原発事故の自主避難者たち。それぞれの15年と今

福島復興の掛け声と自主避難者, 自主避難後の長谷川さん一家の生活は?, 原発は止められなかったけれど, 娘に受け継がれる反骨精神

自らオープンしたフォカッチャ店で働く長谷川克己さんと育美さん夫妻=2026年1月31日、静岡県富士宮市で(写真:筆者撮影)

東京電力・福島第一原子力発電所の事故からまもなく15年が経過する。放射線被曝を巡る対立と分断を象徴する存在となったのが、国が年間被曝線量20ミリシーベルトの想定の元に設けた避難指示区域の外側から首都圏や新潟、山形などへ逃れた人たちだった。国からの避難指示が出ていないにもかかわらず、一部の人たちは自主的に遠隔地に避難した。自分や子どもたちが無用な放射線被曝を避けるためのやむにやまれぬ自己防衛策だった。こうした手立てを講じた人たちは「自主避難者」と呼ばれた。
原発事故から日が経つにつれ、自主避難者たちには風当たりが強くなった。インターネット上を中心に「風評加害者」「福島復興の邪魔者」などと、容赦のない言葉の石つぶてが投げつけられ、恐怖心や福島に残る家族への配慮から彼らの多くが沈黙を強いられた。匿名でなければ取材を受けない自主避難者も多い中、自らの顔と名前を表に出して訴え続けた人もいた。しかし捨て身の訴えも虚しく、国と福島県は2017年3月末、彼らを原発避難者と認める唯一の証だった「みなし仮設住宅」(借り上げ住宅)の供与を打ち切った。孤立無援の中で闘った理由は何か。今も訴え続ける自主避難者たちを訪ね歩いた。

長谷川克己さん(59)の姿が私の脳裏に深く刻まれたのは、2015年6月9日に参議院議員会館で開かれた集会でのスピーチだった。テーマは自主避難者に対する住宅供与の打ち切りで、長谷川さんは自主避難者の〝代表〟として登壇した。

【写真】15年間の「避難生活」を語る長谷川克己さんと育美さん夫妻=2025年1月30日、静岡県富士宮市で(筆者撮影)

福島復興の掛け声と自主避難者

「国は住宅支援の終了に向けて動き始めました。私もいつまでもすがっていたいとは思いません。ただ、幕引きの仕方には言いたいことがある。この4年間の政策は人道的立場とはかけ離れたものと感じています。国は私たち自主避難者を頭のおかしい、危険な人間と考えているのでしょうか? 『そうではない』と言うなら開かれた場で意見を聴いてほしい。父親として我が子に胸を張りたいのです」

この頃、「がんばろう、福島」「福島復興」の勇ましい声が飛び交う一方で、福島を離れた自主避難者に対して、SNSなどで「裏切者」「福島を貶めた」といった言葉の石つぶてが投げつけられていた。

同じ頃、復興庁が各地で開いていた県外自主避難者向けの説明会の中に、「心が元気になるために」と題した著名な精神科医の講演が含まれており、彼らを「不安で心を病んだ人」として扱っているのが見て取れた。長谷川さんの理性的なスピーチを聞き、私は「彼のどこが頭のおかしい人だというのか」と怒りで心が震えた。

克己さんと妻育美さん(50)の姿は今も避難先の静岡県富士宮市にあった。夫婦が営むフォカッチャ店で二人の話に耳を傾けた。

克己さんは元々、首都圏で介護事業所を経営する会社の社員で、福島への進出に伴って移り住み、地元出身で従業員の育美さんと結婚した。「このまま福島に骨を埋めることになるのだろう」と考えていたところで、あの原発事故が起きた。

克己さんは11年8月、育美さんと当時5歳の長男とともに福島県郡山市から静岡県富士宮市に自主避難した。首都圏に転勤する道もあったが、「それは潔くない」と考え、退職して家族で自主避難する道を選んだ。

郡山で生まれ育った育美さんは当初、長男を自らの両親から引き離す自主避難をためらっていたが、2つの体験をきっかけに避難を決めた。

1つ目の体験とは、夫婦で同年5月下旬に市民団体の集会に参加した際のことだった。のらりくらりと無責任な答えを繰り返す福島県の担当者を見て、「この人たちは味方じゃない」と失望した。

2つ目の体験は、同じ頃、自主避難を迷っていた〝ママ友〟から届いた一通のメールだった。

「気が狂いそうなので、その話(自主避難)はもうしないでください。何事もなかったように(福島に)残ることを決めました」

自主避難後の長谷川さん一家の生活は?

無責任になって、考えることを止めなければ福島で生きていけないのか? 2つの出来事から割り切れない不条理を感じ、育美さんの心は決まった。

夫妻は12年に駅前で2階建ての一軒家を借りて高齢者のデイサービス施設、15年には2階に障害児のデイサービス施設をオープンした。コロナ禍で利用者が減った1階の高齢者施設は2年前に閉鎖したが、代わって米粉を使ったフォカッチャ店を毎週土曜日に開いている。育美さんのアイデアだ。まだ思うような売り上げにはなっていないが、2人の表情は明るい。私が「思い切りましたね」と声を掛けると、克己さんは「本当は臆病なんですけどね。原発事故の避難が役に立ったのかもしれません」と笑顔を見せた。

福島復興の掛け声と自主避難者, 自主避難後の長谷川さん一家の生活は?, 原発は止められなかったけれど, 娘に受け継がれる反骨精神

15年間の「避難生活」を語る長谷川克己さんと育美さん夫妻=2025年1月30日、静岡県富士宮市で(写真:筆者撮影)

家族は「みなし仮設住宅」を出た後、近所に家を新築した。すでに住民票も富士宮に移している。育美さんの父は23年7月に他界し、戻る場所はなくなった。外形的には「避難者」ではなく「移住者」だが、郡山市からは今も毎月、市の広報が届く。同封されているアンケート用紙の「移住する」にマルを付けて返送すれば、翌月から広報は届かないが、あえて受け取り続けている。克己さんが理由をこう説明した。

「俺たちはただの移住者じゃないぞ、今も原発避難者なんだって言いたいんです」

克己さんは最近、知人からの指摘で「理不尽」が口癖になっていることに気づいた。

「私たちが置かれている状況を端的に表現している言葉です。私は自主避難を後悔したことはありません。合理的な選択をしたと思っています。国は私たちを頭のおかしい人、常識のない人として扱ってきた。そんな信頼できない行政に自分たちの身を預けられません。国が『自主避難は正しい選択だった』と認めるまで、私たちの避難生活は終わりません」

磯貝潤子さん(52)は数多くの新聞やテレビ、雑誌のほか、ドキュメンタリー映画にも登場し、新潟県議選にも立候補した自主避難者の有名人だ。バイタリティーにあふれ、人前に出ることも厭わない。それゆえに迷いと挫折、そして絶望と再生を繰り返してきた。

今年2月、新潟市内で彼女と待ち合わせた。直接会うのはおよそ10年ぶりだ。磯貝さんの服装の変化に驚いた。タイトな黒い革ジャンを羽織り、足元は黒いブーツを履いていた。10年前はオーバーオールに天然素材のシャツ。そしてフェイスブックに投稿されていた選挙での辻立ち姿は、ブルーのパンツスーツに白いスニーカーだった。服装について触れると、磯貝さんは気恥ずかしそうに理由を説明してくれた。

原発は止められなかったけれど

「演じているつもりはなかったけど、きれいな格好をしていたら避難者っぽく見えない、そう思い込んでいたんですよね。でも最近になって思い出したんですよ。そういえば私は中学、高校とパンクロックを聴いていたなって。それで戻ってきたんです」

福島復興の掛け声と自主避難者, 自主避難後の長谷川さん一家の生活は?, 原発は止められなかったけれど, 娘に受け継がれる反骨精神

紆余曲折に充ちた15年間の避難生活を振り返った磯貝潤子さん=2026年2月14日、新潟市で(写真:筆者撮影)

彼女が住む新潟県は昨年末から今年初めにかけて、東京電力・柏崎刈羽原発の再稼働を巡って大きく揺れた。新潟県の花角英世知事は25年12月、再稼働への事前了解を表明。そして同原発は今年1月、約14年ぶりに再稼働した。

「あんなのを動かしやがって、ですよね。子どもたちから『ママすごい、あれを止めたんだね』って言われたかったんです」

「あんなの」とは「原発」を指す。磯貝さんが県議選に出た理由はもちろん同原発の再稼働阻止だ。それなのに、この取材の中で磯貝さんは「原発」や「花角知事」、そして「放射能」や「被曝」といったワードを口にしなかった。今も心に深い傷が刻まれているのではないかと私は感じた。

磯貝さんは2度にわたり野党系で県議選に立候補したが、いずれも落選した。選挙区は新潟市内でも周縁の農村部で、有権者の地元意識は強い。「よそ者」がいくら地元愛を訴えても、「自主避難者」の烙印はついて回り、なかなか受け入れてもらえないと感じた。 

「ここを『地元』にして生きていくために、『自主避難者』の立場を捨てなければいけない葛藤があったんですよね。そもそも避難者なのにね。自分が成功するためのワンチャンスぐらいの感覚にはなれなかったんです」

その時、磯貝さんとは対照的に、議員に当選した被災者や支援者の女性たちの姿が私の脳裏にふと思い浮かんだ。被曝問題を訴えた「一点突破」の人もいれば、あえて原発に触れなかった人もいる。遠回しに話題を振ると、磯貝さんは心の奥に秘めていた複雑な感情を口にした。

福島復興の掛け声と自主避難者, 自主避難後の長谷川さん一家の生活は?, 原発は止められなかったけれど, 娘に受け継がれる反骨精神

闘ったことに誇りを感じる、と磯貝さん=2026年2月14日(写真:筆者撮影)

「選挙に落ちた後、なんで私はこんなに毎日活動しているのに、(議員に)なれないんだろう、当選した人とどこが違うんだろうって毎日考えていたんです。でも、結局は向いていなかったんだって思うんです。議会が終わったら辞職してもいいぐらいの覚悟だったけど、当選してみんなの代表になったら、発言を変えざるをえなかったでしょう。私はそこまで変われないし、変わらなくていいんだって」

娘に受け継がれる反骨精神

みなし仮設住宅の供与打ち切りに合わせる形で、夫が1人で住み続けていた福島県郡山市内の自宅を売却し、一家は新潟で合流した。そして2人の娘はすでに巣立ち、東京で自ら選んだ道を歩み始めた。

磯貝さんは県議選で落選した後、新潟県内選出の国会議員事務所で働いてきた。反対も虚しく原発が再稼働したことに忸怩たる思いは残るものの、一緒に暮らす夫は「今は家もないから、原発事故が起きたらソッコー逃げようぜ」と言ってくれる。15年経って考え方が一致したようで、とても心強い。あとは穏やかな生活が待っているはずなのに、最近考え込むことが増えたという。

「『政治はもういいかな』って思ったとき、ここに住み続けなければいけないわけじゃないと気づきました。でも、他に住みたいところも思いつかないんです。うちらって行くところがないんだなって」

磯貝さんには最近、感極まる出来事があった。東京で美容師をしている長女の身体にタトゥーが入っているのを見つけた。「何でこんなものを……」とやりきれなさがこみ上げたが、彫られていた英語の文字を判読して息をのんだ。

「NO NUKES」

娘が自分に黙ってタトゥーを入れたことはもちろん悲しい。でも、傷だらけになりながら闘い続けた自分を受け止めてくれていたのがうれしかった。

「知ってしまったのに黙っていることは自分に嘘をつくことになりますよね。私は少なくとも子どもたちの将来に責任を果たしたんだ、って胸を張れますよね」