「渋谷」の由来は地形から? 討伐された盗賊の名から? 山手線の駅名にまつわる「意外な歴史」渋谷篇

大正14(1925)年の渋谷駅(鉄道博物館所蔵)(『山手線「駅名」の謎』より)
首都・東京の中心部を走る大動脈、山手線。一般的には環状線として認識されているが、実は正式な山手線は品川~田端間(新宿経由)の区間のみ、という事実は案外、知られていない。田端~東京間は東北本線、東京~品川間は東海道線なのである。
江戸文化風俗史研究家の小林明氏が、山手線にまつわる謎を駅名からひも解いた『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)が7月28日に上梓された。同書では山手線全30駅の駅名の由来をキーに、都心各地の意外な歴史を紹介している。今回は、そこから「渋谷」を紹介する。
駅名の由来には3つの説がある
渋谷駅データ
開業 明治18年(1885)3月1日
1日の平均乗車人員 31万4059人(30駅中4位)
乗り入れている路線 山手線、埼京線、湘南新宿ライン(以上JR)、田園都市線、東横線(以上東急)、銀座線、半蔵門線、副都心線(以上東京メトロ)、京王井の頭線
世界一人流が多いといわれ、日本を訪れる外国人客がこぞって見物にやってくる渋谷スクランブル交差点。今では想像もつかないが、この一帯は明治時代までのどかな農村だった。
農研機構『歷史的農業環境閲覧システム』によると渋谷駅周辺は「上渋谷村」「中渋谷村」「下渋谷村」 に分かれ、茶畑や梨の木に囲まれていた。ここに駅が誕生したのは明治18(1885)年3月1日。 3つの村は明治22(1889)年の町村制施行で合併して「渋谷村」となり、明治42(1909)年に「渋谷町」となった。
渋谷町の人口は大正9(1920)年の第1回国勢調査によると、約8万1000人。「町」としては全国最大規模だったのだが、そもそも、なぜ「渋谷」という名がついたのか――地名の由来には、以下のような複数の説がある。
〈地形・海辺説〉「塩谷の里」と呼ばれていたのが転じて渋谷となった。太古の昔、この地は海辺だった可能性が高く、深く掘ると塩がとれたという。
〈地形・川沿いの低地説〉川が流れており、流域が凹型の低地、つまり谷あいになっていた。また、川の水が鉄分を含んだ渋い色(赤茶)だったことから、渋い色の谷=渋谷となった説。
この「川」が渋谷川であり、現在も渋谷駅の南から天現寺橋まで2.4kmにわたって流れている。 それ以外の区間は地下に埋められ、暗渠(あんきょ)となっている。いわゆる下水道幹線である。また渋谷川の支流で、参宮橋方面に流れる河骨川が童謡『春の小川』のモデルとなっていることは、あまり知られていない。「さらさらいく」と言われるくらいだから、清流だったのだろう。河骨川も現在は暗渠となっている。
〈人名・平安期のエピソード説〉平安時代後期、京都の御所に侵入した盗賊を捕縛し、天皇から「渋谷」姓を賜った武士が、この地にやって来て統治したとする説。
地名研究家の谷川彰英によれば、信頼できるのは<地形・河辺説>だというが、<地形・川沿いの低地説>も地形的には間違っていないため、「捨てがたい」という。山手線の最標高駅は代々木駅で標高38.7m。そこから渋谷駅周辺の約15mまで下り、恵比寿に向けてまた上っていく。渋谷は谷地にあるのだ。
盗賊を捕らえた褒美に「渋谷姓」を賜った武士がいた?
<人名・平安期のエピソード説>は伝説に過ぎないが、なかなか興味深いので詳しく紹介したい。
京都御所で盗賊を捕らえた武士は、桓武平氏の流れを引く河崎重家という男で、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん・神奈川県川崎市)を拠点としていた。また、重家が捕らえた盗賊の名は相模国(神奈川県)の渋谷権助盛国。盗賊が自らこの名を白状したと伝わっている。
重家の武勇を伝え聞いた堀河天皇(第73代)は彼を讃え、恩賞として盗賊の姓・渋谷を重家に授けた。重家は御所警護の任が明けると河崎改め「渋谷重家」となり、現在の渋谷の地に赴き、所領としたという。渋谷警察署の裏手にある金王八幡宮に立つ碑に、この話が刻まれている。
渋谷氏は金王八幡宮のあたりに、かつて館を構えていた。社伝は平安時代末期の寛治6(1092)年、重家がここに渋谷城を築城したとしている。実際、戦国時代の大永4(1524) 年に渋谷氏が滅亡するまで、同氏の政庁があった。
ただ、城の遺構などは残っていないため、城郭・戦国史研究家の西股総生氏は、あくまで「城跡伝承地」にすぎず、館があっただけではないかと述べている。
しかし、盗賊の名を姓としたという説はいくら何でも飛躍しすぎだろう。仮説に過ぎないが、 盗賊の渋谷権助の「権助」は正確には「権介」と書き、平安時代に置かれていた地方官職「権官」(ごんかん) を指していたのではないかとみられる。つまり、朝廷から指名されたれっきとした役人だった可能性があるのだ。
渋谷権助はもともと朝廷に任官された相模国の豪族だったが、何か不始末を起こしたために討伐の対象となり、朝廷の命を受けて討ち取ったのが河崎重家で、その恩賞として渋谷を領地として賜った。一方の権助は時が経つにつれ、盗賊の汚名を着せられていった――と考えるのが自然ではないだろうか。
結局のところ、渋谷は「塩谷の里」などの地形由来の地名であり、その地名を名字とした渋谷氏が武功を喧伝するため、盗賊討伐の話が創作されたとみるのが妥当だろう。
道玄坂と宮益御嶽神社が見どころ
金王八幡から駅を挟んで西にあるのが道玄坂だ。道玄坂上交番前交差点に、坂の名称の由来を刻んだ碑が立っているが、足を止める人はほとんどいない。
碑文によると、「道玄坂」の名は戦国時代の武将・北条氏綱が大永4(1524)年、この地に侵攻して渋谷氏を滅ぼした後、その一族の大和田道玄が坂の脇に庵を立てたことに由来するという。
徳川家康の家臣だった内藤清成が著した『天正日記』にも、道玄がそうした由緒書を家康に出していると記されている。しかし、『天正日記』は信ぴょう性が極めて疑わしい史料であるため、眉に唾をつけて聞く必要があるだろう。
一方、『江戸名所図会』は大和田道玄は鎌倉時代初期の人で、源頼朝の御家人だった和田義盛の一族と記している。義盛は建暦3(1213)年、鎌倉幕府に反乱を起こして敗れ、和田氏は滅亡した。その際、道玄は鎌倉から落ちのび、以降はこの坂に潜んで山賊として名を馳せた。ゆえに道玄坂といわれるようになった――と。『天正日記』とはまったく異なるエピソードだが、こちらも確証はない。
渋谷の隠れた名所としてもうひとつ挙げておきたいのが、駅から徒歩2分ほどの場所にある宮益御嶽神社だ。社殿前に、狛犬の代わりに青銅製の山犬の像がある。山犬はニホンオオカミのことである。こちらは複製品で、延宝年間(1673~1681)の作とみられる原形のオオカミの石像は社務所に安置されている。
荒川上流域に広がる秩父山地は、明治末期に絶滅したとされるニホンオオカミの生息地だった。
一帯には「お犬様」の名称でオオカミを祀る神社が、多くある。江戸時代に入ると、オオカミ信仰は疫病退散の願いと重なって関東甲信地方の平野部にまで広がったという。
宮益御嶽神社は、オオカミ信仰の名残を都心に伝える貴重な場所なのである。

明治初期の渋谷周辺地図。畑の中に(1)上渋谷村(2)中渋谷村(3)下渋谷村の村名がある/農研機構『歴史的農業環境閲覧システム』より(『山手線「駅名」の謎』より)

渋谷の金王八幡宮(『山手線「駅名」の謎』より)

金王八幡宮の境内に立つ碑。渋谷重家が盗賊を退治した一件が刻まれている(『山手線「駅名」の謎』より)

宮益御嶽神社には狛犬ではなくオオカミが社殿前に鎮座している(『山手線「駅名」の謎』より)

山手線30駅の駅名に隠された首都の歴史を紹介
『山手線「駅名」の謎』(小林明・著/鉄人社)