成城でも下北沢でもない中途半端な大人の街の姿

農大通りの入り口(筆者撮影)
この連載では、一般的な「住みたい街ランキング」には登場しないけれど、住み心地は抜群と思われる街をターゲットに定め、実際に歩き、住む人の声と、各種データを集めてリポート。定番の「住みたい街」にはない「住むと、ちょっといい街」の魅力を掘り起こしていく。
【写真を見る】成城でも下北沢でもない「中途半端な大人の街」とは…? 街の魅力に迫る
東京都世田谷区経堂。この街に30年ちかく暮らす宗教学者が語る「経堂エコシステム論」とは。
街に住む宗教学者の「経堂愛」
世田谷区経堂。この街のメインストリートは小田急線の経堂駅(世田谷区経堂2-1-3)から南方向に延びる「農大通り」だ。その名の通り、道は「東京農業大学(世田谷区桜丘1-1-1)」まで続く。通りの両側にはラーメン屋、洋品店、不動産屋、コンビニ、携帯ショップなど、賑やかな店が並ぶが、そこからひとすじ脇道にそれると、あたりは閑静な住宅街だ。この地に住んでいた作家・遠藤周作は、小説「おバカさん(1959年)」で、経堂のことを以下のように書いている。
駅周りの繁華街から少し離れた住宅街は、この小説が書かれた当時の風情を、今でも残している。そんな経堂の街を愛した文化人は遠藤周作だけではない。評論家の植草甚一などもこの地に住み、時間のあるときは、駅近くの古本屋で時間をつぶしていたのだという。
今回、経堂の街を歩くことにしたのは、宗教学者・島田裕巳さんの一言からだった。
「経堂はね、ちょっとハイソな住宅街というイメージがあるかもしれないけど、学生街だから実は家賃もわりとリーズナブルなんだよ。住むにはいい街ですよ」

経堂のご自宅にて。宗教学者・島田裕巳さん(筆者撮影)
別件の取材のために、経堂にある島田さんのご自宅を訪問したときに話してくれたものだ。そんなわけで、今回は主に島田さんのガイドを基に、経堂の街を紹介する。
さすが学者なだけあって、島田さんはこの街の構造をきわめて理論的にとらえている。「経堂エコシステム論」と名付けたくなるような、論の中身については後ほど詳しく語るとして、まずは自分なりに街をぶらついてみた。
「経堂迷路」を通り抜けた先に
小田急線経堂駅のすぐ近くに、「曹洞宗 経堂山 福昌寺(世田谷区経堂1-22-1)」がある。経堂の名はこの寺が由来になっているといわれる。街に出かける前、下調べの段階でそんな事実を拾っていたので、まずはこの寺を見てみようと考えた。小田急線の線路に沿っている小路から、塀を隔てて寺の屋根が見えるのだけど、入り口になかなかたどり着かない。結局、住宅街の路地をくねくねまわって、やっと行き着くことができた。
「なるほど、これが“経堂迷路”か」
これも、下調べの段階で仕入れた言葉だ。ある情報によれば、世田谷区のこの界隈は、かつては田畑の広がるのどかな場所だった。その後、関東大震災などの影響で、下町から多くの人が流入し、急速に人口が増えた。そのため、無作為に宅地化が進み、迷路のような状態になった、らしい。タクシードライバーの間では「経堂迷路」という言葉が囁かれているとかいないとか。

曹洞宗 経堂山 福昌寺(筆者撮影)

曹洞宗 経堂山 福昌寺(筆者撮影)
経堂といえば、やはり東京農業大学は外せない。農大通りを南に1kmほど歩くと、大学にたどり着く。キャンパス内には学生以外でも使える売店やカフェテリアがあり、地域の人たちにも喜ばれている。
生協の売店は見ているだけで楽しい
生協の売店には、卒業生が手掛けた清酒や食品なども売っているので、見ているだけで楽しい。

東京農業大学の正門(筆者撮影)

東京農業大学内の売店(筆者撮影)

東京農業大学内の売店(筆者撮影)
農大から経堂駅に戻る途中に、気になる喫茶店を見つけたので入ってみた。住宅街にある、洋風な外観の小さな喫茶店だ。屋号は「喫茶Umai(世田谷区桜2-21-15)」。経堂の駅から歩いて10分ほどだ。
店内はシックなヨーロッパ風の設えだ。木目調のテーブルやカウンターが落ち着いた雰囲気を演出している。のだけど、店主の添田舞さんは、シックな店内には不釣り合いなほど陽気で、あははと笑いながらメニューの説明をしてくれる。おすすめは9種類から選べる紅茶とハーブティー、そして手作りケーキだ。

喫茶Umaiの店主 添田舞さん(筆者撮影)
伺った日は、手作りのバスクチーズケーキセット(1200円)を注文した。ハーブティーにも惹かれたが、この日の気分はコーヒーだったので、アメリカーノを選んだ。ねっとり濃厚なのに、爽やかな口溶けのバスクチーズケーキをいただきながら、添田さんに経堂の魅力を訊いてみた。
「私は経堂に住み始めて14年以上なんだけど、ここは去年(2025年)の7月にオープンだから、まだ半年の若いお店なんです。経堂の魅力はね……いつも、来てくれるお客さんがとても詳しいから、その人がいればいいんだけど」
そういいながら、店の中をくるりと見渡す。すると、絶妙なタイミングで件の常連さんが扉を開けて、入ってきた。
経堂はいい意味で「中途半端な街」
「あ、ちょうどいい、酒井さん、こっちこっち」
添田さんが手招きすると、経堂に住んで30年以上というテキスタイルデザイナーの酒井さん(70)が、「なんの騒ぎだよ」と不思議そうな顔でテーブルについた。
来店の趣旨を伝えると、
「経堂の魅力ねぇ。学生街ということもあるんだろうけど、個人経営の喫茶店が多いよね。どこもそれなりに美味しいコーヒーを出してくれるし、落ち着けますよ」(酒井さん)
酒井さんは、その場でいくつもの店名を挙げてくれた。喫茶Umaiの添田さんがあとを引き取るようにこう話してくれた。
「先程もお話しした通り、うちはまだ半年のお店ですけど、こうやって毎日のように来てくださる方もたくさんいらっしゃいます。閉鎖的じゃないんですよね。新参者にも優しい街です」(添田さん)

喫茶Umaiの外観(筆者撮影)
腕組みをして考えていた酒井さんが、「そうだなぁ」と唸りながら、経堂の街の印象をこんなふうに語った。
「同じ小田急線の成城学園前のようにゴージャスじゃなく、下北沢のようにヤングの街でもない。“中途半端な大人の街”、そんな印象だね」(酒井さん)

バスクチーズケーキセット(筆者撮影)
さすが、長年デザイナーとして生きてきただけあって、言うことが洒落ている。酒井さんは「中途半端」という言葉を使ったが、確かに経堂の町並みは、ほどよい落ち着きを持っているように感じる。それが、学生と住民、古くからの店と新しい店、外から来た人と昔からいる人を、無理なく同じ空間に混ぜ合わせる力になっているのかもしれない。
さて、冒頭で紹介したように、宗教学者の島田裕巳さんは、経堂に住み始めてほぼ30年だ。この街について、島田さんは、まずは次のように語る。
「多くの住民が、要するに街を愛しているんだね。学生時代にここに暮らして、結婚してから戻って来るパターンもわりとある。学校も多いから、子育てにも適している。毎年7月に行われる“経堂まつり”には地域の幼稚園や小学校、東京農大の学生もこぞって参加しますよ」
さらに、島田さんが続ける。
「あとね、この街は飲食店のレベルが高い。それを目当てにやってくる人もいます。その要因として、私は次の3つが大きく関係していると考えている」(島田さん)
飲食店のレベルが高い理由
その3つとは「大学」「美味しい魚」「酒」なのだそうだ。
「経堂の近辺には東京農業大学、日本大学の文理学部、国士舘大学などがあって、ここの学生が経堂の街でアルバイトをする。だからどの店も元気な若者が働いていて、活気がある。また、この街には“さかなや 魚真”っていう魚介の卸業者があって、居酒屋チェーンも展開しています。家庭向けの小売りもやっていて人気です。
さらに酒なんですが、東京農業大学は“醸造科学科”という学科を持っているんです。日本酒などの醸造技術を科学の面から研究している。ここを卒業した学生たちがとびきり美味しいお酒を作っていて、街の居酒屋ではこうした酒が手軽にたのしめるわけです」(島田さん)

東京農業大学のキャンパス案内板 応用生物科学部に醸造科学科の文字がある(筆者撮影)
確かに街を歩いていると、ちょっと寄ってみたくなるような個人経営の居酒屋にあちこちで出会う。島田さん曰く、「どの店も魚と酒が美味くて、大学生のアルバイトが活躍している」とのこと。「大学があるから人材が豊富→魚介卸しがあるから美味しい魚→農大の醸造科学科があるから酒がうまい」。これらが循環して、経堂ならではのエコシステムを築いているわけだ。
そんななかで、島田さんが贔屓にしているのが、「魚粋(世田谷区経堂1-12-4)」だ。せっかくなので、実際に店に行き、話を聞いた。
経堂駅から歩いて数分の場所にある「魚粋」はこの街にオープンしてから今年で9年目を迎えた。店主の橋本学さんは、元自衛官という少し珍しい経歴の持ち主だ。
「水曜定休のお店を選ぶといい」
「島田先生の言う通り、うちのアルバイトもほぼ全員が地元の大学生です。みんな真面目で助かっていますよ」(橋本さん)

「魚粋」の店主・橋本学さん(筆者撮影)
経堂にある魚介卸しの「さかなや 魚真」が居酒屋チェーンを運営していることはすでに述べた。それらの店はもちろん魚真が仕入れた魚介類を使う。また、その居酒屋で修業をし、独立する人も多いが、こうした店もやはり魚真から魚を卸している。橋本さんもそのひとりだ。
「経堂には居酒屋魚真で修業した人間がやっているお店が3つあって、そのひとつがうちなんです。みな、この街の雰囲気が好きだから、ここで商売をするんですよね。私は福島県の出身で、東京はドライな都市だっていう偏見があったけれど、この街に来て、その考え方が変わった。商店街と住民の結びつきが強くて、みなさん温かいんですよね」(橋本さん)
島田さんはこの店に来ると、まず「刺身 5点 盛り合わせ(1210円)」を注文する。

刺身5点 盛り合わせ(筆者撮影)
「経堂の居酒屋はね、水曜日に休む店が多い。水曜日は(豊洲)市場が休みで、活きのいい魚が入らないからなんだ。それだけ味にこだわりを持っているということだね。この街で美味しい店を探すなら水曜日が定休の店を選ぶといいよ」(島田さん)
おっしゃるとおり、盛り合わせはどれも新鮮で、味が濃い。
長年この地に暮らす島田さんは、街並みの変化についても語ってくれた。
学生に優しい家賃
「経堂の駅は、昔は踏み切りで南北が分断されていたんですよ。でも2000年代のはじめごろに、高架になって分断が解消された。駅のロータリーができて、バスの乗り入れも楽になったので、利便性がさらに向上したんです。そのために家賃は上がっているけど、学生街だから駅から近くても、学生向けのワンルームならけっこう割安な物件もあって住み心地がいいんですよ」

東京農業大学出身の女性が手掛けた純米吟醸「星政宗(グラス 748円)」に舌鼓をうつ島田さん(筆者撮影)

経堂駅前(筆者撮影)
確かに、街の不動産屋の張り紙を見ると、「経堂駅 徒歩2分 5万7000円」など、学生に優しい価格帯の部屋も散見された。
「いろんな意味で住みやすいから、前にも話したとおり、若いころにこの街で暮らして、家庭を持ってからまた戻ってくるパターンも多いんだろうね」(島田さん)
島田さんの言う経堂のエコシステムは、「大学・魚・酒」だけではなく、「人が流入し、修業し、住み着き、一度離れ、また戻ってくる」という循環にも感じた。経堂エコシステムは住むとちょっといい街のキーワードとなりそうだ。