「こんな大変な時になぜやるのか」大地震の直後に自転車イベント、批判されても開催した真意 38年続く「ツール・ド・のと」は「ふるさと創生」1億円から始まった(前編)

絶景で知られる白米千枚田とサイクリスト=2025年9月15日、石川県輪島市(砂田弓弦さん提供)

 能登半島を舞台に、40年近く続く自転車のイベントがある。その名は「ツール・ド・のと」。きっかけは1988~89年、当時の竹下政権が、全国の自治体に使い途を限定せず1億円を配った「ふるさと創生事業」だ。競輪選手だった成田加津利さん(58)は地元新聞社とタッグを組み、能登地方振興のためのイベントを考案。実現させた。

 以来、全国から毎年1千人近くのサイクリストが参加する能登の代表的なイベントに。

 誰でも参加できるが、距離は計約400キロと国内最長級で、標高300メートルの峠越えもあり、簡単ではない。2024年の能登半島地震や豪雨で被災後も、規模を縮小しながら続いている。

 参加者が集まるのは、理由がある。1回目の運営から中心となり、地震後も執念で続ける成田さんの話から、能登ならではのあふれる魅力と、ここで続ける意味が見えてくる。(共同通信=丸田晋司)

 ▽千里浜海岸

 成田さんは金沢高校(石川県)の自転車部時代に国体で優勝経験があり、地元の実業団チームに所属した後、競輪選手になった。

 ツール・ド・のとを考案したのはその頃。

 大まかなコースは、1日目に金沢市や内灘町をスタートして輪島市中心部を目指す。2日目は、輪島市から能登半島を時計回りに走り、七尾市の和倉温泉が到着点。最終日の3日目は、富山県氷見市に立ち寄ってから、1日目のスタート地点に戻ってゴールという設定だ。

 主に海岸線の道を走りつつ、時には標高300メートル超の峠道も越える。

「頑張らないと完走できないが、頑張れば完走できるコース」

 コースを走ると、絶景に次ぐ絶景。寄せては返す波打ち際の固く締まった砂浜が広がる羽咋市の千里浜海岸、海に向かって黄金色の棚田が折り重なる輪島市の白米千枚田、青い空と青い海に挟まれて伸びる七尾市の能登島大橋…。サイクリストたちが宿泊先で提供される新鮮な魚介類など、舌鼓を打つ名産品にも魅せられた。

 成田さんは毎年の大会が終わると、家族旅行として能登の各地域を回る。各自治体の市長や町長との関係を築き、宿泊先から寄せられた利用マナーへの苦情を聞き取るなどして、地元の人に歓迎される大会作りに心を砕いてきた。

 60歳が近づいた成田さんが、そろそろ運営を次の世代に託すことも考えた矢先、2024年1月1日の能登半島地震は起きた。

 内灘町の自転車店でもガラスが割れるなどしたが「被害があったなんて言えない程度」。

 すぐに自家用車で輪島市などへ向かい、炊き出しを実施。店内はかき集めた支援物資であふれた。しかし、能登は至るところで道が波打ち、割れ、崩れていた。ツール・ド・のとの運営を一緒に担う同僚たちからこう言われた。

 「今年は、無理だ」

「ツール・ド・のと」の運営の中核を担う成田加津利さん=1月4日、石川県内灘町

 ▽お祭り男

 それでも、成田さんは諦めていなかった。

 「もちろん地震はショックだったけど、開催できないとは全く考えなかった。むしろ『こんな時だからやらないといけない』と。何事もすぐに浮足立つのは『お祭り男』の僕の最大の武器で、ダメなところでもあるんだけど」

 わずか3カ月後の4月下旬には、氷見市から石川県中能登町を目指し、氷見市に戻る70キロのコースを走るサイクリングイベントを開催した。参加者は40人ほどに限定。コース上の安全確保を担うボランティアが足りそうにないと思っていたら、競輪選手時代の同僚が駆けつけて助太刀してくれた。

 成田さんは、イベントを成功させた実績をひっさげて各方面を回り説得した。

 「これだけできたんだから、ツール・ド・のとだって絶対にできる」

 そして2024年9月15日、36回目のツール・ド・のとの開催にこぎ着けた。日程は本来の3日間から1日だけ、コースも3分の1に短縮し、比較的地震の被害が少ないエリアだけをコースとした。

 それでも、実現までの道のりは険しかった。

 「こんな大変な時期に(なんでやるのか)」

 開催を模索する成田さんの耳には、周囲からの声が聞こえてきた。

 参加したサイクリストが1泊でも泊まれればと考えたが、民宿などが復旧工事の関係者らで埋まっていたり、参加者の食事を確保できなかったりして断念した。コース上では、復旧工事を担うトラックが頻繁に走っていた。

能登半島地震による土砂崩れで寸断された石川県珠洲市の国道249号=2024年1月

 ▽36回目の大会

 当時を振り返ってもらう中、「お祭り男」の成田さんでも言葉に詰まる時があった。

 「一番は、復旧の邪魔にならないようにということ。もちろん、サイクリストに事故があればそれで『終わり』。酒を飲む量が増え、寝られなかった…」

 話しながら涙が浮かぶ。

 「やめるのは簡単。あのとき諦めていたら、その後も含めてツール・ド・のとそのものが終わっていた」

 翌2025年9月14日、37回目のツール・ド・のとは前年同様、距離を短縮したコースで開催され、約500人が参加した。15日には、「奥能登復興サイクル」と銘打って、参加者を約100人に絞り、能登半島の中でも被害が大きい輪島市の海岸沿いの道を行き来するライドも開催した。数年前までサイクリストたちの脚と目を楽しませた道は一変。山肌は崩れ、海底は隆起していた。それでも、その光景を見てもらうこと自体が、能登の復興を少しでも前に進めることにつながると信じていた。

 参加者の1人に、石川県に隣接する富山県出身の砂田弓弦さん(64)がいた。長年、海外の自転車ロードレースでフォトグラファーとして活躍し、自転車と同走するオートバイに乗って撮影することを許された数少ない存在だ。

 自転車を通じて成田さんと知り合った1人で、過去にもツール・ド・のとに参加した。イタリアやフランスなどの欧州を中心とした世界各地で30年以上カメラを構え、サイクルロードレースのコースとなった絶景の数々を見てきた砂田さんにとっても、ツール・ド・のとの魅力は特別だ。

 「富山の近くにあんなに素敵な場所、コースがあるとは知らず、景色の素晴らしさに驚きの連続だった」

 2025年のツール・ド・のとで、砂田さんは地震被害の大きさを実感した。

 「休日だったが、多くの作業員が復旧工事に携わっていた。実際にコースを走ると、路面の凹凸が分かる」

 その上でエールを送った。「成田君をはじめ、スタッフの協力が素晴らしく、大いに意気に感じた。今後もこのイベントが続くことを祈っている」

 成田さんに地震と豪雨の後でも続ける意義を尋ねた。

 「僕たちが発信することで『こんなことができる』と知ってもらえる。外野の僕だからできることがあるし、人を巻き込むのは昔から得意なんだ」

2025年の「奥能登復興サイクル」に参加したサイクリスト(2025年9月15日、輪島市で撮影)、砂田弓弦さん提供

 ▽人の輪

 成田さんは自転車の魅力をこう語る。「子どものころ、最初に自分の力で行動範囲を広げることのできる手段」。ペダルを回して自転車を前に進ませられるのは、自らの脚力だけ。でも脚を回した分だけ、人の輪も広がった。

 地震や豪雨の後に開催したツール・ド・のとには、能登にルーツを持つ台湾出身の俳優一青妙さんら、多くのサイクリストが駆けつけた。「能登で暮らす人とも能登にやってくる人とも、不思議なつながりでたくさん知り合いになれた」

 2026年9月、ツール・ド・のとは38回目の大会を迎える。年明け、成田さんには、うれしい出来事があった。

 ツール・ド・のとに参加したサイクリストの自転車が、成田さんらを介して被災者の1人に渡った。その人は輪島市で民宿を経営しており、毎年、1日目を走り終えて充実の表情で泊まりに来るサイクリストたちを見て「いつかは自分も走ってみたい」と思っていた。地震で宿は廃業したが、38回目の大会にはサイクリストとして参加する。

 38回目は、9月21日に金沢市をスタートする130㌔のコース、2日目は復興ライドとして能登空港をスタートする110㌔のコースを思い描いている。

 成田さんは胸を張った。「ツール・ド・のとという自転車旅はまだまだ続きます」