幻に終わった「山形の私鉄」、岡山で眠る電車の謎

奥羽本線に並行する「高速電鉄」, 「支線の追加」で認められた計画, 国鉄の手薄な地域輸送を補完, 「発注キャンセル」した電車は岡山へ, 橋台やホームなどの遺構残る

岡山県玉野市内の福祉施設で保存されている玉野市電モハ100形(琴電750形)。本来は山形県内で計画された「幻の地方私鉄」を走るはずだった(筆者撮影)

岡山県南部の玉野市内にあるJR宇野線の終点、宇野駅。瀬戸内海の港湾の一つである宇野港に隣接しており、かつては四国の玄関口、香川県高松市に向かう鉄道連絡船やフェリーも発着していた。

【路線図と写真はこちら】幻に終わった私鉄はどこを通る計画だった?▶発注したものの「キャンセル」されたという電車は数奇な運命をたどり岡山県で保存▶駅の予定地にはホームの石垣が残る部分も

この駅から西南西へ約3km、玉野市の奥玉地区にある福祉施設「すこやかセンター」に、レトロな雰囲気を醸している電車が1両、屋根付きのスペースに設置されている。かつて玉野市内で運行されていた電車を静態保存したもの。引退した車両を運行されていた地域で保存すること自体は、特段珍しいことではない。

しかしこの車両、もともとは玉野を走る計画ではなかった。ここから700kmほど離れた東北の山形県で計画された幻の地方私鉄、「蔵王高速電鉄」の線路を走るはずだったといわれている。

奥羽本線に並行する「高速電鉄」

蔵王高速電鉄が計画されたのは終戦直後のこと。庄内交通の当時の常務取締役で堀田村(のちの蔵王村、現在の山形市)出身の荒井清蔵など山形県内の有力者らが発起人となり、1947年2月2日に山形―上ノ山間12.2km(のちに12.6kmに変更)と半郷―高湯間13.2kmの地方鉄道免許を国に申請した。

【路線図と写真】幻に終わった山形県の私鉄「蔵王高速電鉄」はどこを通る計画だった?発注したものの「キャンセル」されたという電車は数奇な運命をたどり岡山県で保存中。駅の予定地にはホームの石垣が残る部分も

山形―上ノ山間は「本線」に相当し、山形市から南下して上山町(現在の上山市)に至る。半郷―高湯間は本線のほぼ中間で分岐して高湯に向かう「支線」だ。高湯は蔵王連峰西側の山腹にある蔵王温泉のこと。冬季はスキー客や樹氷を見に来た観光客でにぎわう。

蔵王高速電鉄の免許申請はすんなりとは進まなかったらしい。発起人に名を連ねた高湯の住民の手記によると、当初は本線の山形―上ノ山間のみ建設することを考えていた。

しかし「認可を得る可く請願書を提出したが、却々許可が出ず、その間色々手を尽して見たが、一行捗らない。そこでこれを詮索して見ると、鉄道沿線であるため許可出来ぬことが判明した」(『蔵王今昔温泉記 伊東久一覚書』、1973年3月)という。

ここでいう「鉄道」とは国鉄の奥羽本線のことだろう。蔵王高速電鉄の本線はやや離れているとはいえ奥羽本線に並行するルート。既設の鉄道路線に並行する計画を国に申請した場合、戦前は却下されることが多かった。需要に対して供給が過剰になり、共倒れになるおそれがあるためだ。

「支線の追加」で認められた計画

しかし『蔵王今昔温泉記』によると、発起人は「そこで高湯温泉迄延ばせば許可になると判った」とし、本線の途中で分岐して高湯に延びる支線の計画を追加する。これなら途中で合流するものの、「山形―高湯」と「上ノ山―高湯」を結ぶ2本の路線を整備する形になり、奥羽本線の純粋な並行路線とは言い難くなる。

奥羽本線に並行する「高速電鉄」, 「支線の追加」で認められた計画, 国鉄の手薄な地域輸送を補完, 「発注キャンセル」した電車は岡山へ, 橋台やホームなどの遺構残る

蔵王高速電鉄の計画ルート。赤=第1期線(本線)、紫=第2期線(支線)(国土地理院地図を筆者加工)

こうして蔵王高速電鉄の発起人は1948年5月7日、本線と支線の地方鉄道免許を取得。翌1949年4月には会社を設立した。しかし蔵王高速電鉄は結局、奥羽本線に並行する山形―上ノ山間の本線を第1期線、支線の半郷―高湯間を第2期線と定め、まず本線を整備することにした。7月に本線の工事施行認可を受け、10月から工事に着手している。

ただ、免許を取得するために支線の追加が本当に必要だったのか、やや疑問に感じる。このころ、蔵王高速電鉄だけでなく国鉄線に並行する地方私鉄の計画が各地で相次いで計画され、実際に免許を受けた鉄道もあったのだ。

青森県では、奥羽本線・五能線と競合する大鰐―弘前―板柳間の計画を弘前電気鉄道が申請し、蔵王高速電鉄と同日に免許を取得。1950年には福岡県の筑豊電気鉄道が、鹿児島本線と競合する黒崎―直方―博多間の免許を取得している。

奥羽本線に並行する「高速電鉄」, 「支線の追加」で認められた計画, 国鉄の手薄な地域輸送を補完, 「発注キャンセル」した電車は岡山へ, 橋台やホームなどの遺構残る

筑豊電気鉄道の終点、筑豊直方駅。どん詰まりの高架駅だが、これは国鉄筑豊本線をまたいで博多まで延びる計画だったためだ(筆者撮影)

続いて1954年、加越能鉄道(現在の加越能バス)が北陸本線と競合する富山―高岡―金沢間の免許を取得。岡山急行電気鉄道も山陽本線に並行する岡山―倉敷―玉島間の免許を取得した。弘前電気鉄道はのちに支線の免許を取得したが、それ以外は支線の免許を取得していない。

国はなぜ、国鉄線に並行する地方私鉄の計画を認めたのか。その理由の一つとして考えられるのが、当時の国鉄線の状況だ。

国鉄の手薄な地域輸送を補完

このころの国鉄線、とくに奥羽本線のような幹線は長距離の都市間輸送列車が主体。通勤通学など短距離の地域輸送を担う普通列車の運行本数は少なかった。国鉄監修『時刻表』1958年11月号(日本交通公社)によると、奥羽本線・山形―上ノ山(現在のかみのやま温泉)間は普通列車の本数が下り14本・上り16本。時間帯によっては運行間隔が2時間近くも空いている。

そこで、各地の有力者らが地域交通の不便を解消するため、国鉄線に並行する私鉄を整備して高頻度運行しようと考えるようになった。国としても国鉄線の地域輸送が手薄であることは理解していたはずで、そのため戦後は方針を転換し、国鉄の輸送力を補完するため並行路線の計画を認めることにしたのかもしれない。ほかにも終戦直後の占領統治下で国の権限が流動化していたことも背景にありそうだ。

仮にこの推測通りだとしたら、今度は蔵王高速電鉄が支線を追加した理由とつじつまが合わなくなる。国の方針転換が蔵王高速電鉄の計画を認めたあとだったのか、あるいは蔵王高速電鉄の発起人が国の方針転換を知らずに支線を追加した計画で申請してしまったのだろうか。

蔵王高速電鉄の本線は、着工後しばらくは順調に用地確保と工事が進んでいたようだ。同社が国に提出した1950年末時点の工程表によると、進捗率は用地が95%、土木工事が72%、橋梁が50%、駅施設が40%に達している。また、1950年7月には蔵王高速電鉄が合計5両の車両設計認可を申請。日立製作所に車両の製作を発注した。

しかし、その後は工事が進まなくなり、蔵王高速電鉄は完成延期の申請を繰り返すようになる。1951年1月6日に蔵王高速電鉄が提出した工程表には「経済情勢の急変に伴い資金調達が意の如くならず遅延せしため」と記され、同年7月2日提出の工程表でも「資金調達不如帰による工事中止状態のため」としている。支線に至っては未着工のままだった。

『蔵王今昔温泉記』によると、会社設立時の払込資金が尽きて増資に応じる者も少なく、建設会社への支払いが滞っていたという。いわゆる朝鮮特需による資材費の高騰なども背景にあったと思われる。

「発注キャンセル」した電車は岡山へ

こうしたなかの1953年4月5日、岡山県玉野市では宇野駅から西に延びる備南電気鉄道が開業。モハ100形電車3両が導入されている。実はこの3両、蔵王高速電鉄が発注した5両のうちの3両といわれている。発注がキャンセルされたため備南電気鉄道に売却されたらしく、この時点で蔵王高速電鉄は事実上中止されていたわけだ。計画が正式に廃止されたのはさらに7年後、1960年11月15日のことだった。

奥羽本線に並行する「高速電鉄」, 「支線の追加」で認められた計画, 国鉄の手薄な地域輸送を補完, 「発注キャンセル」した電車は岡山へ, 橋台やホームなどの遺構残る

正式な計画廃止から5年が経過した1965年の本線・成沢駅付近(道路名などは2025年時点)。この時点では線路敷地(赤矢印)がほとんど残っていた(国土地理院空中写真を筆者加工)

ほかの国鉄並行私鉄も、開業したのは筑豊電気鉄道の黒崎―筑豊直方間と弘前電気鉄道の大鰐―中央弘前間で、どちらも部分的な開業に終わっている。加越能鉄道と岡山急行電気鉄道は全線が実現しなかった。なお、弘前電気鉄道は開業後の経営が不振で、1970年には同じ地域で鉄道を経営していた弘南鉄道が大鰐線として引き継いだ。しかし同線は1970年代半ばから利用者の減少が続き、2027年度末には運行を休止する予定だ。

一方、蔵王高速電鉄の「キャンセル電車」が導入された備南電気鉄道も経営は厳しく、開業からわずか3年後の1956年には玉野市が経営を引き継いで「玉野市電」に。経営合理化のため非電化路線に変わったことから、1965年には香川県内で鉄道網を展開している高松琴平電気鉄道(琴電)に電車を売却した。それでも経営は好転せず、1972年に廃止されてしまった。

琴電に売却された3両は形式を750形、車両番号を750・760・770号に改めた。1978年には踏切事故で770号が廃車に。1999年にも冷房車の導入による車両の更新で750号が廃車になった。最後に残った760号は2006年に引退。これを機に玉野市民の有志が玉野市電を地元で保存しようと760号の「里帰り」を企画し、再び瀬戸内海を渡ってすこやかセンターに搬入された。

橋台やホームなどの遺構残る

私は正式な廃止から半世紀以上が過ぎた2014年11月、蔵王高速電鉄のルートをたどったことがある。再開発や区画整理で路盤そのものが消失している部分がほとんどで、細長い線路用地の特性を生かして道路化した部分もほとんどなかった。

奥羽本線に並行する「高速電鉄」, 「支線の追加」で認められた計画, 国鉄の手薄な地域輸送を補完, 「発注キャンセル」した電車は岡山へ, 橋台やホームなどの遺構残る

中川駅の予定地で見つけたホームの石垣(筆者撮影)

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それでも橋台や築堤などがわずかに残っていたのを確認できたし、現在の上山市内では橋台に加え、金瓶駅と中川駅の予定地でホームの石垣を見つけることができた。ただ近年撮影された空中写真などを見る限りでは、蔵王高速電鉄の遺構として比較的知られていた松尾川の橋台が道路整備で撤去されたようだ。

いまもホームが残っているのなら、幻の地方私鉄の歴史を後世に伝えるための公園として再整備できないものか。そして期間限定のイベントでいいから、玉野で保存されている電車を持ち込んでホーム脇に設置すれば、蔵王高速電鉄の姿を「再現」できて面白いのではないかと思う。一介のマニアの妄想にすぎないし、そもそも公園の整備費や電車の搬出入費をどう工面するのかという話ではあるが。