千葉にある「百貨店全滅タウン」以外と賑わう理由

千葉県市川市から、なぜ百貨店が消えたのか…。写真は本八幡駅北口の様子(写真:筆者撮影) 【画像23枚】なぜこの街に百貨店を出した…最盛期は6軒もあったのに百貨店が消えた市川、"人口50万人"でも失敗したワケ
前編は市川市における百貨店の出店ラッシュと、当時からあった市民たちの厳しい評価、鉄道網の発達によって「目的地から通過点」へと変化した街の実態についてお届けした。
「市川市の百貨店が全滅した」と聞くと、「ロードサイドが発展する一方で、駅前が廃れて、廃墟化しているのか」と思う人もいるかもしれない。しかし、誤解してほしくないが、実際に街を歩いても衰退の影は微塵もない。むしろショッピングセンターやスーパーは充実し、街は活気に満ちている。ただし、支持される施設には、ある特徴がある――。
そこで、後編では実際に街を歩きながら、百貨店が全滅した市川の街で、繁盛する施設の共通点を考えていきたい。
クリーンで便利すぎる市川駅前

市川駅近くのアイアイロード。ドラッグストア、衣料品店などが並び、日常の買い物や外食に困ることはない(写真:筆者撮影)

アイアイロードは、チェーン店も豊富だ(写真:筆者撮影)
JR市川駅から駅前を歩いてみた。商店街「アイアイロード」には飲食店、ドラッグストア、衣料品店などが並び、日常の買い物や外食に困ることはなさそうだ。市川市全体で約50万人の人口を抱える生活都市らしく、駅前には生活を支える機能が集約されている印象を受ける。
さらに目を引いたのは、駅前でありながら非常に整然としている点だ。路地や裏通りを含め、ごみや落書きはほとんど見当たらず、清掃や管理が行き届いている様子がうかがえる。市川駅前は「にぎわい」と同時に「清潔さ」を強く意識した空間として維持されているようだ。

駅前のダイエー市川店。開業当初は百貨店的なテナントの入居も検討されていたとされるが、結果としてそうした業態は定着しなかった(写真:筆者撮影)
駅前で最も存在感がある商業施設が「ダイエー市川店」である。1975年開業、地上12階建てという規模は、駅前商業施設としては異例だ。2016年には売り場のリニューアルも行われている。
関係資料などによれば、開業当初は百貨店的なテナントの入居も検討されていたとされるが、結果としてそうした業態は定着しなかった。
実際に館内を歩くと、1階の食品売り場やダイソーなど日用品フロアは人通りが多い一方、上層階はオフィスやスポーツジムなど特定目的の利用者が中心で、滞在型の商業空間とは性格が異なっている。
駅直結が奪った百貨店の機能

駅直結のシャポー市川。改札を出て買い物を済ませ、そのまま帰宅できる動線ができあがっている(写真:筆者撮影)
対照的なのが、駅直結の「シャポー市川」だ。ユニクロ、無印良品、惣菜・食品売り場などがそろい、改札を出て買い物を済ませ、そのまま帰宅できる動線ができあがっている。来店客数も多く、利用頻度の高さがうかがえる。
百貨店が担ってきた「一度で必要なものがそろう」という機能は、現在ではシャポーのような駅直結型施設に置き換わっているように見える。
垂直方向に移動し、時間をかけて回遊する百貨店型の消費よりも、帰宅動線上で完結する消費のほうが、市川駅前では主流になっているのだろう。
ここで改めて整理しておきたいのが、「百貨店」という業態の特徴である。百貨店は、多種多様な商品を部門別に管理し、対面販売を通じて顧客と関係を築く「総合性」と「格式」を強みとしてきた。
一方、70年代以降に拡大したGMSや駅直結型施設は、セルフサービスを前提に、日常の買い物を効率化する業態である。
前編でも詳しく書いたが、市川で起きたのは、商業の衰退というよりも、消費の役割分担の進行だった可能性がある。対面や格式を伴う「ハレ」の消費は東京へ。地元には、価格と利便性を重視した「日常」の消費が残った。
その視点で見ると、ダイエー市川店が現在まで営業を続けている理由も見えてくる。同店は駅北口を出てすぐの立地にあり、帰宅動線上で食品や日用品を「回収」できる拠点として機能している。途中下車や車移動を必要とせず、生活のルーティンに自然に組み込まれている点が大きい。
商業施設の寿命は、建物の新しさや話題性よりも、生活動線への接続の強さによって左右される。滞在型モールのように“目的地化”を競う施設と異なり、日常の回収拠点として位置づけられたGMSは、来店頻度の高さによって安定的な需要を確保しやすい。
実際、同様の構図は他都市にも見られる。千葉県のイトーヨーカドー船橋店は、隣接していた西武百貨店が18年に閉店した後も営業を続けている。百貨店という「ハレ」の目的地が消えた後も、駅前で食品や日用品を担う総合スーパーは、生活機能を支える存在として存続している例の一つといえる。
共通するのは、「わざわざ行く場所」であることを競うのではなく、「そこを通らずには生活が完結しない場所」として位置づけられている点だ。
ダイエー市川店もまた、その文脈で理解できる。百貨店的な「ハレ」を競うのではなく、日常の回収拠点としての機能を徹底することで、駅前にとどまり続けているのである。
本八幡駅前とニッケに分かれた街の重心

本八幡駅の駅前にあるパティオ本八幡(写真:筆者撮影)
続いて一駅隣の本八幡駅前を歩いた。市川京成百貨店の跡地は京成電鉄本社へと転用され、駅前商業の中心は「パティオ本八幡」と「MEGAドン・キホーテ本八幡店」に置き換わっている。

パティオ本八幡の入口。独特な雰囲気がある(写真:筆者撮影)

本八幡駅の駅南にある西友(写真:筆者撮影)

本八幡駅の駅南にあるメガドンキ。駅前だけで生活が完結する利便性が際立つ(写真:筆者撮影)
いずれも日用品や食品を主軸とする実用的な構成で、駅前だけで生活が完結する利便性が際立つ。曜日や時間帯による差はあるにせよ、駅前は滞在型というより、生活動線上の“回収拠点”として機能している印象を受けた。
では、人のにぎわいはどこへ行ったのか。駅から15分ほど歩いた場所にある「ニッケコルトンプラザ」に足を運ぶと、空気は大きく異なっていた。

ニッケコルトンプラザ入り口正面。駅から徒歩15分程度の場所だが、人で賑わっている(写真:筆者撮影)
平日昼間にもかかわらず、カフェチェーン店はほぼ満席で、談笑する人、仕事や勉強をする人など、利用の仕方もさまざまだ。館内には主婦層や現役世代の姿が多く見られ、広大な敷地の中で「時間を過ごす場所」として機能している印象を受けた。
垂直から水平へ移動した街の重心
88年、工場跡地に誕生したニッケコルトンプラザは、駅前の百貨店とは異なる空間構造を提示した施設だった。
駅前のダイエーが限られた敷地を多層階で補う「垂直型」の商業施設であるのに対し、ニッケは広大な敷地を活かした「水平型」の施設である。館内を平面的に移動できる構造に加え、大規模な駐車場を備えたことで、車での来訪を前提とした消費行動にも対応した。
ここでは買い物は単なる日用品の調達にとどまらない。映画館や飲食店、イベントスペースなどを備え、滞在そのものが目的となる空間として設計されている。駅前が帰宅動線上の「回収拠点」へと特化していく一方で、ニッケは時間消費型の商業を担う場所となった。
興味深いのは、ニッケ自身も当初の百貨店業態(ダイエー系のいちかわプランタン)に固執せず、のちにGMS型へと軸足を移していった点である。業態よりも機能を優先し、駐車場、広域アクセス、滞在性といった要素を強化することで、生活拠点としての役割を拡張していった。
開発主体である日本毛織は、当時の構想について『住まいとまち(19)』(不動産流通近代化センター「住まいとまち」編集室.1991)にて、「分譲マンションにすれば短期的に大きな利益を上げられたが、市民との心の共有物をつくるという理念からSCを選んだ」と振り返っている。

ニッケコルトンプラザ。「市川市に都心にも誇れる何かを」という信念が、今も支持される施設を作り上げた(写真:筆者撮影)
川を越えれば東京という立地で、住宅開発が合理的とされた時代に、あえて“商業公園”を選んだという点は示唆的だ。また同社は「どうせ東京へ行くのだからという諦めではなく、市川市に都心にも誇れる何かを」とも述べている。
ここから読み取れるのは、ニッケが百貨店の代替というより、「東京前提社会」における市川の居場所を再定義しようとした施設だった可能性である。
百貨店はなぜ「必要なくなった」のか
結果として、市川市民の消費行動は明確に役割分担されていった。贈答品や「ハレ」の買い物は都心へ。日常の調達や家族で過ごす時間は、ニッケや駅前の実用的な施設へ。かつて百貨店が担っていた「ハレと日常の両立」という機能は、東京と郊外型ショッピングセンターへと分解され、再配置されたのである。
18年に東京外環自動車道が市川市まで開通したことで、三郷や幕張方面など郊外型商業施設へのアクセスも向上した。すでに鉄道で都心と直結していた市川は、車による広域移動も容易になり、購買行動はより広い選択肢の中から合理的に選ばれるようになった。
こうして見ると、ニッケコルトンプラザは百貨店を駆逐した存在ではない。百貨店が抱えていた機能のうち、滞在性や広域アクセスといった要素を引き受け、都市の消費構造を再編する装置として機能したにすぎない。
市川で起きたのは、商業の衰退ではない。東京を前提とした生活設計の中で、百貨店という業態が「必要なくなった」という構造的な変化だったのである。