明確な「国際法違反」の指示に困惑…「パナマ運河攻撃」の途上、太平洋上で終戦を迎えた日本海軍の「潜水空母」

今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。

太平洋上で聞かされた「降伏宣言」

「ひと言で言って、アンビリーバブルですよ。わずか3週間前に見送りを受けて大湊を出港してきたばかりなんですから。8月15日午後、浮上したさいに電信でもたらされた陛下の詔勅を読んで、艦長が、『これはデマだ、こんな馬鹿なことがあるものか!』と叫びました」

と言うのは、「潜水空母」とも称される超大型潜水艦・伊四百一潜に搭載された特殊攻撃機晴嵐(せいらん)の隊長だった淺村敦さん(当時23歳、大尉)である。淺村さんは、西太平洋・ウルシー環礁の米艦隊泊地への特攻出撃に向かう途中で終戦を迎えた。

太平洋上で聞かされた「降伏宣言」, アメリカの交通網を破壊する「パナマ運河攻撃作戦」, 特攻作戦への変貌, 本土決戦を前に頓挫したパナマ運河攻撃作戦, 米軍模様に塗り替えられた「日の丸」, 海に消えていった晴嵐, 伊四百一潜の軍艦旗の降納, 現代に蘇った「晴嵐」

伊号第四百一潜水艦を真横より見る

「それでも、伊四百一潜はあくまで任務を完遂すべく、ウルシーに向かいました。『降伏』という発想自体を持たなかった私たちにとって、ここで引き返す選択肢はなかったんです」

翌8月16日夜、作戦中止と帰投命令が相次いで届き、伊四百一潜は、やむなく日本に向けて舵を切った。ウルシー攻撃に向け晴嵐3機が発進する予定時刻の、わずか数時間前のことだった。

淺村敦さんは大正11(1922)年、大阪府生まれ。昭和13(1938)年、府立生野中学(現・生野高校)より海軍兵学校(70期)に進み、卒業後は戦艦陸奥航海士を経て飛行学生を命ぜられ、水上偵察機の操縦員となった。茨城県の鹿島海軍航空隊で教官配置についたのち、昭和19(1944)年10月、巡洋艦青葉飛行長として比島沖海戦に参加したが、青葉はルソン島西方で敵潜水艦の魚雷を受け損傷。淺村さんが台湾・高雄基地に引き揚げると、横須賀海軍航空隊への転勤命令が届いた。

アメリカの交通網を破壊する「パナマ運河攻撃作戦」

「さっそく着任してみると、そこではオレンジ色に塗られた晴嵐の試作機――その頃は『M6』と呼ばれていました――が、航空技術廠飛行実験部員(テストパイロット)・船田正少佐の手で飛行実験を繰り返していました。『M6』は、テストが終了次第、晴嵐と名付けられ、ただちに開設準備中の第六三一海軍航空隊(六三一空)に配備されることになっていました」

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「晴嵐」。世界に類例のない、潜水艦搭載の攻撃機だった

淺村さんは、飛行学生の頃に教えを受けた教官・福永正義少佐から六三一空への誘いを受け、喜んでこれを受けた。福永少佐は水上機の名パイロットとして知られ、六三一空飛行長になることが決まっていた。12月、淺村さんは六三一空の飛行隊長に発令された。

六三一空は、晴嵐を装備して、並行して建造中の伊四百型潜水艦の各艦に搭載され、ある重要な極秘任務につくことになっていた。

パナマ運河攻撃である。

「潜水空母」の構想は、開戦直後、山本五十六連合艦隊司令長官の着想で具体化したもので、その作戦は、遠路インド洋から喜望峰を経由、大西洋側からパナマ運河の閘門(こうもん)を攻撃、爆砕して、太平洋と大西洋を結ぶ交通を遮断するという壮大な計画だった。

アメリカの工業地帯の多くは東海岸にあるので、船舶、物資を太平洋側に輸送するにはパナマ運河を通らねばならない。この作戦が成功すれば、商船だけでも数百万トンを沈めるに匹敵する効果が期待できる。米大西洋艦隊が出てくるにしても、遠く南米のチリ沖を廻るか、大西洋から喜望峰経由でインド洋を横断してこなくてはならない。そこに日本海軍の潜水艦部隊を配置すれば、米艦隊を一網打尽にすることができる。――そのために、巡航速度で地球を一周半できる長大な航続力(14ノット〔時速約26キロ〕で37500浬〔カイリ。約69450キロ〕)をもつ超大型潜水艦と、それに搭載される高性能な攻撃機が開発されたのだ。

晴嵐は、潜水艦に搭載するため分解、折りたたみができ、着水用のフロートをつけなければ戦闘機並みの高速を誇り、800キロの大型爆弾か魚雷を積むことが可能な新鋭機だった。潜航中の狭い艦内であらかじめエンジンオイルを暖め、暖機運転をするために液冷エンジンを採用し、地球上どこでも方位に誤差が出ないよう、水上艦艇でさえ全てには装備されていなかったジャイロコンパスを備えるなど、その時点での日本の航空技術の粋が結集されていた。それら「潜水空母」と晴嵐は、完成すれば地球上どこでも攻撃できるだけの威力と可能性を秘めているはずだった。

特攻作戦への変貌

だが、伊四百型潜水艦は、当初18隻が建造予定だったのが、資材調達、戦況の推移などから何度も計画が見直され、昭和19年12月30日に伊四百潜が、翌20(1945)年1月8日に伊四百一潜が竣工したものの、戦局は日本にとって決定的に不利になっていた。

「それでもわれわれはパナマ運河攻撃のため、猛訓練を続けました。20年4月、私は六三一空飛行隊長の職はそのままに伊四百一潜飛行長を兼ねることになり、6月上旬には、能登半島の七尾湾で、伊四百潜、伊四百一潜、伊十三潜、伊十四潜の4隻の潜水艦で編成した第一潜水隊と、六三一空の晴嵐との総合訓練が開始されました」

総合訓練は、潜水艦が目標に隠密に接近して急速浮上し、折りたたんだ「晴嵐」を展張して連続射出、発進させ、海面に浮かべたパナマ運河閘門の模型を目標に爆撃訓練を行うというものだった。沖縄失陥直前のこの時期においてなお、パナマ運河攻撃という大作戦の準備が着々と進められていたことは驚くべきことである。

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「水平線が視認できないような暗闇のなかでは、上下左右もわからなくなってカタパルト発艦は不可能なので、じっさいの作戦は、残月のある黎明時に発進することになっていました。訓練は、作戦に即して行われましたが、最終的には、晴嵐3機を10数分で発進させることができるようになりました。搭乗員も大変でしたが、整備員はもっと大変でした。飛行機の整備に飛行作業後の手入れ、水洗い。寝る暇がないぐらいです。整備員の苦労にはいまも感謝しています。

パナマ運河攻撃は、最初は通常の爆撃の予定でしたが、だんだん体当りする方向になってきましたね。当時の日本の国力を考えれば、やり直しがきかない。海軍では、生還を期さない作戦など戦術ではないと教えられてきましたが……。これだけの戦備をととのえて、兵器をつくる人の苦労、潜水艦の200名の乗組員、その先鋒に立って、輿望を担って乾坤一擲の作戦に出るんですから。爆弾を投下して当たった、当たらなかったという次元の話ではない。閘門に直接ぶつかるのがいちばん確実な方法であったわけです」

本土決戦を前に頓挫したパナマ運河攻撃作戦

ところがそんなある日、第一潜水隊に攻撃目標の変更が伝えられる。作戦計画の説明を受けた軍令部次長・大西瀧治郎中将の鶴の一声でパナマ運河攻撃作戦は中止されることになり、目前に迫った本土決戦に備えて、来攻する敵兵力に少しでも打撃を与えるべく、太平洋・グアム島とパラオ島の中間に位置し、米海軍部隊が集結するウルシー泊地(現・ミクロネシア連邦ヤップ州)に在泊する敵機動部隊を攻撃することになったのだ。すでに5月、ドイツが降伏し、米大西洋艦隊が太平洋に出てきているいまとなっては、仮にパナマ運河を爆砕しても実効性はうすく、やむを得ない決定だった。

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淺村敦大尉。昭和20年5月、「晴嵐」機上にて

伊十三潜、伊十四潜の2隻は晴嵐を降ろし、代わりに艦上偵察機彩雲を日本海軍の南方の拠点だったトラック島まで輸送し、伊四百潜、伊四百一潜の2隻は、その偵察機の報告に基づいて、おのおの3機の晴嵐をもってウルシーを攻撃することとされた。

第一潜水隊司令・有泉龍之介大佐は、伊四百一潜に乗艦し、4隻を併せて指揮する。淺村さんは、伊四百一潜、伊四百潜の晴嵐各3機、計6機の指揮官である。伊四百一潜艦長は、南部是清少佐だった。

伊四百潜、伊四百一潜は7月13日、七尾湾から舞鶴軍港へ向かい、ここで攻撃準備を完了したのち、青森県大湊(現・むつ市)に回航した。舞鶴では出港を前に、伊四百一潜艦上で出陣式があり、直属の第六艦隊(潜水艦隊)司令長官・醍醐忠重中将より、淺村さんたち6機12名の搭乗員に白鞘の短刀が授与され、この攻撃隊を「神龍(じんりゅう)特別攻撃隊」と命名することが伝えられた。出陣式の終わりに、淺村さんは、

「ここで別れて再び顔を見ることは無いが、お互い自愛自重して任務を達成しよう」

と、部下の搭乗員たちに訓示をした。

米軍模様に塗り替えられた「日の丸」

攻撃にあたっては晴嵐にはフロートを装着せず、800キロ爆弾を積んで出撃することになっていた。そして攻撃終了後は、伊四百潜、伊四百一潜ともシンガポールに回航し、内地から運ばれた新手の晴嵐を搭載、訓練して反復攻撃をかける計画になっていた。

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伊四百一潜の艦橋前部に口を開く飛行機格納筒。ここに「晴嵐」3機を格納した

「目標変更については、特に感慨はありません。体当たり攻撃は、搭乗員として当然の了解事項です。もちろん、死ぬのは怖いですよ。でも、それよりも果たして無事目標にたどり着いて任務を果たせるのかのほうがずっと心配でした。1ヵ月も2ヵ月も潜航したまま飛行作業もせずに、ある日突然、敵地の近くで急速浮上して、暁闇のなか、カタパルトで打ち出されるわけですから……。

しかし、いま思えば、当時の私は23歳の独身者。妻子ある搭乗員はみな、そんなことはおくびにも出しませんでしたが、苦悩はあったでしょう。部下に対して思いやりがなかった、人間として未熟だったと反省しています」

出撃準備の整った伊四百一潜は、7月23日、大湊を出港、ウルシーに向かった。僚艦伊四百とは別行動の上、8月14日に会合し、攻撃は8月17日未明と定められた。

出港に先立って、第六艦隊司令部の指示で、晴嵐の日の丸が米軍の星のマークに描き替えられ、さらに機体の色も、米軍機同様の銀色に塗り替えられた。戦時国際法に違反し、日本武士道にも悖る行為に、隊員たちにはぬぐいがたい後ろめたさが残った。

「信じがたいことかもしれませんが、これは事実です。やり直しがきかない切羽詰まった状況で、攻撃を成功させるため手段は選べなかったんでしょうが……。命令とはいえ、このことだけは釈然としませんでした」

海に消えていった晴嵐

順調に思えた伊四百一潜の作戦行動だったが、思わぬ齟齬が生じる。連絡ミスから、予定の8月14日に伊四百潜と会合できなかったのだ。大湊を出港後に有泉司令が出した針路変更の命令を、伊四百潜が受信していなかったのだ。待てど暮らせど、伊四百潜は会合場所に現れない。

しかも、伊四百一潜には優秀な敵信傍受班が乗組んでいたが、その前日あたりから、日本の降伏を伝える海外電波が頻繁に入ってくるようになった。艦長・南部少佐の手記によれば、1日待って8月15日、日没30分後に浮上したところ、通信長より、無線で傍受した天皇の詔勅が艦長に届けられたという。

伊四百一潜はあくまで任務を完遂すべく、ウルシーに針路を向けた。しかし、さまざまな情報から、日本が降伏したことはもはや疑いようのない事実となってきた。

8月16日夜、海軍総隊司令長官・小澤治三郎中将より、〈即時戦闘行動停止スベシ〉との命令に続いて、直属の第六艦隊司令長官からも、第一潜水隊の各艦に、内地への帰投命令が出された。ウルシー攻撃への出撃予定時刻のわずか数時間前のことだった。

8月19日、海軍総隊指揮下の全部隊は、22日午前零時をもって一切の戦闘行動を停止することとあわせて、詔書渙発以後に敵軍に投降した将兵は、俘虜となったことにはならない、武装の引き渡しも降伏とは見なさないから隠忍自重せよ、という趣旨の命令が届く。これで、万一敵艦に拿捕されても、形の上では捕虜になることはなくなった。

続いて、内地に向け北上中の8月26日には、各艦は降伏の印として檣頭(マストのトップ)に黒い球と黒の三角旗を掲げることと、武器弾薬のいっさいを投棄せよとの命令が入った。晴嵐は、一度も実戦に使われることなく、翼をたたんだまま、カタパルトで射出されて海に消えた。

伊四百一潜の軍艦旗の降納

8月29日、艦が金華山沖に達したとき、伊四百一潜は、米潜水艦セガンドに発見、拿捕された。8月30日は終日、入港後の引き渡しに備えて、艦内の清掃、整理が行われた。米軍は、翌31日の朝8時をもって伊四百一潜の軍艦旗を降ろすことなどを指示してきた。軍艦旗を降ろすことは、もはや日本の艦でなくなることを意味している。

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横須賀に回航して米軍に接収された伊四百一潜と伊十四潜(右)

この期に及んでもなお、降伏を潔しとしない有泉司令は、早暁、拳銃で自らの頭を撃ち抜き、自決した。銃声に気づいた南部艦長が司令室に飛び込んだとき、司令は、草色の第三種軍装に威儀を正し、左手に軍刀、右手に拳銃を持った姿で事切れていた。机上には遺書が置かれ、ハワイ九軍神(真珠湾攻撃のさい、特殊潜航艇に乗り、湾内に潜航した10名のうち、戦死した9名。有泉中佐は、軍令部参謀としてこの作戦を推進する立場だった)の写真が飾られていた。遺体は遺書にしたがって、監視員の目を盗んで軍艦旗に包み、ひそかに水葬に付された。

「遺書に、艦長以下乗員は郷里に帰り、祖国再建に邁進せよ、帝国海軍の受けた恥辱は、小官の血を以てこれを雪ぐ、と書かれていたのは憶えています。その時点で洋上にあった海軍の最高指揮官として、責任をとって自決されたんでしょう。インド洋の通商破壊戦で、戦犯に問われるのを怖れたのではないかと憶測する人もいますが、私はそうじゃないと思う。自決されたときはまだ、戦犯がどうのという情報もなく、そんなことを考える状況じゃありませんでした。有泉司令は、いわゆる古いタイプの海軍軍人でしたから、日本がアメリカの軍門に下るということがどうしても承服できなかったんだと思います」

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横須賀で米軍に接収された第一潜水隊の3隻。手前(右)から、伊四百潜、伊四百一潜、伊十四潜。接収直後で、米軍人とともに日本側乗組員の姿も見える

8月31日朝8時、房総半島の突端が見えてきたところで、伊四百一潜は静かに軍艦旗を降ろし、横須賀軍港に向かった。ちょうどこの日、連合軍の大艦隊が東京湾に入っている。相模湾から東京湾にかけ林立するおびただしい数の米軍艦艇のマストが、淺村さんの目に焼きついた。

現代に蘇った「晴嵐」

伊四百一潜、伊四百潜、伊十四潜の3隻は、ともに昭和20年9月15日付で日本海軍から除籍され、翌昭和21(1946)年1月、佐世保から米国に向けて回航された。そして、調査と実験の末、5月28日から6月4日にかけ、ハワイ沖で海没処分とされた。

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伊四百一潜後甲板に装備された14センチ砲

米軍がこれら潜水艦の処分を急いだのは、終戦まで連合軍がその存在にすら気づいておらず、いずれ弾道ミサイル搭載潜水艦に結びつく「攻撃機搭載の超大型潜水艦」の技術情報が、すでに対立が始まっていたソ連に漏洩するのを恐れたからだと言われる。

海没処分から59年後の2005年3月、ハワイ大学の研究チームによって、伊四百一潜の船体が発見された。続いて2009年2月、伊十四潜が、2013年8月には伊四百潜が、それぞれオアフ島南西沖の海底で発見された。さらに2015年8月、三番艦の伊四百二潜が五島列島沖で発見された。

また、晴嵐も、2003年12月、ライト兄弟による動力飛行100周年を記念して、アメリカのワシントン・ダレス空港近くにオープンしたスミソニアン国立航空宇宙博物館新館に、「後世に残すべき飛行機」の一つとして、製造された28機のうち現存するただ1機が復元され、展示されている。

「なぜ晴嵐がアメリカで着目されたか。それは、世界のどこでも攻撃できるという、いまの原子力潜水艦の発想を、すでに日本海軍が具体化していたこと。そして連合軍は、その存在に終戦まで気づいていなかった。しかも、搭載される飛行機の性能たるや、従来の潜水艦に搭載されていたようなチャチなものではなく、攻撃機のなかでも名機に入るような素晴らしいものであった。潜水艦搭載の攻撃機というのは、世界のどこにもないんです。私は、こんな飛行機があり、潜水艦があったということを、一人でも多くの人に知ってほしいと思っています」

と、淺村さん。晴嵐によるパナマ運河攻撃、ウルシー攻撃は幻に終わったが、旧敵国であるアメリカでその価値が評価され、歴史遺産として保存されることになったのだ。

壮大な発想と、それを実現するためのオリジナリティあふれる兵器の開発に見せた、いかにも日本的な「凝り方」と、それをつくり上げた基礎技術が、戦後日本の復興の一助になったと捉えれば、以て瞑すべし、と言えるだろうか。