「大根切り」でボール球を同点2ラン…途中まで完全投球のエースが振り返る長嶋茂雄の怖さ

 巨人のV9が途絶えた1974年に長嶋茂雄が現役を引退した後、長年の低迷を乗り越えた広島が75年にリーグ初優勝を果たし、「赤ヘル軍団」はその後も巨人の前に立ちはだかった。広島の当時の4番打者山本浩二(79)とエース外木場義郎(80)にとって「ミスタープロ野球」はどう映っていたのか――。(編集委員 太田朋男、新田修)

長嶋さん(左)に本塁打を打たれた外木場さん(1968年8月)

 外木場は若手の頃、投手コーチから「打席の長嶋の顔は見るな。ミットだけを見て投げろ」と助言されていた。「他のバッターにはない、相手を引っ張り込むオーラみたいなものがあった」。当時、王貞治とともに球界を背負っていた長嶋が放つすごみをマウンドで感じていた。山本も同意する。「外野を守っていても、長嶋さんは試合中に目の色がグッと変わる瞬間があった。対戦する投手は直接感じていたはずだ」

オールスターで三塁コーチを務めた長嶋さん(手前)に迎え入れられる山本さん(1979年7月)

そとこば・よしろう 1964年に電電九州から広島入りし、翌65年にプロ初勝利を無安打無得点試合(ノーヒットノーラン)で飾る。75年は20勝、193奪三振で最多勝と最多奪三振の2冠で初優勝に貢献し、沢村賞に選ばれた。68年の完全試合を含む3度のノーヒットノーランは史上最多。通算131勝138敗3セーブ

やまもと・こうじ 1969年、ドラフト1位で法大から広島に入団。75年に首位打者を獲得して広島初優勝の原動力となり、最優秀選手に輝く。77年から5年連続40本塁打以上を放った「ミスター赤ヘル」。通算2339安打、536本塁打、1475打点、打率2割9分。89~93年、2001~05年に広島の監督を務めた

 71年6月8日の後楽園球場。外木場は七回二死までパーフェクトの快投を続けていた。3番王に四球を与え、完全試合は途切れたが、次打者の長嶋を1ボール2ストライクと追い込んだ。投手からすれば、誘い球を投げられるカウントで、外木場の選択は外角高めのボール球。「うまくいったら外野フライに取れる」ともくろんだ1球だったが、長嶋に同点2ランを左翼席に運ばれた。「大根切りでたたかれた。長嶋さんにしかできない打ち方だった」

 この試合、広島は八回に勝ち越し、外木場は勝ち投手になったが、本人は「負けた」と記憶している。それほど、ショックの大きな一打だったのだろう。

 「プロ入り直後は、巨人戦になると勝てる気があまりしなかった。中でもONは憧れの存在だった」。そう振り返る山本にとって、特に長嶋は少年時代からのヒーローだった。小学生の時、長嶋が東京六大学リーグ新記録(当時)の通算8号本塁打を放ったニュースに触れ、「六大学に憧れて法大へ行った」という。

 プロ入り後は打者としての「お手本」となった。「同じ右打者として、長嶋さんの間の取り方をまねしていた。『イチで構えて、その両腕を後ろに引きながらニィーの』となる時の『の』っていう一時の間。それが素晴らしく、『これは打つ』と思えるフォームで、センターの定位置からずっと観察していた」

 引退後に度々ゴルフや食事を共にする中で、山本は感じたことがあった。「ゴルフのスコアを付けなくても相手の打数や何番(アイアン)でどこから打ったか全部覚えていた。記憶力も頭もいい。加えて、何をするにも準備を怠らない人だったと聞いた。いろんなエピソードの中には、確かに天然のものもあるだろうが、半分以上は計算ずくのパフォーマンスだったと思う」

 山本は新人の時から、なぜか長嶋に「コウちゃん、コウちゃん」と声を掛けられ、かわいがられてきた。一方の外木場も、投手コーチ時代に「自分から教えにいくんじゃなくて、選手の方から話しかけてくる関係を作ることも大事だ」と長嶋から助言を受けていた。

 厳しい勝負師でありながら、誰に対しても気さくに接するおおらかさ。対照的にも見える二つが両立するからこそ、長嶋は唯一無二の存在だったのだ。(敬称略)