昭和15年生まれの私 王貞治さん「あの日、荒川さんが違う道を散歩していたら…」 プレイバック「昭和100年」

バットを手にする王貞治さん=今年3月、みずほペイペイドーム(渋井君夫撮影)

東京大空襲の記憶

いまでも鮮明に残っている光景があります。火災の炎が反射し、空が真っ赤に染まっていました。昭和20年3月10日の東京大空襲。私が5歳になる少し前、母の背中に背負われていたときの記憶です。母は下の姉の手も引いて逃げた。焼夷(しょうい)弾がすごく、町中をさまよい、一夜を過ごしたと後で聞きました。

大空襲後の東京。神田上空から南東方向を望む=昭和20(1945)年

あの空襲で10万人近くが亡くなりましたが、町工場が密集する墨田区は犠牲者が多かった。実家の中華料理店「五十番」は焼けちゃったけど、父や兄、上の姉と幸いにもみな無事だった。すごく運がよかったと思います。

野球との出会いは現在の墨田区押上に引っ越して区立業平小学校に入った頃。20年11月には戦後初のプロ野球の試合となった東西対抗戦が神宮球場で行われ、翌21年にはリーグ戦も復活した。兄も慶大医学部の野球部に入った。当時サッカーとか他のスポーツの娯楽情報はない。遊びといえば野球しかなかった。

荒川博コーチ(右)から一本足打法を教わる巨人・王貞治

路地や神社の境内、たまにしか車が通らないから道路でもやった。守って、打球を取った人が打てるというルールでね。随分たってから神社を訪ねたんだ。こんな狭い所で…と思ったけど、当時は楽しかったんだよね。

「何で左で打たないんだ」

進学した墨田区立本所中学校には野球部がなく、陸上部と卓球部に入った。砲丸投げで区大会で優勝し、都大会でも6位かな。野球のピッチャーが砲丸投げですよ。今だったら考えられない。三段跳びもやりました。

あの頃はいろんなスポーツが自由にやれた。おかげで体が鍛えられたのか、プロに入ってもけがらしいけがはしなかった。いい環境があったんです。

野球は地元の町工場のお兄さんや高校生が主体のクラブ「厩四(うまよん)ケープハーツ」に入ってプレーしていたのですが、中学2年生だった29年11月、運命的な出会いがありました。

公園で試合をしていたら、当時毎日オリオンズ(現ロッテ)の荒川博さんが散歩に来ていたんです。右打ちで2打席凡退すると「何で左で打たないんだ?」と。プロの言葉です。左打席で打ったら会心のヒット。以来、左打ちです。

通算756号本塁打を放ち、当時の世界新記録を樹立した王貞治さん=昭和52(1977)年9月3日、後楽園球場

当時、身長が175センチあった。荒川さんは高校生だと思ったらしく「(自身の母校である)早実に転校しろ」って。そんなわけにはいかないよね(笑)。

日本球界も変わらなければ

後に早実に入って甲子園(32年春の選抜大会)で優勝。巨人入団後、打撃コーチの荒川さんから一本足打法を教えられ、37年から13年連続で本塁打王に。三冠王も2度取れた。当時の世界記録756号は日本中がわいた。現役生活22年で通算868本塁打という記録を残せた。

戦後間もない青春時代のあの日。荒川さんが一本でも違う道を歩いたり、ちょっと時間がずれていたりしてもすれ違いですよ。あの出会いが人生の転機になったのは間違いない。

仕事一筋だった父は「日本に生かされた」が口癖でした。私は野球の世界に身を投じ、野球に生かされた。今、大谷翔平選手の活躍で米大リーグが大人気になっていますが、日本球界も変わらなくちゃいけない。プロ野球は25年に2リーグ制、33年に12球団になってそのままです。新球団を増やすなど変わる努力、前向きな思考が必要です。

今年、抜本的改革を目指してプロアマを含めた横断組織「球心会」を発足させました。日本の野球も今後30年、50年、100年と輝いてほしい。私は他のことは飽きっぽいけど、野球だけは飽きない。野球には命を懸ける価値があると思っています。(聞き手 清水満)