比叡山に眠る特攻兵器「桜花」の発射基地 極秘裏に建設も完成前に終戦むかえ 戦跡をたどる

爆破された発射装置の写真。「ロケットエンヂン」「原動力ポンプ」などの記述がある(出雲一郎さん提供)

太平洋戦争末期、日本軍が本土決戦を想定して比叡山(848メートル)の山頂付近に極秘裏に建設した特攻基地は地元でもほとんど知られていない。搭乗員もろとも敵艦に突っ込む特攻兵器「桜花(おうか)」、いわば人間爆弾の発射基地だった。ただ、基地は昭和20年8月15日完成予定で、この日終戦を迎えたため、桜花が配備されることはなかった。終戦後、施設は米軍が破壊し、公的な資料は存在しない。「石碑どころか説明板一つない」という現状に「戦争の悲惨さを伝えるためにも何らかの形で特攻基地の存在を伝えたい」と話す人は多い。

特攻兵器「桜花」の発射基地があった付近。今は比叡山ドライブウェイが走る=大津市坂本本町

アルバム手掛かりに

比叡山鉄道のケーブル延暦寺駅から西に数百メートル付近に発射基地があったとみられる。今は比叡山ドライブウェイが走り、当時の様子は想像もできない。

大きな手掛かりとなるのは、滋賀県長浜市のフリージャーナリスト、出雲一郎さん(70)が平成20年に大津市内の古書店で見つけたアルバムだ。

24年11月に大津市歴史博物館に寄託されたこのアルバムは、京都三中(現京都府立山城高校)の生徒のものとみられ、比叡山で撮影したとみられる写真10枚が収められていた。「昭和21年9月1日」と撮影日とみられる日付が記されている。

写真には、数枚の破壊されたカタパルト(発射装置)や琵琶湖に向かって敷設されたレール、桜花を載せる台車に取り付ける噴射装置などが写っていた。

さらに1枚の写真の裏面には、基地全体の配置を記したスケッチも描かれていた。レールや回転台の位置、特攻隊員が宿泊した施設やカタパルトの部材を隠した場所まで詳細に書き込まれていた。

桜花を載せるため車体の枠が外され、台車となったケーブルカー(比叡山鉄道提供)

後に破壊前の昭和20年10月23日に米軍が基地を撮影したフィルムが米国で見つかり、スケッチに描かれていた複数の回転台やレール、格納壕(ごう)が写っていたため、スケッチが正確な描写であったと証明された。

ケーブルカーは接収

「2トンの桜花を麓からケーブルカーで山へ上げる点が比叡山基地の特徴だった」

「本土決戦と滋賀」の著書がある滋賀県立虎姫高校非常勤講師、水谷孝信さん(69)が解説する。

水谷さんによると、桜花は山や丘にカタパルトを設置し、固形ロケットで発射。ターボジェットエンジンと滑空で250キロを飛び、敵を攻撃するという特攻兵器だった。

比叡山は道路も鉄道も近く、米軍上陸が想定される伊勢湾や紀伊半島、大阪湾まで十分カバーできるため、20年5月に工事が始まった。当時、観光客はほとんどいなかったというが、軍に接収されたケーブルカーとその駅は基地建設の資材と桜花の機体運搬用に改造された。

特攻兵器「桜花」(約6㍍)の実物大の模型(靖国神社提供)

一方で、基地建設は極秘で、延暦寺の僧やケーブルの運転手にも知らされなかったという。

発掘調査や展示を

「桜花の搭乗員は、20年8月初めには比叡山の宿坊に宿舎を移していた」

水谷さんはいう。死の覚悟を決めた搭乗員だったが、終戦を迎え、比叡山から桜花が飛び立つことはなかった。

「本土決戦が現実となっていたら彼らの命はなかった」という水谷さんは「ケーブルの駅からレールを設置して、今のドライブウェイの付近まで特攻基地があった。ケーブルカーのレールも含めて戦跡。説明板の1枚でもあれば、後世に伝わるものがある」と訴える。

数年前、ケーブルカーを運行する比叡山鉄道は、基地の発掘調査を大津市や延暦寺に相談している。同社取締役の西田陽一さん(61)は、「延暦寺は世界文化遺産にも登録されており『簡単には発掘できない』との回答だったと聞いている。ただ、多くの人に見て、知っていただき、後世に戦争の悲惨さを伝えるという意味でも、基地の発掘調査や何らかの展示ができればと期待している」と話していた。(野瀬吉信)