中高の「やらされ探究」で大学教員が悲鳴の解決策

高校生は研究してはならないのか?, 国は「教師の頑張りに依存しない」制度設計を, 今の公立学校の教員に余裕はない…, 大学、行政、中等教育が協力して模索すべき

中学・高校で行われている「探究学習」で、生徒から大学の教員や研究者たちへのコンタクトが増え負担になっている…(写真:【Tig.】Tokyo image groups / PIXTA)

前編では、中学・高校で行われている「探究学習」が、大学の教員や研究者たちの負担になっていることについて、生徒・中高教員・大学教員や研究者それぞれの視点から、この問題がどのように見えているのかを紹介した。

【写真】10年以上にわたって探究学習、STEAM教育に関する実践型研究に取り組んできた開沼博東京大学大学院情報学環准教授

後編では、どのようにすればお互いが理解し合い、よい方向に持っていけるのかについて、大学の研究者へのヒアリングをベースに考えてみた。

高校生は研究してはならないのか?

そもそも「探究」と「研究」は違うものであり、中高の探究活動で「研究者」へのアクセスを要求することは必ずしも必要ないように思えるが、中学生や高校生に「研究」が不要だと言い切ることにも無理がある。

県立高等学校のC教諭が「高校までに育てることは、何かを面白がる好奇心であり、研究の土台をつくること」と言う通り、高校に研究は「必須」ではないが、研究をやりたいと考えていたり、研究の資質がある生徒たちが、健全に高等教育にアクセスできる環境を整えていくことも大切なことではないだろうか。

研究は本質的にグローバルな営みであり、国際的な研究競争力を確保するという観点からも、日本において研究者が持続的に育成される環境の整備については、中等教育段階からの検討を欠かすことはできない。

東京大学大学院情報学環准教授の開沼博氏は福島県出身で、2022年より中高生を対象とした「福島学カレッジ」を開催し、「研究型探究」プログラムを実施している。大学や省庁と連携し、すでに中高生の学会発表は30を超え、環境大臣賞をはじめとする各種コンペティションで成果が出ている。

高校生は研究してはならないのか?, 国は「教師の頑張りに依存しない」制度設計を, 今の公立学校の教員に余裕はない…, 大学、行政、中等教育が協力して模索すべき

開沼博(かいぬま ひろし)東京大学大学院情報学環准教授(写真:本人提供)

開沼氏は、10年ほど前、スーパーサイエンスハイスクール指定校だった福島県立福島高校が放射線量計を国内外複数の高校に配布し、自然被曝量を測定した研究が後に国際専門誌に査読論文として掲載されたことに衝撃を受けた。

そこで、開沼研究室では、全国の中高や企業と連携し、10年以上にわたって探究学習、STEAM教育に関する実践型研究に取り組んできた。25年度より東京大学教養学部で演習「探究学習論」を開講し、学生・教育関係者との連携を拡大している。

中等教育界隈では「なんちゃって探究」「やらされ探究」という言葉がある。

開沼氏は現行の学習指導要領で「探究」概念の定義や達成目標、何がよくて何が悪いのかという事例・基準などがはっきりと明示されておらず、現場が「探究」という言葉の理解が不十分なまま勝手にその言葉に神聖性を投影したり、人によって違う内実をもった「探究」概念の吟味をせずになんとなく進めていることに強い違和感を感じている(次期学習指導要領の議論で目標やプロセス、質の整理が進められている)。

同様に「調べ学習を多少見栄えよくしたもの」「雑な大学っぽいこと」になりかねない中高生の探究のあり方に大きな懸念を示している。しかし、そこで門戸を閉ざすのではなく、むしろ新たな高大連携・高大接続の在り方、経済格差・体験格差・地域間格差などの是正の可能性も含めた、探究学習の可能性を、総合型選抜の拡大も含め、前向きに捉えている。

探究・STEAM学習に見られるような「主体的・対話的で深い学び」は、従来の教科別学習では引き出せない生徒の意欲や資質・能力が無限に拡大する可能性がある。

開沼氏も「福島学カレッジ」で、背中をそっと押すことで飛躍的に成長を遂げる中高生の姿をいくつも見てきた。まだまだ試行錯誤、過渡期の段階にあるこうした学びにおける現場の混乱がありつつも、研究型探究に生徒進路選択の公平性や自由を拡大し、その中で生徒の意欲や能力を引き出す可能性を見ている。

国は「教師の頑張りに依存しない」制度設計を

大阪大学大学院人間科学研究科准教授で教育法学が専門の髙橋哲氏も開沼氏と同様、文科省が「探究」の定義をはっきりとさせていないことに懸念を示している。

さらに、学習指導要領が本来法的拘束力をもたない教育内容の目安を示す大綱的基準であるにもかかわらず、時と場合によって、恣意的に事実上の法規のように運用している点を大きな問題と見ている。

高校生は研究してはならないのか?, 国は「教師の頑張りに依存しない」制度設計を, 今の公立学校の教員に余裕はない…, 大学、行政、中等教育が協力して模索すべき

髙橋哲(たかはし さとし)大阪大学大学院人間科学研究科准教授(本人提供)

24年1月、奈良教育大学附属小学校で、学習指導要領に沿わない授業内容や履修漏れなどが長年続いていたことが報じられ、文科省は国立大学の附属学校に点検を求めた。

しかし、指摘された不適切事項は、「毛筆による書写」において書道筆ではなく筆ペンを使っていたことや、国歌「君が代」の指導が6年のみだったこと、ローマ字で書くことが3年次のものであったにもかかわらず、3年と4年で指導していたことなどであった。

このように、学習指導要領を事実上の法規であるかのように扱い、現場の教育内容の専門的裁量に介入するのであれば、学び手の主体性を重視し、自ら問う態度、自由な実践を志向する「探究学習」などできるはずもない。「主体的で自由な学びを」と一方でいいながら、こうした介入をするのであれば、ダブルスタンダードにほかならず、現場は安心して実践に取り組めない。

結果として現行の学習指導要領に掲載されている「探究における生徒の学習の姿」の図が「正しい探究」として認識され、「何が探究なのか?」と問われることもなければ、探究の歴史的な系譜や、海外実践との比較分析なども十分になされないまま探究サイクルの穴埋め問題のような実践が量産されている。

つまり「探究学習」の形骸化が進む。そのうえ、上述のように何が「望ましく」、何が「望ましくない」のかを恣意的に判断するような行政介入がされるのであれば、現場が混乱したり、行政指導を回避する型にはまった非本質的な実践にとどまってしまっても責められないだろう。

実際に奈良教育大学附属の報道当時、「探究学習」を推進していた全国の教師たちは文字どおり、震え上がっていた。

◎探究における生徒の学習の姿

高校生は研究してはならないのか?, 国は「教師の頑張りに依存しない」制度設計を, 今の公立学校の教員に余裕はない…, 大学、行政、中等教育が協力して模索すべき

(出所)文科省「今、求められる力を高める総合的な学習の時間の展開」より

今の公立学校の教員に余裕はない…

さらに現在、教師が授業以外にも多くの役割を担わされ、長時間労働が当たり前の「働き方」が問題となっている。髙橋氏によると、戦後から1970年代ごろまで、公立教員であっても週1日くらいは研究日がある自治体があり、その後も授業に支障のない範囲で勤務時間内でも校外での自主的な研修が許されていた。

しかし、今の公立学校の教員にそうした余裕はない。高校教員は小中学校の教員よりは、時間的な調整がつけやすい状況にはあるが、探究学習の単元設計や指導はマインドセットの改革を伴うハードなものであるにもかかわらず、それらの習得に向かう環境は整っていないと指摘する。

筆者が見るところでも、教師個人の体力や職場環境、それまでの経験や管理職などのサポートによりよい実践ができている教師がいないわけではないが、全国的に見ると「探究」が何かもわからず、しかし何らかの結果を出したように「みせなければならない」というプレッシャーの中で右往左往している学校や地域は多い。

結果として、リソースの調整が比較的容易な都市部の私立学校や自治体のサポートがある地域では探究学習が進み、総合型選抜において有利な状況が生まれている。

一方で、情報から取り残された地方の公立学校で取り組みが遅れがちな現状もあり、教育機会の平等性の観点からも看過できない問題となっている。

大学、行政、中等教育が協力して模索すべき

中学・高校で行われている「探究学習」が、大学の教員や研究者たちの負担になっていることについては、学習指導要領における「探究」概念が説明不足のまま導入されたこと、また大学入試改革による急激な高校生の学習環境の変化によって起きた過渡期的問題である。

しかし、ペーパーテストだけで大学進学が決まった時代よりも、推薦型、総合型選抜と入学ルートが多様となったことそのものは、歓迎すべき変化として受けとめてよいのではないだろうか。

良質な探究もしくは研究を中高時代に経験した学生ほど、大学入学後に高いパフォーマンスを示すという実感は、多くの大学教員に共有されている。そのことが、総合型選抜の拡大を後押ししている要因の1つになっているとも言ってもいいだろう。

問題は、非本質的な探究学習が広がっていることや、目的と手段を履き違えたような「探究のため」の大学教員へのコンタクトである。

一方で、大学のアドミッションが、単なる賞の数や研究者との連携の有無、課外活動の量だけで合否を判定し、例えばアメリカのように、パーソナルエッセイなどで、個々の応募者の自己分析を丁寧かつ真摯に評価する体制を構築していないのであれば、中高の教員だけを非難するのも妥当性に欠くだろう。

一生懸命研究の準備をしてコンタクトするにせよ、教員から促されて渋々連絡するにせよ、大学から無視されたり、あしらわれたりする中高生が昨今増えていることにも鑑みると、単に中高教員を責めるのではなく、ましてやコンタクトしてきた生徒を責めるのでもなく、大学、行政、中等教育それぞれが、この問題について現状を正確かつ構造的に把握し、お互いにとってよい方法を協力して模索することは喫緊の課題である。