「陸上を辞めてしまうと思った」 中3で全国V、低迷…“消えた天才”中島ひとみを30歳で甦らせた「日本一」の資質【東京世界陸上】

女子100メートル障害準決勝に出場した中島ひとみ【写真:中戸川知世】

女子100m障害でセミファイナリストに、恩師・藤川浩喜監督が知る素顔

陸上の世界選手権東京大会(国立競技場)は15日、女子100メートル障害準決勝が行われ、初出場の中島ひとみ(長谷川体育施設)は13秒02(向かい風0.2メートル)で組7着。決勝には届かなかった。中学時代に全国制覇を経験するも、その後はスランプを経験。一度は“消えた天才”となったハードラーが、30歳で初めて日の丸を背負うまで這い上がってきた。園田学園大時代に指導した藤川浩喜監督が知る素顔とは。(取材・文=THE ANSWER編集部・山野邊 佳穂)

「『陸上を辞めるかもしれない』というところまでいきましたからね」

社会人3年目頃のことだった。中島は人に弱みを見せるタイプではない。だからこそ、藤川監督も印象的だった。

「あの時点で辞めてしまうかなと思ったんですよ。頂点に立った経験があると、負ける自分が許せなくて辞めてしまう子も沢山いる。陸上競技にしがみついて、他に何もできないとその後の人生がしんどくなる。だから、辞めても良いと思っていた。ただ、ここまでくるとは誰も思っていなかった。諦めずによく頑張ったと思う」

30歳にして世界最高峰の舞台に辿りついた教え子の歩みを称えた。

荒牧中(兵庫)時代、最初はバスケットボール部に所属した。陸上競技部からの猛アピールを受けて転部。3年時に出場した全中女子100メートル障害で優勝し、夙川学院高(兵庫)2年時には、国体優勝を果たした。着実に実績を積み上げていた矢先、歯車が狂い出す。3年時は近畿大会の準決勝で敗退し、インターハイにすら出場できなかった。

レース前にポーズを取る中島【写真:中戸川知世】

15歳にして掴んだ“日本一”の称号。手にしたものは自信か重圧か――。

藤川監督は「プレッシャーも大きかったと思う」と思いを明かす。園田学園大時代は日本インカレに出場するも4年時の5位が最高成績。タイトルからは遠ざかった。卒業後に入社した長谷川体育施設でも日本選手権では準決勝敗退が続いた。

実業団は部活動とは違う。給料をもらう立場となり、アスリート枠にも制限がある。結果を残せない現実に負い目を感じる選手も少なくない。小学校や中学校のジュニア年代で日本一になっても、その後に伸びずに消えていく早熟だっている。

中島は初めての世界陸上に出場し「続けてきて良かった」と笑顔を見せた【写真:中戸川知世】

藤川監督が「日本一」と評する資質 思い出す大学4年のエピソード

中島自身も“消えた天才”と言われた時期がある。しかし、昨年9月に12秒99を記録し注目を集めると、今季は日本歴代2位となる12秒71を記録。7月の日本選手権では準優勝を果たし、30歳で初めて日の丸を背負った。

引退も考えたハードラーはなぜここまで這い上がってこられたのか。

「勝負魂は今まで見てきた選手の中でも本当に高い。めちゃくちゃ負けず嫌い。そこが日本一なんじゃないかな」

練習は納得するまで続ける。4年間、陸上競技に取り組む姿勢を見てきたからこそ、知る強さがある。

大学4年時の日本インカレ。中島は100メートル、200メートル、100メートル障害、4×100メートルリレー、4×400メートルリレーにエントリーした。5種目は異例中の異例。2日目を終えた時点ですでに疲労困憊だった。藤川監督は宿舎でその後に行われる200メートルの欠場を提案。ただ、なかなか首を縦に振らない。「負けたくない」と。

最終的には欠場するも、負けん気は筋金入り。決めたことは貫き通す。可愛らしい笑顔の奥にある強さが、再びトップまで呼び戻した。

初出場ながら予選を突破し、セミファイナルへ。世界でたった24人しか辿り着けない特別な舞台。諦めなかった先に見えた世界とは――。準決勝のレース後、中島は言った。

「一生忘れられない景色。続けてきて良かったなあって思いました」

目にうっすらと浮かべた涙も笑顔も、重ねた苦悩の分だけ輝いていた。

THE ANSWER編集部・山野邊 佳穂 / Kaho Yamanobe

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