東大に強い「日比谷」、京大に強い「北野」 東西の公立伝統高校が、難関大合格実績低迷から復活を遂げた背景は?

東京都立日比谷高校、大阪府立北野高校。ともに約150年の歴史を誇る公立伝統校である。日比谷は東京大、北野は京都大に多くの合格者を出していることで知られるが、両校には共通項がいくつかある。本稿では、大学進学実績の低迷と興隆の歴史を中心に、共通点をみていこう。※後編<「都立日比谷と府立北野、名門高校の共通点とは? 『ラグビー』『総理大臣』『ノーベル賞』から読み解く>に続く
■【共通点1】都道府県で最初に誕生した公立高校
<日比谷>
学校発祥地は日比谷ではなく、現在の水道橋付近である。1899年から30年間所在地だった旧麹町区西日比谷1(現、千代田区霞が関1-1)にちなんで、校名がつけられた。
<北野>
「英仏独語のうちの一つを学ぶと、中学の課程を修了できるようにした」(『大阪百年』)
この時代からグローバル化に取り組んでいた。大阪府第一番中学校、府立大阪中学校、府立大阪尋常中学校、大阪府第一尋常中学校、大阪府第一中学校、大阪府堂島中学校を経て、1902年に大阪府立北野中学校となり、現在の北野高校に継承された。
校名は1902年北区北野芝田町(現・芝田)への移転を機に、その地名がつけられている。
日比谷、北野は都道府県を代表する高校でありながら、府県庁所在地の都市名がつく浦和高校(埼玉)、神戸高校(兵庫)、青森高校(青森)、岐阜高校(岐阜)、熊本高校(熊本)などのように、東京高校、大阪高校にはならなかった。
■【共通点2】東京大、京都大に多くの合格者が輩出
<日比谷>
日比谷高校は、東京大合格者ランキングでは1949(昭和24)年から1967年まで19年連続1位だった。もっとも多かったのが1964年の193人である。同年、東京大に合格した日比谷高校出身者は、通信添削の増進会(現・Z会)機関誌の座談会でこう話している。
「現代文は授業がたいせつだと思います。ぼくたちは、自分で一つの作品を選び、それを授業時間のとき、研究発表をするんです。生徒同士でやっているから、親しみもあって先生がやるときよりも活発に質問が出る。そうしたことが力になりました」(「増進会旬報」1964年8月1日発行)
教える側には、前身の府立旧制一中から教壇に立っているベテラン、大学入試に精通した受験指導のプロや学問分野をきわめた教養人などがいた。1970~90年代、受験の英語で一世を風靡した『試験に出る英単語』(青春出版社)の著者、森一郎氏はその代表格である。
<北野>
北野高校は、京都大合格者ランキングで1958(昭和33)年に1位になってから、1960、63、66、68~69、71、74~77、79~81、84年にトップの座についていた。1966年、100人の合格者を出す。京都大で一つの学校から3ケタの合格者を出したのは初めてだった。北野高校の教員は、京都大の国語入試問題についてこう話していた。
「この出題をみて、高校の教師も生徒も教室での授業を大事にする以外、国語の力を伸ばすこともできないし、それこそがもっとも近道だということを十分認識されてよかろう」(京都大学新聞1966年3月26日)
京都大合格者がもっとも多かったのは1975年の112人だ。日比谷高校の東京大合格における「1強」に北野がならなかったのは、府立高校の天王寺、大手前とせめぎ合っていたからである。2校と北野を合わせて「府立御三家」と呼ばれていた。
日比谷も北野も授業によほど自信があったのだろう。
■【共通点3】高校入試制度の改革で難関大学合格実績が低迷
<日比谷>
1967(昭和42)年に都立高校入試に学校群制度が導入され、日比谷は三田高校、九段高校と11群という学校群を組んだ。日比谷を受験するのではない。11群を受けて合格すればこの3校へランダムに振り分けられる仕組みだ。日比谷に入学できるとは限らないと考えた受験生は、開成、武蔵、東京教育大附属駒場、慶應義塾など、国立私立の難関校に進んだ。これによって1970~80年代、日比谷の進学実績は下がる。日比谷の教員は学校群制度に対する恨み節を隠そうとせず、こう話している。
「日比谷が圧倒的に東大合格者を出していた現実をぶっこわそうとしたんです〔略〕いい生徒だって三等分されて入ってくる。中学生の学力だってレベルダウンだって当然のことです」(「週刊読売」1973年4月7日号)
日比谷から東京大への合格者数は1980年、開校以来1ケタとなり、1993年には1人となった。
<北野>
大阪府立高校入試制度は1973(昭和48)年、これまでの4学区制から9学区制に細分化した。これまで北野に通えた層が、ほかの地元の公立に進まざるを得なくなった。これによって府立御三家から高い学力を持つ生徒が細分化された各学区に分散されてしまう。北野の京都大合格者は1999年に50人を切り、2003年には36人となった。
しかし、ここが「底値」であり、深刻な府立離れは起きなかった。大阪には開成、麻布、洛星、灘、甲陽学院のような突出した進学校がなかったからである。私立の進学校が生まれなかった背景には、高い金を払って私立に行くより、地元の公立で十分という気質が大阪にはあるから、という見方がある。大手前高校の教頭がこう話す。
「東京の人は、値段が高くてええ物と、安いけどええ物があったとき、高くてええものの方買うみたいなところあるでしょ。三越の包み紙でないとあかんみたいなとこが。大阪人はダイエーの包み紙で結構なんですわ」(「週刊朝日」1980年3月21日号)
北野も、大阪人にかかればダイエーのお買い得品だったのである。
両校の歴史は、高校入試制度に振り回された悲劇としかいいようがない。
■【共通点4】石原慎太郎都知事、橋下徹府知事の登場で難関大学実績が復活
<日比谷>
2001年、東京都は都立4高校を「進学指導重点校」に指定した。日比谷、西、戸山、八王子東である。2003年には学区制が廃止され、都民ならば都内のどの学校にも通えるようになった。これはかつての都立「名門校」を進学校に戻そうとする政策によるものである。
その旗振り役となったのが、石原慎太郎都知事(当時)である。進学実績を高めるため、校長に強い権限を持たせ、優れた教員に長く進路指導を担当してもらい、公募制で指導に熱心な教員を集めた。
日比谷は学校経営計画において難関大学合格の数値目標として、2003年に「難関国立大学及び医学部医学科35人以上」を掲げ、2007年に目標を達成し、その後も順調に増やしていく。とにかく熱心だった。土曜講習、約100講座の夏季講習、模試成績のデータ管理、三者面談など、徹底的に受験の面倒を見た。学校群以前の日比谷はいまの開成や灘のように放任主義的な側面があった。東京大合格者は2006年12人だったのが、2016年には53人を数えた。当時の校長がこう話している。
「何もしなくても生徒が集まり、進路指導なしでも保護者も納得する……。そんな伝統校に、あぐらをかいている時代ではありません。大人が適切に関われば、生徒は劇的に伸びる。中学から私立一貫校に入るのが当たり前という東京の流れを、指をくわえて静観するつもりはありません」(朝日新聞2017年2月4日)
2025年東京大合格者は81人だった。80人を超えたのは1970年以来55年ぶりである。
<北野>
大阪府はGLHSに選ばれた府立御三家など10校に予算を重点配分し、難関大学合格を目標にして高いレベルの授業を行うため、「文理学科」を設置する。2016年、北野と天王寺は普通科の募集を停止し文理学科に一本化。人気は高まり、優秀な生徒が集まってきた。その成果は京都大合格者数に示されている。2018年に84人の合格者を出し、1984年以来34年ぶりに京都大合格高校ランキングでトップになった。2025年まで8年連続トップを続けている。2020年には45年ぶりに100人の大台に乗せた。この頃、北野の生徒がこう記している。
「この学校でまず思い知らされるのは授業の進む速さです。特に数学は息もつかせぬスピードで走り続けます。しかも高校の勉強なので中身も濃く、難しいのです。そんなスピード違反気味の北野の授業。それにがっちりと食らいつくには、やはりコンスタントにこつこつ勉強していくしかありません。それではどのような勉強をするのか。何より時間を割くべきは学校の授業の復習です」(北野高校学校案内2021年版)
知事の鶴の一声は大きい。こうして両校は難関大進学校に生まれ変わったのだ。
※後編<「都立日比谷と府立北野、名門高校の共通点とは? 『ラグビー』『総理大臣』『ノーベル賞』から読み解く>に続く
(教育ジャーナリスト/小林哲夫)

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