「上皇・美智子さまご夫妻」と「天皇・雅子さまご夫妻」の間にあった「方針の違い」とは? 皇室記者が描く「平成の皇室」の姿
宮内庁担当記者を務めてきた大木賢一氏が、皇室内部での「衝突」を描き、発売からすぐに3刷が決まるなど大きな話題になっている『「平成の天皇家」と「令和の天皇家」』。精神科医の香山リカさんが同書を評します。

「上皇・美智子さまご夫妻」と「天皇・雅子さまご夫妻」の間にあった「方針の違い」とは…? 皇室記者が描く「平成の皇室」の姿
よくある“皇室礼賛物語”ではない
天皇家。
日本でいちばん敬われ親しまれている家族だ。そして同時に、良い意味でも悪い意味でも、日本でいちばん話題にされることの多い家族でもある。とくにネットが普及して誰もが匿名で発信することが可能になったこの時代、あこがれや尊敬の気持ち以上に、天皇家や皇族に対する苦言や誹謗中傷とも言える辛らつな批判をSNSに投稿する人が増えた。最近では、秋篠宮家の長女・眞子さんの結婚をめぐるネガティブな報道が記憶に新しい。
本書はそんなただ中を生きる「平成の天皇家」と「令和の天皇家」というふたつの家族にスポットをあて、「変化」を軸とした物語として描き出した労作である。著者は20年近くを皇室担当記者としてすごしていた通信社のジャーナリストだが、本書は決してよくある“皇室礼賛物語”ではない。

徳仁皇太子ご夫妻と明仁天皇ご夫妻(2002年撮影当時)〔PHOTO〕Gettyimages
冒頭からいきなり不穏な話が始まる。2008年、当時の宮内庁長官が「徳仁皇太子一家が明仁天皇夫妻の元を訪れる『参内』の機会が増えていないとして苦言を呈」した、というのだ。当時の新聞は「長官が御所の訪問回数に苦言を呈するのは極めて異例」と報じた。
当時はどのような時期だったか。雅子皇太子妃はそれを遡ること4年半、2004年に「適応障害」というメンタル不調の診断を下されており、療養を続けていた。06年8月には、徳仁皇太子一家は静養のためオランダを私的に訪問。翌07年5月、ヨーロッパ訪問を控えて記者会見に臨んだ明仁天皇は「私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません」と語り、暗に長男一家への揶揄ではないかと話題になった。
著者は、こうした一連の流れを間近で見て、明仁天皇夫妻からは「自分たちは『公』を何よりも大切にしてやってきたのだという自負を感じ」たと述べる。裏を返せば、それは徳仁皇太子夫妻は「私的」だし、皇室の在り方に反すると牽制するものでもある。
美智子皇后・明仁天皇が選んだ道
しかし、その明仁天皇夫妻も、かつては「私的だ」と批判されてきたのだ。1993年、平成5年つまり即位から4年あまりがたった頃から、主に雑誌を舞台として、新御所には大きなホールが併設されて「贅沢だ」とか人前でテニスをするのは「目立ちたいから」だとか、バッシングの嵐が吹き荒れた。93年10月、ついに美智子皇后は体調を崩して倒れ、言葉が出ない状態にまでなってしまった。国民は事態の深刻さに驚き、美智子皇后への同情の声が高まった。そして、翌年には無事に発声が回復する。

明仁天皇と美智子皇后(1989年当時)〔PHOTO〕Gettyimages
そこで美智子皇后や明仁天皇が選んだ道はどういうものだったのだろう。この機会に「私たちにも『私的』な時間、空間が必要なんです」と主張することもできたと思うが、夫妻はそうはしなかった。本作の著者は言う。
「『私的である』というイメージを払拭しながら、明仁天皇とともに、『公的な装い』を強めていくのである。」
この選択において、次の世代を担う現在の天皇夫妻との道は決定的に分かれたと私は考える。1967年生まれで、60年生まれの徳仁天皇や63年生まれの雅子皇后と世代的に近い著者も、どうやら同じ思いのようだ。
徳仁天皇・雅子さまの模索
主に明仁天皇夫妻の歩みを追った前半の後、「『小和田雅子さん』登場」から始まる後半は、筆致ががぜん力強くなるのを感じる。それは、徳仁天皇と雅子皇后のふたりが、出会い、婚約そして結婚生活を通じて何を追い求めてきたかが明快であることにも関係しているだろう。
では、「令和の天皇家」の夫妻が求め続けてきたこととは何か。「平成の天皇家」が手放し、あるいはイメージ払拭しようとしてきた「私的」ということか。それは違う。本文から引用しよう。
「徳仁皇太子夫妻は、皇室にある人間として、確立した『個』の存在として、『どのような仕事をするか』『どのように仕事をするか』という根本的な問いを、自分の中に抱えていたと考えられる。」
「令和の天皇家」のふたりが求め続けていたのは、「私」ではなく「個」だった。これこそが本書の核であり、同時に「個」は、教育や生活の中で「自分らしさ」を問われ続けてきたこの世代の人たちの人生のテーマそのものでもあるのだ。
徳仁天皇が雅子さまから受け取ったもの
とはいえ、徳仁天皇自身が幼い頃から「個」を探求していたとはとても思えない。それどころか、本書にもあるように、子どもの頃は、未来の天皇として「『誤答』を許さない気風」の中で「超人的な道徳」を求められ続けながら育った。
その後のイギリス留学などで次第に「個」に目覚めたことが考えられるが、やはり決定的だったのは「小和田雅子さん」との出会いと結婚だ。結婚前、ハーバード大学、東京大学、オックスフォード大学という世界のトップの大学で学んだ経験を持ち、若き外交官として活躍していた「雅子さん」について、著者はこう記す。
「二〇代後半に至る年代でのこうした十分な期間と経験を通して、『小和田雅子さん』が確固とした自分と確立された『個』を持っていたことは、当然と言える。外務省での仕事にやりがいを感じていればいるほど、その『個』は強固なものだったはずだ。」
そして、おそらく当時の徳仁皇太子が強くひかれたのも「雅子さん」が「個」を確立しており、自分で選んだ仕事に生きがいを感じていたからだったのではないだろうか。だからこそ、婚約内定の記者会見で「皇室という新しい道で、自分を役立てる」と述べた「雅子さん」の決意を受けるかのように、徳仁皇太子は結婚後の誕生日の会見などで何度も「新しい公務」へのこだわりを見せたのだ。言葉をかえればこれは「ほかの誰でもない、自分たちにしかできない公務」ということにもなるだろう。
現代を生きる身としては「自分らしい仕事」「誰にもできない役割」を求めるのは当然だが、それを皇室で実現しようとした時点で、大きな壁が立ちはだかるのはすぐに想像できる。皇室とりわけ天皇の最大の役割は「継承」だからだ。この「継承」とは、長く伝わってきた伝統を守り引き継ぐことと同時に、「天皇家」そのもの継続、つまり男児の出生をも意味する。
理解されない皇太子妃
しっかりとした「個」を持ち、それにひかれたという相手とめぐり合って結婚を決めた雅子皇太子妃にとって、「継承」へのプレッシャーがいかに大きかったか、またなかなか外交官というキャリアを生かして「新しい道で自分を役立てる」機会を得られないことがいかに苦しかったか。それは決して「わがままな私的な活動の優先」などではない。著者はそのことを言葉を尽くして解き明かす。本文から引用しよう。
「雅子皇太子妃にとって、『外国と関わること』は、自らの存在意義にも等しいことであり、後に中傷されるような、単なる『海外好き』『外国生活かぶれ』などというものとはまったく異質であったことを、ここで確認しておきたい。」
しかし、夫妻のその思いは不幸なことに世間のみならず皇室内でもすぐには理解されなかった。ついに雅子皇太子妃は体調を崩して2003年末頃から公務を欠席するようになり、04年7月には徳仁皇太子の口から「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」という「人格否定発言」が飛び出し、世間を震撼させた。

徳仁皇太子と雅子さま(2003年当時)〔PHOTO〕Gettyimages
その後、雅子皇太子妃の療養は長く続き、さらに愛子内親王の不登校問題なども起きたが、それでも徳仁皇太子は一貫して妻や子どもを守り、尊重する姿勢を崩さなかった。そのような中、明仁天皇は2016年8月8日にビデオメッセージで退位の意向を示し、閣議で19年4月30日をもって退位することが決定された。それが徳仁天皇、雅子皇后の誕生を意味するのは言うまでもない。
即位後の雅子皇后は、「体調の波」があるとしながらも公務につとめ、欠席の回数は次第に減っていった。途中、コロナ禍もあったが、愛子内親王が順調に勉学を続け、2020年には高校から大学へと進学したのも心の支えとなったであろう。

愛子さま(2025年)〔PHOTO〕Gettyimages
また23年6月の即位後はじめての海外公務となるインドネシアへの公式訪問を皮切りに、外国にもときどき出かけるようになった。いまでは明仁上皇夫妻との関係も穏やかなものになっているように見える。
「家業」をめぐる方針の相違
本書がユニークなのは、この一連の流れに「天皇家」という日本にひとつしかない存在をめぐる特殊性を見ながらも、一方でより一般的な家族論、世代論をも見ようとしていることだ。いま一度、本文から引用させてもらおう。
「老境に達した七〇代の夫婦と、四〇代の息子夫婦。『世襲』の制度から免れることのできぬ二組の夫婦の間に、いわば『家業』をめぐる価値観と方針の相違が存在したことは、世間一般の常識から見て、至極当然のことだったと思う。創業者から『家業』を受け継ぐ二代目が、親に反発しながら独自性を発揮しようと懸命になるのはよく聞く話だ。」
いわゆる「雲の上の存在」である天皇家や皇室に私たちが親しみを抱き、同時に「あの長男、親に失礼じゃない?」などと隣近所の人のウワサをするように語ってしまう理由は、どうやらこのあたりにありそうだ。
私自身、徳仁天皇と雅子皇后の忘れられない写真がある。2024年6月の英国訪問中、ふたりの“学び舎”であるオックスフォード大学を訪れたときのことだ。徳仁天皇が留学中にすごしたという学生寮の部屋の小さな窓から顔を出したふたりは、笑顔で報道陣らに向かって手を振った。心の底から楽し気なその笑顔を見ながら、「またここで勉強できたらいいのにね」「あのとき留学から戻らずに研究者になっていたら、どんな人生だったでしょうね」などと話したのではないか、などとつい想像してしまった。

2024年、イギリス・オックスフォードを訪れた徳仁天皇ご夫妻〔PHOTO〕Gettyimages
天皇家の構成員である以上、いくらそう望んでも改革を試みても、完全に「個」として生きることはできない。徳仁天皇も雅子皇后ももちろんそれを受け入れ、いまに至っているのだと思うが、それでもときどきは、「もっと別の人生を生きてみたかった」と思っているのではないか。まことに“余計なお世話”ではあるが、同世代の熱血漢が書いた本書を読みながら、ふとそんなことも考えた。そして、いろいろな挫折や後悔はあるが、「個」として生きることを許されている我が身の幸せを改めてかみしめもしたのであった。