国民民主党は大塚耕平さんがいたからこそ…早すぎる逝去に「盟友」古川元久氏が涙〈追悼あいさつ全文〉
国民民主党代表代行などを務めた大塚耕平・元参院議員が3月2日、66歳で死去した。
大塚氏と同じ愛知県選出で、旧民主党時代から20年以上行動をともにしてきた国民民主党の古川元久代表代行(衆院愛知2区)は5日、党代議士会でのあいさつで、涙ながらに大塚氏との思い出を振り返った。
古川氏の追悼あいさつの全文を紹介する。
大塚耕平(おおつか・こうへい) 名古屋市出身。日銀職員を経て、2001年の参院選で民主党から愛知選挙区に立候補し初当選。内閣府副大臣や厚生労働副大臣、民進党代表などを歴任し、2018年には国民民主党の結党に加わった。4期目途中で議員辞職し、2024年11月の名古屋市長選に出馬したが落選。今年2月の衆院選では、国民民主党愛知県連から愛知6区への立候補を打診されたが、体調不良を理由に辞退していた。
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◆最初から名古屋市長をやりたいと
もともと、大塚さんを政治の世界に誘ったのは私であります。当時、日銀にお勤めだった大塚さんに、参議院選挙の愛知県の候補者を探す中で、いい人いないかということで、高校の先輩でもあり、いろいろ政策的なことにもご関心を持っておられた大塚さんにお声がけをした。

国民民主党の拡大代議士会の冒頭あいさつで、亡くなった元参院議員の大塚耕平氏について話し、涙を流す古川元久代表代行=5日、佐藤哲紀撮影
実は本当は大塚さんは、最初から名古屋市長をやりたいっていうお話だったんです。ただ、名古屋市長を最初からということもなかなか(難しく)、日銀から急にということもありましたので、まずは参議院でどうでしょうかということで口説いて、そこで参議院に出ていただいて、以来4期24年あまり、本当に一緒に苦楽をともにしてまいりました。
いろんな厳しいときは、何かあると大塚さんに相談して、大塚さんのアドバイスを聞きながら…。常に大塚さんは冷静で、大所高所に立って、私のようにあんまり激することもなく、常に本当に誰に対しても公平な観点で物を見ていく、そういう人でした。
◆もう一度国政に戻ってほしかった
(2018年に)国民民主党を立ち上げるときも、本当に大塚さんがいたからこそできました。国民民主党の名前もそうだし、綱領もそうだし、考え方も含めて大塚さんがいたからこそ、今があるというふうに思っています。

大塚耕平氏(2024年撮影)
この前の(衆議院)選挙のときに、さっき申し上げたように、大塚さんが最初からやりたいと言われていた(2024年の)名古屋市長選挙は残念ながらああいう結果になりましたけども、やはりもう一度、国政に大塚さんに戻ってきてもらいたいっていう思いでお話をさせていただいて、ご本人も一度「それならば」という思いを持っていただいたんですが、市長選挙の後からちょっと体調崩されて、やはり体の問題のことを気にしておられました。
◆もう一度こちらから連絡できていれば
ですので、私どもから「いや、もう、そこは体をいたわりながらでいいですから」ということでお話をさせていただいて、「とにかく街宣カーを回すだけでいいです、あとはわれわれでやりますから」ということも申しあげて、いったんは「それなら」という思いを持っていただいたんですが、その後また急にちょっと体調悪くされて入院されるということになって、結果的に立候補を断念されたということもありました。

国民民主党の拡大代議士会で、亡くなった元参院議員の大塚耕平氏を悼み黙とうする玉木雄一郎代表(後方右)、古川元久代表代行(同左)ら=佐藤哲紀撮影
今から思うと、その一連の経緯の中で話をしたのが、ご本人とお話をする最後になってしまいました。それ以降、良くなられたかなという思いはありながらですけども、まだちょっと調子悪くて、っていうお話を伺っていたので、あえて連絡をせずにいたんですけども、こういうことになってしまった今、もう1回こっちから連絡すれば良かったかなという、本当に残念な思いでいっぱいです。
大塚さんが残してくれたものを私たちがしっかり守って、この党を大きくして、そしてこの日本をリードしていく。そうした役割を果たしていくことが、これが大塚さんに対する最大の恩返し、そしてご供養になるんじゃないかなというふうに思っています。
私にとっても本当に恩人であり、党にとっても欠かせない人でした。大塚さんのご逝去にあたり、皆さんと黙とうをささげたいと思いますので、ご起立をいただきたいと思います。黙とう。
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