振りかざされた一億玉砕「本土決戦」の荒唐無稽 現実を無視、破綻した日本陸軍の精神論

先の大戦末期、本土決戦に向けて行われた竹やりの訓練
昭和20年8月15日、昭和天皇がポツダム宣言受諾を国民に公表。12年7月の日中戦争(盧溝橋事件)から8年続いた戦いは終結した。日米開戦以降、圧倒的な戦力をもつ米軍の前に敗走を重ねた日本陸軍は有効な手立てがないまま「一億玉砕」を振りかざして本土最終決戦に執着した。最終的に昭和天皇の降伏決断で回避されたが、専門家は「陸軍の特性、問題点が凝縮した作戦だった」と指摘する。

昭和19年7月、大本営が設定した「絶対国防圏」の中にあったサイパン島がわずか3週間で陥落。その後フィリピンで決戦をもくろむが、それも失敗した。
20年1月、大本営は日本列島で米軍を迎え撃つ準備を開始。陸軍は本土に地上兵力を集結した決戦にこだわった。一方、海軍は19年10月のフィリピン・レイテ沖海戦で壊滅的打撃を受けており、かろうじて台湾~沖縄での決戦を想定した。
日本軍の念頭にあったのは敵に一矢報いてからの「一撃講和」だったが、陸海軍は最後まで軌を一にしないまま、本土決戦は陸軍主導で計画される。
「陸海軍の間では、事ここに至ってもねじれが生じていた。陸軍には『島嶼(とうしょ)戦では消耗して負けたが、本土では勝てる』と、願望にも似た思いがあった」。防衛研究所の新福祐一2等陸佐(54)が説明する。
20年4月、大本営陸軍部は「決号作戦」の準備要綱を発令。米軍上陸予想地点として日本列島を6区域に分けて起案され、中でも米軍が中継基地として九州を占領した後、関東に上陸するのが有力と想定した。
従来、陸軍は島嶼戦で上陸する敵を海岸沿いで攻撃する「水際撃滅」が基本だったが、サイパンで瓦解(がかい)した。このため決号作戦では兵力を結集した後に上陸した敵を撃破する「沿岸撃滅」を採用。上陸地点と予想した6カ所で陣地構築などを進めた。

防衛研究所の新福祐一2等陸佐
しかし、6月20日には一転して水際撃滅に作戦を変更。現場は混乱し、「腰を抜かさんばかりに驚いた」連隊長もいた。
決戦に備えて軍は150万人の動員を目指したが、兵力だけでなく武器や資材も乏しかった。新福氏は「戦法の変更は、兵力の素質などをかんがみて沿岸撃滅が成立しないと考えたためだ」と推定。陸軍は上陸地点で日米双方が入り乱れる差し違え戦法を選んだ。
一方で、国内は焦土と化し、8月には広島と長崎に原爆が投下され、中立条約を破棄した旧ソ連が参戦。昭和天皇は8月10日の御前会議で「和平の聖断を下した」とされる。
本土決戦はぎりぎりのところで回避された。米軍も、日本上陸による「ダウンフォール作戦」を起案。12月に南九州侵攻作戦、21年3月には関東上陸作戦の発動を想定していた。
武器、物資なき命令 頼みは「石に立つ矢」
「本土決戦は国体護持のための一撃講和という目的だったが、陸軍は最後の決戦を行うこと自体に執着した」。防衛研究所の新福祐一2佐は、作戦を立案・指揮した大本営陸軍部の問題点を指摘する。

各地で敗退を重ね、追い詰められた日本。「根こそぎ動員」で兵士がかき集められたが、銃は兵士10人に1丁の割合しかなかった。代わりの武器と言っても、模造銃剣や竹やり。すでに万策尽きていた。
上層部がすがったのは「一死必殺」の精神論。「頼みは『石に立つ矢』の念力だった」。戦後、大本営陸軍部作戦部長だった宮崎周一はこう回想したという。「石に立つ矢」とは、「一心不乱にやれば不可能なことはない」という中国の故事に基づく例えだ。
だが、現場部隊には水際撃滅の命令のみで、必要な武器や物資は与えられなかった。
《軍隊は自活に専らにして訓練築城に不十分》《(軍紀風紀)逐次弛緩(しかん)》
「大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌」(錦正社)で、宮崎は現場の姿勢を非難している。理想と現実とのギャップは、現場の努力と工夫で補うことが求められた。先の大戦では、この図式が繰り返された。
「客観的な分析に基づく合理的判断よりも、個人の主観による判断が優先された」。新福氏は大本営陸軍部の姿勢を問題視する。
作戦が遂行できなくなると、現実を無視して精神論に委ねる。「個人の信条とすべき事項を組織として皆に強制した」。その結果、「特攻」「玉砕」で死ぬことが前提になった。上層部にとって、その対象は自分以外の誰かだった。
新福氏は「陸軍は国家の戦争を個人の信条に単純化・矮小化(わいしょうか)した。そこに問題があった」と指摘する。
負の教訓、今につなぐ~取材後記
「近代戦の常識ではあり得なかった」。10年前に取材した元陸軍少尉は振り返った。昭和20年8月15日、陸軍士官学校卒業直後で、本土決戦に備えて鹿児島・志布志湾で終戦を迎えた。武器の一部は日露戦争当時の砲だった。「負けるべくして負けた戦だ」。元少尉のやりきれない表情が思い出される。
軍上層部は、日露戦争当時の武器や竹やりで、本気で米軍に一撃を与えられると考えていたのだろうか。
軍事機密などの公文書がつづられ、大本営陸軍部作戦部長の宮崎周一が所持していた「本土決戦関係兵備綴」で、「屈敵兵器の考案」と記された書面には、「殺人光線に依(よ)る大量殺戮(さつりく)」「精神破壊(恐怖病激発)兵器」などの文言が図とともに列挙されている。まじめな発想だったかもしれないが荒唐無稽過ぎる。
また、防衛研究所の新福祐一2佐は「陸海軍のセクショナリズムの弊害が大戦を通じてあった」と指摘。根本的なねじれは、本土決戦準備に至る最後まで解消されることはなかった。
日本軍部では、大局的な作戦、戦略観よりも個人の信条や組織のメンツが優先された。現代にも通じる教訓として、心に刻みたい。(池田祥子)