新たな視点でめぐる波乱の生涯 大阪歴史博物館で小泉八雲展 試練を学びに「怪談」秘話も

長男・一雄の七五三の祝い 1896(明治29)年1896 小泉家蔵

大阪歴史博物館(大阪市中央区)で開催中の特別展「小泉八雲-怪談とフォークロリストのまなざし-」(産経新聞社など主催)は、作家、小泉八雲(1850~1904年)が、まるで民俗学者のような探求心を抱きながら生み出していった作品群とその生涯を、150件に及ぶ写真や手書き原稿、絵画などさまざまな資料で読み解いてゆく展覧会である。

小さな命へのまなざし

『怪談』 1904(明治37)年 松江市立中央図書館蔵

 4章構成で、最初の章はラフカディオ・ハーンとしてギリシャに生まれ、米国でジャーナリストとして活動後、来日を果たすまで。第2章は松江、熊本などで英語教師をしながら、妻となる小泉セツ(1868~1932年)と知り合って活躍するまで。第3章は代表作として名高い『怪談』が生まれた背景を、最終章は死後も影響を与えた数々の業績を振り返る。

セツの英単語帳 明治時代 松江市立中央図書館蔵 「ドーグ 犬」「ホロース 馬」など、セツがハーンから聞き取った英単語の発音と意味が記されている

展示を見ていると、小さなころから多くの苦難を味わってきたせいか、八雲の公正で温かな思いやりをもった人柄に気付く。幼少時に父母が離婚。アイルランドの大叔母の元から英国の神学校に進むが、そこで左目を失明する。渡米して新聞記者となり結婚したものの、異人種間の結婚を禁じる法律によって仲を引き裂かれる。

試練に遭いながら、その都度、八雲は多くの学びを得た。幼少期には乳母が語るアイルランドの民話や妖精の話に胸を躍らせ、鳥や虫などの小さな命にも優しいまなざしを向けた。展示されているカエル(「蛙」)やカタツムリ(「ワトキン宛書簡」)などの戯画がその証しである。

異人種への偏見がなかった八雲は一時、西インド諸島のマルティニーク島に滞在した。異文化とじかに触れ合うことで著した『仏領西インド諸島の2年間』が好評を呼び、作家としての自信を身につけてゆく。

集大成の地・日本

壮年期になって八雲が訪れた日本は、いわば集大成の地であった。松江、熊本、神戸、東京と住まいを変えながら、日本各地を旅して見聞を広めた。幸いにして、八雲には優れた感性や観察眼が備わっており、民俗への高い理解力も持ち合わせていた。それが、最晩年に『怪談』を書き上げる素地となった。

名作の誕生には、妻のセツが大きく関わっている。八雲の創作は、原典に当たったり、人伝えの話を基にしたりしながら、そこに想像を加えて作品を作り上げる「再話文学」の手法をとることが多い。『怪談』はセツが日本に伝わるさまざまな怪異譚(たん)を語り、あるいは読み聞かせ、その声を聞き取った八雲が想像や独自の表現を加えて文学へと昇華したもので、「耳なし芳一の話」や「貉(むじな)」も、そうやって生まれてきた。

セツの語りの臨場感

セツと八雲は、助詞を省き、動詞、形容詞の活用をせず、語順は英語式という「ヘルン言葉」でコミュニケーションをとったといわれるが、たとえば「耳なし芳一の話」の中で「門を開け」とされる部分が、武家言葉の「開門(かいもん)」と表現されている箇所などは、セツの語りの臨場感を伝えるものといえよう。「セツは武家の出で、いわば近世から地続きの人。原典を読み解ける優れた人材だったのです」と担当学芸員の俵和馬さん。

名著『怪談』は1904(明治37)年4月、米国の出版社から刊行された。同年9月、八雲はこの世を去る。しかし、作品はいまなお読み継がれ、最近では八雲とセツが連続テレビ小説「ばけばけ」の主人公となることで、再び注目を集めた。

展覧会は、八雲の波瀾(はらん)万丈の生涯を新たな視点でたどる画期的なものといえる。6月8日まで。(正木利和)

  • 詳細は本展公式サイト