「トイレさえも行かせず、水をも飲ませず、耳や髪を掴んでは小突き回した」袴田巖さんを襲った“拷問”…後遺症は今も取り調べには“拷問王”と呼ばれた刑事の部下も関与

「トイレさえも行かせず、水をも飲ませず、耳や髪を掴んでは小突き回した」袴田巖さんを襲った“拷問”…後遺症は今も 取り調べには“拷問王”と呼ばれた刑事の部下も関与
袴田巖さん(88・年齢は取材当時、以下同)
「袴田事件」は1966年に静岡県で一家4人が殺害された事件で、一度死刑が確定した袴田巖さん(88)は、58年を経て、2024年に再審無罪が確定した。
静岡県警の津田隆好本部長は、巖さんの自宅を訪れ「長きにわたり言葉では言い尽くせないほどのご心労、ご負担をお掛けし、申し訳ありませんでした」と謝罪した。
巖さんは長期間の拘束で精神を病み、今は意思疎通が難しい。「長きにわたった」背景をひも解くと、静岡県で繰り返されてきた冤罪の歴史と法制度の不備が浮かび上がった。
■無罪が確定するまで58年

ドライブをする巖さん
58年かかった──。巖さんは精神をむしばまれ、ほとんど受け答えをしない状態だが、判決後初めての公の場では「無罪勝利が完全に実りました。きょうはめでたく皆さんの前へ出てきた」としっかりと自分の思いを述べた。
袴田弁護団・主任弁護人の小川秀世弁護士は「僕は絶対ね、巌さんに何か通じているのだと、何かそれが伝わっているのだということを思って、そのことをお伝えしようと思っていたら、 本当に伝わっていたじゃないですか。もうすごくうれしいですよね」と涙ながらに語った。
元プロボクサーの巖さんは、58年ぶりに真の自由を手に入れた。元死刑囚だったが、今はいち市民。そんな巖さんは、幼いときに暮らしたところなどを毎日ドライブしている。このドライブを「パトロール」と呼んでいるそうだ「やることがあるんだね。昔からだもんだで。この場所なんだが、変わっちゃってんだね」と毎日行う理由を語った。
巖さんは、92歳になった姉のひで子さんと、浜松市で暮らしている。ひで子さんは「最近は(巖は)割合と落ち着いているよ。88歳でそんなシャキシャキはしないだろうが、なるべく長生きさせたいと思うよ」と話す。
逮捕された後、何があったのか。巖さんに謝罪した静岡県警の津田本部長は「強制的、威圧的な取り調べがあったということで、誠に申し訳なく思っております」と述べている。強制的、威圧的な取り調べとは何なのか。過去に静岡県で起きた冤罪事件をたどると、その正体が浮かび上がる。
■長きにわたる冤罪と拷問のような取り調べの歴史

捜査員による脅迫のような取り調べ
戦後まもなく、「幸浦」「二俣」「小島」という3つの殺人事件が起きた。被告は皆、死刑か無期懲役の判決を受けたが、後に取り調べ中の拷問が発覚し、トイレに行かせないこともあった。いずれも逆転無罪となり、静岡は「冤罪のデパート」と揶揄された。
3つの事件とも、ある捜査員が指揮を執っていた。支援者の鈴木昂氏は「二俣、幸浦、小島事件では名を馳せて、非常に有名になっちゃった」と語る。袴田弁護団の田中薫弁護士はその人物を「紅林麻雄」だと明かした。3つの事件で捜査主任を務めた紅林氏は、「転落した名刑事」と言われた。冤罪発覚後、週刊誌の取材に「みんなから拷問王なんて言われちゃって。わたくしの捜査方式が古いと言うけれども、ずいぶんたくさんの強殺事件を、それで片づけているもんね。当時は『よく克明な捜査をやってくれた』と裁判官から、ほめられたもんですよ」と答えている。
1954年、後に冤罪と分かる「島田事件」が発生。静岡県島田市で、6歳の女の子を殺したとして、赤堀政夫さんの死刑が確定。再審で無罪になるまで、拘束期間は35年に及んだ。赤堀さんの支援者を務める鈴木氏は「取り調べにタッチしているということは、何度も赤堀さんの訴えの中に名前が出てくるんです。紅林と羽切が。本当に痛めつけられたと。羽切は紅林の部下であることは間違いない」と語る。
捜査主任を務めたのは紅林氏の部下だった羽切平一氏だ。赤堀さんは生前、取り調べの様子について「ご飯も食べさせない。トイレにも行かせない。これじゃどうしようもない。『俺たちの言うこと聞かなければ痛い目に遭わすぞ』って。拷問の痛さと苦しさのために音を上げてしまう。やっていないものを『やりました』って言ってしまう」と話している。紅林氏の捜査手法が、受け継がれていたのだ。
そして1966年、袴田事件が起きた。当時の静岡県清水市で一家4人が殺害され、巖さんは強盗殺人などの疑いで逮捕される。島田事件と袴田事件は、取り調べの手法がよく似ている。
「調べ中に必ず僕と同じようにひどい拷問を受けていると思いますよ。巖さんはね。やっていないものを『やりました』と無理矢理言わせるんだから」(赤堀さん)
島田事件でも弁護活動をした田中弁護士は「紅林麻雄が島田事件にも関係していた。その部下でいた羽切平一が袴田さんの自白、取り調べにも1回だけ関与しているのはありますね」と指摘する。
巖さんは逮捕された後、否認を続けていた。取調官がそれまでの4人から6人に増員された。その時に加わったのが、紅林氏の部下だった羽切氏だ。田中弁護士は「県警を挙げて引っ張ってきたけれども自白が取れない。どうするかということを捜査会議で開いている時に、じゃあ誰を応援にという中で選ばれたんじゃないの」と推測する。
取り調べテープに、羽切氏とみられる人物の声が残っている。「チャンピオンを目指す人間が娑婆に未練があんのか。お前は。娑婆に未練持つってことはもうあきらめなさい、ね。はっきり言っといてやる、ね。もう脅かす、はっきり言ってね」(羽切氏とみられるテープの声)
田中弁護士は「羽切が袴田さんに対して『娑婆に未練を持つな』と。紅林との関係がどこかであったかと私は感じた」と述べる。テープには「死刑になったってしょうがないじゃないか。お前は。そういうお前みたいなものは、ね。被害者に対して『申し訳なかった』と一言も言えないような人間は、犯人は、ね、そりゃもう情状酌量の余地はないよ」という声も残されている。
この取り調べがあった翌朝、巖さんは自白した。「取調べは人民の尊厳を脅かすものであった。殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし罵声をあびせ棍棒で殴った。連日二人一組になり交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった」(拘置所からの手紙 1983年2月8日)
当時の捜査員が取り調べの実態を語る。「言葉でガンガン責めたりなんかはあったと思う。そういう時代だよ(昭和)40年代というのは。だって、おとなしく聞いていてしゃべってくれるなら誰も言わないし。そこは人間と人間、取調官と被疑者との間の闘いだもん」(元捜査員)
捜査記録には「うっかりコップに水を一杯やったところ平常に戻ってしまった」という記述もある。そして、取り調べテープには以下のやり取りも録音されていた。
「袴田や、間違いないな、な。いいじゃないか、なぜ迷うの」(捜査員)
「小便に行きたいですけどね」(巖さん)
「小便は行きゃええがさ。やるからな小便行くから、な。その間にイエスかノーか話してみなさいって言うじゃないか」(捜査員)
「警部さん、トイレ行ってきますから」(巖さん)
「便器もらってきて。ここでやらせばいいから」(捜査員)
この後、その場で用を足す音が録音されていた。「取調べ中はトイレさえも行かせず、水をも飲ませず、弱り切った私を小突き回しては調書に指印させようと虐待を続け、更には、耳や髪を掴んでは、小突き回したのであります」(上告趣意書 1976年7月22日)
田中弁護士は「島田事件でも、赤堀さんは16時間とかトイレに行かせてもらえなくて、それで失禁しているって言ったでしょ。(袴田事件でも)同じ。生理的欲求に対しても応じなくて、(島田事件では)そこで座ったまま失禁させる、あるいは(袴田事件では)便器を持ち込んでさせるってことは、本当に人間の尊厳をなくさせることでしょう」と両事件の共通点を指摘する。
袴田事件が起きたとき、紅林氏はすでに亡くなっており、羽切氏が捜査を指揮したわけでもない。それでも、脅迫、拷問、トイレに行かせないといった歴史は繰り返された。
■死刑囚としての恐怖、心身むしばむ「拘禁症」

表情をほとんど変えない巖さん(左)、姉のひで子さん(右)
自白した巖さんは起訴され、死刑が確定。再審開始決定を受けて釈放されるまで、拘束期間は48年に及ぶ。そこには、死刑囚にしか分からない現実があった。
無罪になった2カ月後、ひで子さんは巖さんを東京に連れていった。そこはボクシングの聖地「後楽園ホール」。元プロボクサーの巖さんに特別席が用意されたが、観戦する直前、巖さんは「帰る」と言い出す。
「きょうのボクシングはね、うそなんだ全部。全部うそのことなんだね」(巖さん)
「ほんの5分前ぐらいまでは、リングに上がるつもりでいたんですがね。急に変なこと言い出しまして、これも拘禁症の後遺症だと思います。48年の拘置所生活というものが今の巖に出ているんです。死刑囚じゃなくなったとしても後遺症というものは残っております」(ひで子さん)
拘禁症とは何なのか。元死刑囚の赤堀さんは生前、こんな話をしていた。「みんな朝ね、8時半すぎると息を殺したようにじーっと待つんですよ。みんな怖がっているんですよ。いつ殺されるかってね。(看守の)足音が聞こえると、どの部屋に止まるかっていうのが不安なんですよ。自分の部屋だと当然もう終わりだもんね」。
死刑囚に執行が告げられるのは当日の朝で、看守の足が自分の部屋の前で止まると、その合図となる。ある朝、赤堀さんは看守に連れ出されたが、執行される別の死刑囚と間違えられたようだ。
「それまで皆さんと同じように髪が真っ黒だったんですよ。真っ黒の髪をしていたのにね、ドアを開けられた時にね、恐怖心のためにね、浦島太郎みたいにね、髪の毛があっという間に真っ白になった」(赤堀さん)
支援者の鈴木氏は「島田(事件の赤堀さん)も殺されるとこだったんだよね。袴田さんが死刑(囚)であるというのは、死刑囚という部屋の中に閉じ込められただけのことじゃなくて、明日殺されるかもしれないという、そういうことが連続した結果で、ああいう袴田さんの状況がある」と述べた。
「私はこの死刑囚という特殊な境遇にデッチ上げによりおかれ、初めて死刑の残虐のなんたるかを熟知した。確定囚は口をそろえて言う、死刑はとても怖いと。だが、実は死刑そのものが怖いのではなく、怖いと恐怖する心がたまらなく恐ろしいのだ」(拘置所からの手紙 1980年5月13日)
巖さんは、長きにわたり死刑執行の恐怖に脅え続けた爪痕なのか、表情をほとんど変えない。
■再審規定の不備と捜査適正化への教訓

小川秀世弁護士
再審で巖さんに無罪を言い渡した静岡地裁の國井恒志裁判長は、高校生に袴田事件の話をした。「証拠、カラー写真が検察官から弁護人に示されるのが遅かった。その証拠というのはただあればいいというんじゃなくて証拠をじっくり分析しないといけないので、証拠を手に入れる時間と証拠を分析する時間が結構かかった」。
証拠開示が遅かったのはなぜか。袴田弁護団の主任弁護人である小川秀世弁護士は「『証拠開示の規定なんてないじゃないですか』『法律のどこに書いてあるんですか』そんなことばかり散々言われてきて、我々も法律がないというところで、率直に言って手詰まりの状態だった」と振り返る。
再審に関する規定は、長きにわたり不十分なまま。証拠開示のルールもない。検察が重要証拠を出したのは、事件発生から44年たった後だった。再審で裁判長が重視したカラー写真も、取り調べの録音テープもだ。
ひで子さんは、巖さんの無罪確定後も、全国各地を飛び回っている。「冤罪で苦しんでいる方が大勢いらっしゃいます。大なり小なり大変悔しい思いをして苦労しておいでになっている。だから、私は巌だけ助かればいいと思っておりません。この再審法というものをぜひ、皆様のお力で、訂正なり、改正なり、何なりとしていただきたいと思っております」(ひで子さん)
静岡県警の津田本部長は、若手警察官に教訓を伝えはじめている。「袴田巌さんを逮捕した日から、自白を迫ったり、取り調べ室内で放尿させたりといったことが今回の事実確認でも確認されております。明らかに不適正であったと言わざるをえず、58年前の事件でありましたけれども、現在でもいろいろな不適正捜査が散見されたところであり、このような教訓を一時的なもので終わらせることなく、捜査の適正化の取り組みを不断に続けていかなければなりません」。
「デッチ上げを行なった、個人に恨みを持つものではないが、かかる非人間的行為をなさせる代用監獄という土壌はなくなるべきである。歴史は繰り返すという反復作用をみた。その生証人として存在する自分の悲しみを骨身にしみて実感している」(拘置所からの手紙 1983年2月8日)
(静岡朝日テレビ制作 テレメンタリー『長きにわたり~袴田事件と冤罪の歴史~』より)
【映像】“拷問王”と呼ばれた刑事(実際の映像)
【画像】“拷問王”と呼ばれた刑事(写真あり)
【映像】プロボクサー時代の袴田巌さん(写真あり)