「長篠合戦」の本当の勝因とは? 武田勝頼が長篠城を「落とせなかった」のではなく「落とさなかった」理由

長篠城跡 撮影/西股 総生(以下同)

徳川方の拠点に定められた長篠城

 愛知県新城市にある長篠城は、天正3年(1575)に起きた長篠合戦の舞台となった城である。といっても、世に知られた「長篠合戦」は野戦であって、実際に戦いが起きたのは城から3キロほど西にある設楽ヶ原という場所だから、「舞台となった」という表現は、やや正確性を欠くかもしれない。

 とはいえ、長篠合戦はもともと長篠城の攻防をめぐって起きた戦いである。長篠城攻防戦から会戦としての長篠合戦までは、ひと続きの作戦で、両者は密接不可分の関係にある。こうした連続した軍事作戦の全体を、英語ではCampainというのだが、日本の歴史界ではそもそも戦略と戦術の区別さえつけられないのだから、Campainに「戦役」などという訳語を当ててみたところで、見慣れない言い回しになってしまうのが困ったところだ。

写真1:対岸から見た長篠城。向かって右が宇連川、左が寒狭川で、合流点に面して断崖絶壁となっている様子がわかる

 おっと、話を城に戻そう。長篠城は、宇連川(うれがわ)と寒狭川(かんさがわ)との合流点に築かれている。主郭から外側の曲輪まで高低差がほとんどないから、その意味では平城であるが、宇連川・寒狭川に面しては断崖絶壁だから、対岸から眺めると「平城」と呼ぶことにためらいを覚える。平城だの丘城だのといった区分は、所詮は便宜的なものであって、そんな単純な類型では占地の本質を捉えられないのである。

写真2:長篠城主郭の土塁。画面手前が主郭の内側。

 全体の縄張を見ると、川の合流点に寄せて主郭を置き、そこから扇形に曲輪を並べた典型的な梯郭式である。こういうときは、梯郭式という分類が何と便利なことか。単純な類型はものの本質を捉えているわけではないけれど、便利なこともあるのだ。

 城の歴史を簡単にさらっておこう。長篠城が築かれたのは永正5年(1508)と、当時今川氏に属していた菅沼元成によるとされる。長篠の菅沼家は、田峯(だみね)菅沼家や作手の奥平家とともに、山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれた。

写真3:主郭の空堀。写真2の外側にあたる堀だが、なかなかに大きい

 彼らは、永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間で斃れたのちは徳川(松平)家康につき、武田軍が奥三河に浸透してくるとそちらに服した。さらに元亀4年(天正元/1573)、信玄が三河侵攻Campainのさなかに没して、武田軍が撤退すると、家康の巻き返しに乗じて山家三方衆も徳川方に寝返った。

 ただ、奥三河をめぐる情勢が複雑に変転する中、山家三方衆の各家中でも、徳川につくか武田につくかで立場が割れていた。これを見た家康は、作手の奥平貞昌(信昌)を長篠城にいれる。

写真4:主郭の背後を守る野牛曲輪。飯田線の線路を挟んで主郭より一段低いところにある

 このままでは調略の応酬が繰り返されると、山家三方衆は各個撃破されかねない。そこで、徳川方の拠点を長篠城に定めることにしたのだ。この城なら、山がちの奥三河にあっては周囲に開けた土地(開豁地)があるし、豊川の上流にあって、吉田城(今の豊橋)から後詰めがしやすいからである。

写真5:長篠城の主郭。画面奥の山上には武田軍が累々と布陣していた。城兵たちはこのアングルで敵の包囲陣を眺めていたことになる

 はたして天正3(1575)年、権力の継承を済ませた武田勝頼は、武田軍主力を率いて徳川領に侵攻してきた。信玄の死によって中断したままになっていた、三河侵攻Campainを再開したのである。勝頼は遠江から東三河一帯を荒らし回り、吉田城を一もみしたのち進路を北に転じ、すでに武田軍別働隊によって圧迫されていた長篠城を囲んだ。

 吉田城の徳川家中からは寝返る者も出て、引馬(浜松)にあった家康は、絶体絶命のピンチに陥った。こうして家康が織田信長にSOSを出したことによって起きたのが、長篠合戦というわけだ。

 武田軍が長篠城を包囲したとき、城を守備していたのは奥平貞昌以下500ほどの兵だったといわれる。対する武田軍は総勢で1万3000~1万8000とされるから、全部が全部、城を攻めたわけではないにせよ、相当な兵力差である。

写真6:設楽ヶ原の古戦場。画面左手の丘陵が織田軍陣地で、手前には復元された馬防柵が見える

武田軍が本気で攻めなかった?

 長篠城が囲まれたとき、城内にいた鳥居強右衛門(すねえもん)は、夜陰に隠れて単身で城を脱出、家康に危急を報じて城に戻ろうとしたものの、武田軍に捕らえられてしまった。武田の兵は強右衛門を川の対岸に連れて行き、城内に降伏を呼びかければ命を助けるといったが、強右衛門は、もうすぐ援軍が来るから頑張れと叫び、逆さ磔にされた、という有名なエピソードがある。

 身を挺して落城をふせごうとした鳥居強右衛門の勇敢さとともに驚くべきは、圧倒的大軍による攻撃をはね返し続けた城兵たちの戦いぶり。いや、城兵たちの奮戦敢闘もさることながら、武田軍を寄せ付けなかった長篠城の難攻不落ぶりこそ、讃えられるべきではないか……といいたいところだが、そう評価するのは早計だ。

写真7:寒狭川の対岸にある鳥居強右衛門磔の碑。現地を訪れると、ここから叫べば城内に聞こえただろうことがわかる

 まず、事件を時系列で整理してみよう。武田軍の別働隊が、最初に長篠城に攻め寄せたのは5月1日。勝頼の率いる主力も、10日頃までにはこれに合流して城を囲んだようだ。

 一方、信長が率いる織田軍主力は、18日には設楽原の西方に布陣。勝頼は20日に押さえの部隊を残して攻囲陣を引き払い、設楽原東方に進出した。こうして翌21日に決戦となる。つまり、長篠城が圧倒的大軍の攻囲に曝されていたのは、正味10日間ほど。そんなに長い期間ではないのだ。

写真8:瓢(ふくべ)曲輪跡。現在は石碑のみが立つ。この近くに大手門があったと伝わる

 次に城の占地と縄張だが、川の合流点を選んでいる以上、縄張は梯郭式となるしかない。守備兵力を考えるなら城域も広くとりようがないから、あとは堀と土塁をせいぜい大きくし、虎口を工夫して頑張るしかない。といっても、兵力差が圧倒的に大きければ、防禦線のどこかが決壊した時点で、あとはなし崩しに押し込まれるしかないから、工夫にも限度がある。

写真9:主郭の入り口に建つ資料館。このあたりに丸馬出があったことが発掘調査で判明している

 問題は占地である。確かに、宇連川・寒狭川の合流点から眺めると、この城はいかにも難攻不落に思える。強襲を仕掛けるのは難儀そうだ。でも、反対側はどうだろう。

 現地へ行ってみると一目瞭然だが、合流点の反対側(北側)は同じ高さの平地が続いている。しかも、城外のすぐ近くまで丘陵が迫ってきている。この丘陵上に敵が布陣したら、城内の様子は丸見えになるわ、鉄炮は撃ちかけられるわ、守備側が選択できるコマンドは「みんながんばれ」しかない。そして実際、武田軍は丘陵上の一面に布陣しているのだ。

写真10:資料館から城外を見る。向こうの丘が武田軍の最前線。この地形では厳しいことがわかる

 にもかかわらず長篠城が落城を免れえたのは、城兵の奮戦敢闘によるものというより、武田軍が本気で攻めなかったから、と考えるべきだろう。

 天正3年のCampainを全体として見るなら、勝頼の作戦意図は明らかだ。徳川領を荒らし回って徳川軍主力を引きずり出し、自軍に有利な状況で決戦に持ち込む。長篠城はそのためのエサなのだから、適当にいたぶって生殺しにしておき、徳川軍主力を引きずり出す。家康が出てこなかったら、そのときは城を踏みつぶせばよい。三河・遠江の国衆の中から、武田方に靡く者が続出するだろう。

写真11:主郭の土塁と堀。堀も土塁も大きいことは大きいが…

 つまり、武田軍は長篠城を落とせなかったのではなく、落とさなかったのだ。勝頼にしてみたら、鳥居強右衛門が何を叫ぼうが、どうでもよかったに違いない。

 ただ、結果として長篠合戦では織田・徳川軍が勝ち、そればかりか家康はのちに天下人となった。長篠城を守っていた奥平貞昌は10万石で美濃加納城主となったし、そのほか戦いに関わった者たちも、譜代大名やら旗本やらとなった。長篠城での戦いは、勝ち組として生き残った彼らにとって、懐かしくも輝かしい武勇伝となったのである。

 あ、そうそう。長篠合戦ののち家康は、奥三河における支配拠点を新城(しんしろ・現在の新城市)に移して、長篠城を廃した。家康はわかっていたのだ。そこまでの城だ、と。

写真12:主郭跡。ここで籠城の苦楽を共にした者たちは戦国の勝ち組となっていった

[参考図書]長篠合戦についての筆者の評価に興味のある方は、拙著『東国武将たちの戦国史』(河出文庫)をぜひご一読下さい。

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