日本人は「ネトフリで禊」の異常さをわかってない

今年4月に週刊誌で俳優の田中圭さんとの不倫疑惑が報じられた俳優の永野芽郁さん。Netflix映画が復帰作になったことで話題となっている(出所:Netflix公式サイトより)
俳優の永野芽郁さんが、2026年配信予定のNetflix映画『僕の狂ったフェミ彼女』に主演することが発表され、不倫報道後の復帰作品ということもあって、ネット上では物議をかもしている。
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不倫疑惑→活動休止→Netflix映画で主演
今年4月に週刊誌で俳優の田中圭との不倫疑惑が報じられ、当時出演していたCMや広告がすべて降板になっていたからだ。NHKの大河ドラマも自ら辞退し、事実上の活動休止の状態になっていた。
不倫疑惑の真相はいまだ藪の中だが、清純派女優として人気絶頂を極めていたことから、不倫報道によるイメージダウンはかなり致命的なものとなった。ラジオ番組で反省の弁は述べたものの、公式のコメントはなく、早期の復帰は危ぶまれていた。
このような「ネトフリで禊(みそぎ)」とでも表現したくなる海外資本のネット配信サービスからの復帰は、最近のパターンになりつつあるようだ。地上波のテレビなどに比べて、出演者の起用に関する自主規制が少ない傾向があり、以前からスキャンダル後の俳優などの「受け皿」として機能している部分があった。

(出所: ピッコマ公式サイト )
20年に俳優の唐田えりかさんの不倫報道があり、民放のドラマが降板・差し替えとなり活動自粛に追い込まれたが、その後、Netflixのドラマ作品『極悪女王』などへの出演が報じられた。これが活動再開のモデルケースになっている。

『極悪女王』では好演を見せた唐田えりかさん(画像:Netflix インスタグラムよりスクショ)
こちらは不倫報道ではないが、19年に薬物事件で逮捕されたミュージシャンのピエール瀧さんも、Netflixドラマ『全裸監督2』が復帰作の一つとなった(逮捕当時、多くのメディアが配信停止や撮り直しなどで対応する中、Netflixは『全裸監督』の出演シーンをカットしなかった)。
不倫報道レベルではペナルティが生じない欧米
本来は個人的な事案である不倫と、法を犯す薬物を並列して語ることの難しさは一旦脇に置いておくとして……これらのいびつな状況は、日本特有のガラパゴス的な構造が大きく影響している。
すでに多くの識者が指摘していることでもあるが、そもそも欧米などの先進国と比較すると、俳優の不倫報道レベルで同様のペナルティは生じないことが挙げられる。
もちろん、俳優はドラマなどの出演料だけでは収入面で厳しく、ブランディングが重視されるCMや広告などへの依存が進んでいることがあるが、その背景には不倫などを個人の問題として片付けられず、何らかの社会的制裁が必要とする価値観――私的領域の問題が公的領域における評価を左右してしまう――による強い影響がある。
要するに、多くの人々は不貞行為を個人の私生活の問題として見過ごすことができず、不貞行為の当事者は「世間」からいったん身を引くのが自然だと考えているのだ。この不貞行為の発覚から社会的制裁への移行は、とてもシームレスであり疑問に思われることが少ない。
ここで重要になるのは、「世間をお騒がせした」というよく聞く謝罪の理由だ。道徳的な面で「世間」を裏切ったこと、それによって「世間」に悪影響を及ぼしたことが含意されているからである。
『「世間体」の構造』(講談社学術文庫)で、心理学者の井上忠司は、戦後に家族国家観イデオロギーは崩壊したが、「ソトなる『世間』の価値にコミットすることによって、ウチなる自分を見つめるという、わが国の人びとに特有な(略)構造の本質は、いっこうに変わってはいない」と述べた。
つまり、そこには独立した個人が寄り集まって構築され、そのあり方について絶えず議論が交わされるような西欧近代的な意味での「社会」は存在せず、あらかじめそこにあるものとしての「世間」が家族や仲間内などを通じて人々を常に支配しており、長らく対象化されることすらなかったのである。
また、井上によれば、個人は、地域社会などの「中間集団」を媒介にして、広い社会の姿を思い描くことができたが、「中間集団」が衰退し、それに代わるものが生み出されないとき、個人は自分と社会との接点を見失って、不安を感じるようになる。そのため、身近な家族か、または巨大な集団(国家など)への依存を強めていくという。
あいまいになる境界線
そして、マスメディアの発達が巨大な集団の目となる「世間」を飛躍的に拡大させたという。人々は、多様な個人になると思いきや、かえって「世間」というモノサシに引きずられるようになった。
井上は、「今日では、『セケン』と『タニン』ないしは『ヨソのヒト』とのあいだの境界線が、かなりあいまいとなってきていることは、否定できない。逆にいえば『タニン』ないしは『ヨソのヒト』の世界が、タニンのままにとどまらないで、『セケン』となりうる機会が、大はばにふえている」と主張した(前掲書)。
そうなると、自分の身内でも知り合いでもないが、マスメディアによって拡張された「世間」において、有名人も当然のように「世間」の住人としてカウントされることになる。そのため、「世間」のルールに従わない、「世間体」の悪い者は、「タニン」「ヨソのヒト」で済ますわけにはいかなくなるのだ。
ここにこそ、「世間」の名を借りて不貞行為を行った者を罰したくなるニーズ=現代におけるガス抜きとしてのバッシングが発生する根本原因がある。それゆえ、マスメディアの周辺の人々も拡張された「世間」の評判を先取りして、あらかじめリスクを摘んでおこうという振る舞いを身に付けることになる。不倫報道で「世間」意識を強化するのがメディアであれば、その強化で「世間」を内面化した人々の反応に忖度するのもまたメディアという循環構造ができている。
芸能人の不倫に対し、「不倫された側が文句を言うならわかるが、視聴者がとやかく言うことなのか」「そもそも芸能人のその手の話には興味がない」と感じる人も少なくないだろうが(というか、大半かもしれないが)、「世間」が拡張され、ガス抜きとしてバッシングが機能する以上、この現象は続くのだろう。
その一方で、近年、人々の間では、「過剰なコンプライアンス化」の裏返しとしての「健全化への欲求」が高まっている。社会学者のアンソニー・ギデンズなどが述べているように、現代においては絶え間ない選択と不確実性の中で、個人は自律性を発揮し、自らの感情や行動を適切にコントロールする能力がより強く求められるようになったからだ。
規則・ルールを重視する傾向が強い日本
逸脱者や抜け駆けに対する不快感や怒りが反動的に生じやすくなっており、不倫だけではなく、違法薬物の使用に関するスキャンダルも含めて逸脱行為そのものが罪深く、罰すべき対象とみなされるのである。そもそも日本は、以前から規則・ルールを重視する傾向が非常に強い。
モラルジレンマをめぐる国際比較の調査では、信号無視をしている歩行者について「死んでも仕方がない」と考える傾向が、日本などの一部の国が他国に比べて強いことがわかっている(Self-driving car dilemmas reveal that moral choices are not universal/Nature/2018年10月25日号)。
とはいえ、わたしたちは、前述の自己管理能力が失われる恐れと戦いながら、社会の閉塞感に息苦しさを感じてもいる。その真因はまさしく拡張された「世間」と「健全化」へのあくなき固執のせいでもあるのだ。
しかも、この固執を浮き彫りにする一助になったのは海外の配信サービスという本物の「タニン」「ヨソのヒト」であったことは、大いなる皮肉といえるだろう。Netflixにとってグローバル市場こそがその中心にあり、日本の狭い「世間」の諸事情などはほとんど考慮の外とされるからである。
わたしたちは、このような日本の特殊性に基づく不祥事のサーカス(見世物)化が、ただでさえ窮屈な社会状況をより窮屈なものに変えていることにもっと目を向けるべきだろう。ほかならぬ部外者によって照らし出されている現実が、笑止千万なものになっているという事実に。