんか』と子供心に思ったものです」と振り返る。
社会人になり、テレビ制作会社に勤務。自分なりに曽祖父、新選組について調べるようになった。平成16年には北海道文化放送のディレクターとしてドキュメンタリー番組「新選組。永倉新八からの伝言」を制作し、日本民間放送連盟の優秀賞を受賞。翌年、はとこと書籍「新選組永倉新八のひ孫がつくった本」(柏艪舎)を出版した。フリーとなった現在も、他の新選組隊士らの子孫と交流を持ちつつ、曽祖父について発信し続けている。
動乱の時代だった幕末。最前線で戦い抜いた永倉は、人生の大半を新選組隊士の慰霊顕彰にささげた。
「曽祖父は『国のために命がけで戦ったんだ』と伝えたかったんだと思う。僕もディレクターとしてその遺志を継げているのではと思うし、今後も伝えていきたい」。会ったことのない曽祖父の存在を、身近に感じている。(池田祥子)