古墳人は中国依存を脱していた 保存科学が可視化する倭国の国造り 今津節生・奈良大学長

「藤ノ木古墳で人生が変わりました」と語る今津節生さん=奈良大学(山田耕一撮影)
未盗掘の石棺から金銅製の冠や履(くつ)が発見され列島に発掘フィーバーを巻き起こした藤ノ木古墳(奈良県斑鳩(いかるが)町)など、40年以上にわたって出土品の保存修復を手掛ける奈良大学(奈良市)学長の今津節生さん(70)。中国・内蒙古の王女の墓、明治時代に沈没したトルコ軍艦の引き揚げ品など、対象は国境や時代を超える。歴史遺産の継承に欠かせない「保存科学」は「考古学と両輪」と説く。
藤ノ木古墳で人生一変

黒塚古墳で出土した三角縁神獣鏡の取り上げ作業を行う今津さん=平成10年、奈良県天理市(今津さん提供)
「緑の葉っぱがすぐ茶色になる。何とか緑のまま保存できないか考えてくれ。急がんでええけど」
平成元年、就職したばかりの奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)で当時の副所長、石野博信さん(92)から声をかけられた。遺跡を発掘すると古代の木の葉が地中から見つかることがあるが、空気に触れたとたんに酸化して茶色になるためだ。
「石野さんの言葉を実現することが保存科学の目標になりました」
戦前の昭和13年に設立された橿考研は日本を代表する研究機関だが、遺跡発掘が中心で保存科学専門の採用は今津さんが初めてだった。「伝統ある橿考研に来て、一人で何ができるのか。押しつぶされそうな重圧があった」という。石野さんの「急がんでええけど」の言葉は「温かく包んでくれるようだった」と振り返る。

「保存科学にとって、発掘現場の困りごとを解決することが新たな研究テーマになる」と話す今津節生さん=奈良大学(山田耕一撮影)
今津さんが入所した前年の昭和63年は、橿考研にとって激動の一年だった。藤ノ木古墳を発掘し、金銅製冠や大刀など考古学史に残る遺物が大量に出土。保存修復が大きな課題となった。
「古い革袋に新しい酒を入れる。古い革袋と一緒になれば酒はもっとうまくなる」。発掘翌年の平成元年に所長に就任した樋口隆康さん(故人)は語った。「新しい酒」が保存科学の若手、今津さんだった。
「私は藤ノ木古墳で人生が変わったと思っています」
出身は和歌山で大学は東京。奈良とはそれまで縁はなかった。当時は福島県立博物館に勤務し、藤ノ木古墳の発掘は新聞やテレビで見ていた。「奈良ではすごいことをやっているなあ」。1年後、自身が出土品の保存を担うとは思ってもみなかった。
転機は、同古墳の保存修復に携わっていた奈良文化財研究所の沢田正昭さん(故人)の言葉だった。「奈良で働いてみないか」。ただし、福島での勤務はまだ4年ほど。「いきなり転職も」とためらいつつ、博物館に戻って鈴木啓学芸課長に打ち明けた。「日本のために行ってきなさい」と一言。腹は決まった。

木製滑車(下)などエルトゥールル号の引き揚げ品の保存修復について語る今津節生さん=奈良大学(山田耕一撮影)
橿考研ではさっそく藤ノ木古墳の出土品と向き合った。「とにかくモノを見ることだ」。石野さんの言葉に従い、ひたすらルーペや顕微鏡で観察した。
発掘時、石棺内には水がたまり、「ごみのようなもの」がぷかぷか浮いていた。調べてみると衣服などの繊維と判明。石棺内からは2人分の人骨も見つかっており、繊維の重なり具合まで丹念に調べた結果、何枚もの布で遺体を覆った手順も明らかになった。被葬者は、587年に蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべ)皇子と宅部(やかべ)皇子との説があり、非業の死を遂げた2人を丁寧に埋葬した状況が浮かび上がった。
繊維は腐食して残りにくく、発掘現場では見過ごされがちだが、そこにこそ大きなヒントがあった。「何か残っているかもしれない、という想像力の大切さを教えてくれたのが藤ノ木古墳でした」
経済学から保存科学へ
奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)、九州国立博物館などで研究を続け、保存科学のエキスパートとして知られる今津節生さん。経歴をたどると、少々異色ともいえる。考古学といえば大学の文学部が多いが、出身は駒澤大経済学部だ。
「生まれも育ちも和歌山。とにかく一度は東京へ行きたかった。学部を問わず東京の大学ばかり受験した」と苦笑する。教員免許を取得して郷里に戻るつもりだったという。
もともと歴史好きで、駒澤大では考古学クラブに所属して古墳を勉強した。青山学院大が古墳を発掘しているのを知り、同大大学院で研究を深めた。保存科学の世界を知ったのは、同大で発掘した古墳の大刀の修復がきっかけ。東京文化財研究所(東文研)に依頼したところ、自身も手伝うことになった。
東文研では、東北や九州など各地から保存修復のために遺物が持ち込まれた。「考古学なら弥生時代の土器や古墳時代の銅鏡など、研究はどうしても専門化する。保存科学は、時代や国・地域に関係なく研究できるのが新鮮だった」と語る。
土器の修復について研究し、当時は石膏(せっこう)での補修が一般的だったが、樹脂も使えることを論文で発表。その後、樹脂が広く使われるようになった。「自分の研究がそのまま役立つことがうれしかった」と手応えを感じ、まだ研究者も少なかった保存科学の道を選んだ。
平成元年に橿考研へ。印象に残っているのが、8年に発掘された最古級の前方後方墳、奈良県天理市の下池山古墳(3世紀後半)だ。国内最大級の銅鏡「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」(径38センチ)が出土し、表面には泥のようなものが付着していた。「文様を見たいから泥を落としてくれ」。発掘現場ではこうした声もあったが、「何かあるかもしれない」とそのままの状態で研究所に持ち帰った。
今津さんが確認すると、泥ではなく、絹など高級な織物「裂(きれ)」だった。「織り目とともに、色も残っていた。彩色のある古代の布といえば正倉院宝物。下池山古墳は数百年もさかのぼり、まさに最古だ」と目を見張った。
青や赤系統などの縦じま模様が確認され、布の重なり具合も復元し、鏡は巾着のような絹の袋に包まれていたことが判明。模様などから、魏志倭人伝に記された「班布(はんぷ)」、「倭文(しどり)」とされ邪馬台国論争にも発展した。
「当時、遺物が見つかれば、すぐ土を洗い落としてきれいにすることが多かった。下池山古墳の鏡も、泥だと思って取り除いていたら、布の存在は分からなかっただろう」と話す。
保存科学は古代の日中関係をもあぶり出した。弥生~古墳時代の墳墓などで出土する赤色顔料の水銀朱に着目。水銀朱の硫黄同位体比の測定により、弥生時代の福岡の遺跡では中国産を示す「プラス」に対し、奈良県内の古墳は軒並み国産を意味する「マイナス」だった。
古墳時代、ヤマト王権は国内での水銀朱の採掘と生産技術を習得し、中国依存から脱却。国力の飛躍的な強化が、ミクロの世界から浮かび上がった。
こうした研究成果の土台にあったのが、橿考研ならではの「同じ釜の飯を食う」という古き良き伝統。夕方になると、発掘担当者は現場から次々と戻ってくる。休憩室などに自然と集まり雑談に花が咲く。話題は決まって発掘現場のことだった。
「ウチの現場でこんなん出てきた」「大刀が見つかったが、さびないようにするにはどうしたらいいだろう」…。
そんな時、保存科学の部屋を見ると照明がついている。「今津さんがまだおるなあ。ちょっと相談してみよう」と担当者が訪ねてくる。「明日、一緒に現場に行こう」。そんな会話が交わされるのが常だった。
「互いに言葉のキャッチボールができたのは、橿考研に考古学と保存科学の人間が同居していたからこそ」。こうした体制が他の研究機関に広がることを願っている。
「保存科学とは、考古学担当者の『困りごと』にいかに応えるか。発掘現場の愚痴が研究テーマになるところが面白い」
内蒙古、トルコ…国境超えた修復事業
自身の手元に、20年近く前に撮影した写真が残されている。中国・内蒙古自治区の王女の墓とされるトルキ山古墓(10世紀前半)で出土した彩色木棺の保存修復プロジェクト。今津さんを囲むように、現地の研究員たちが見守っている。
平成17年、長年勤めた奈良県立橿原考古学研究所から、同年に開館した九州国立博物館(福岡県太宰府市)へ仕事の場を移した。まず取り掛かったのが、彩色木棺の修復だった。
「日本として中国で何ができるか。現地に行って考えてほしい」。初代館長の三輪嘉六さんから指示を受け、内蒙古の彩色木棺と向き合うことになった。
トルキ山古墓の発掘は、同館開館2年前にあたる2003年。金箔(きんぱく)の鳳凰(ほうおう)が描かれた彩色木棺や金製指輪などとともに、衣服をまとった高貴な女性が髪も当時のままの姿で見つかり、中国十大新発見といわれた。
内蒙古は、907年の中国・唐滅亡後に成立した王国・契丹(きったん)の中心地。唐文化を色濃く残し、平安時代の日本文化にも影響を及ぼしたとされる。
同館がある福岡は、弥生時代以来の大陸との玄関口。研究のコンセプトとして「日本文化の形成をアジア史的観点からとらえる」を掲げ、同古墓の調査研究はうってつけだった。
今津さんは平成19年から4年間、現地に定期的に赴いて修復指導を担当。ただ、初めての地だけに手探りの日々が続いた。「まずは信用してもらうこと」と、小さい遺物から修復するなどして日本の技術を示した。
「飲めない私ですが、酒を酌み交わすことも大事でしたよ」。互いの悩みなど本音で語り合うことで信頼関係が深まった。「一緒に食べて飲んでよく話す。そして共に汗をかくことなんですね」。「真っ赤になって苦しそうな私を見て、酒を勧めなくなりましたが」と笑う。
「同じ釜の飯を食う。酒を酌み交わす」-。平成元年に橿考研に入る際の先輩のアドバイスが、内蒙古で生かされた。
彩色木棺は表面の金箔などが剝落(はくらく)寸前で、斜めから光を当てることで剝はがれ具合を確認し、樹脂での強化方法などをアドバイス。表面の泥も針先で1粒ずつ除去するという地道な作業の大切さを説いた。
そして23年、同館の特別展「草原の王朝 契丹 美しき3人のプリンセス」を開催。彩色木棺や金製指輪など超一級資料を日本で初公開。相互に築き上げた関係が実を結んだ。
そして今、奈良大学で取り組むのが、トルコ軍艦「エルトゥールル号(エ号)」の引き揚げ品の保存修復。エ号は明治23(1890)年、和歌山県串本沖で遭難し、地元住民が乗組員を救助したことで、両国の友好につながった。
それは、「歴史の一ページ」で終わらなかった。95年後の昭和60(1985)年、イラン・イラク戦争で日本人がイランに取り残された際、トルコが「エ号の恩返し」と、救援機を派遣。平成25年には当時の安倍晋三首相がトルコでエ号乗組員の子孫らと対面し、「日本とトルコの友情の原点。さらに太いものにしたい」と語った。
奈良大の学生たちが保存修復に取り組む引き揚げ品は、両国民の絆の象徴でもある。そして注目すべき成果があった。木製滑車(長さ60センチ)では焼けた跡を確認。エ号は機関に海水が入って爆発したとされ、事故時の生々しい状況がよみがえった。
「保存科学は、事件現場の鑑識のようなもの」。今津さんは常々語る。犯人逮捕には現場に残された物証が欠かせない。遺跡や遺物でも、わずかな証拠を見逃さず分析するのが保存科学。刑事さながら、分析結果から歴史の真相を究明するのが考古学で、まさに車の両輪。「警察に科捜研(科学捜査研究所)があるように、考古学の機関に保存科学の専門家がいれば」。長年の現場経験に基づく実感だ。
その人材を育てる奈良大に赴任したのが平成28年。今年で10年になる。「若い人と話をしながら研究できるのが大学の魅力」。学長という立場で教壇に立つのも難しくなったが、今も週1回、講義を行っている。
「奈良大には、文化財や歴史関係の仕事に携わりたいという目標をもって全国から学生が集まってくる。一緒にいろんなことに挑戦できるのが楽しい」。顔をほころばせた。(小畑三秋)
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いまづ・せつお 和歌山県出身。駒澤大、青山学院大大学院博士課程を経て昭和60年に福島県立博物館に就職。奈良県立橿原考古学研究所、九州国立博物館を経て平成28年に奈良大教授。日本文化財科学会会長。
卑弥呼の鏡と呼ばれる三角縁神獣鏡などの3次元計測を行い、詳細な文様が判明。銅鏡研究の基礎データとなっている。3次元計測では、1枚の鏡をめぐって研究者が額を寄せ合って観察したという。「この文様は? この鏡の傷は何だろう」と自然に議論が盛り上がった。「実に楽しい調査だった」と懐かしむ。