【高市早苗首相の源流】松下政経塾からテレビへ、無所属からの出発 度重なる政党転身と配慮不足は時流読みの裏返し?

31歳で政界入りした高市早苗首相は、女性議員の比率が1割にも満たなかった時代から国会で生き抜いてきた。そして64歳で、日本初の女性首相の座に就いた。ただ、その「強気な姿勢」はときに混乱を招き、政治生命が危ぶまれる場面もあった。AERA 2026年1月26日号より。
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松下政経塾に在籍していた87年には、アメリカへ派遣され、民主党下院議員のパトリシア・シュローダー氏のもとで働いたといい、元号が平成に変わった89年に帰国。同年に政経塾を卒業し、テレビキャスターとしてのキャリアが始まった。
“無名”の政経塾出身者がテレビ出演に至った背景には、ある人物の存在がある。「政経塾にいるユニークな女性」として高市早苗氏に注目し、各番組へ橋渡しをしたテレビプロデューサーのA氏だ。テレビ出演を機に、高市氏は知名度を高めていく。
転機は92年。政界への転身をめざすも同年7月の参院選の自民党公認争いに敗れ、無所属で出馬し落選。翌93年7月の衆院選では無所属で初当選を果たす。2期目となる96年10月の衆院選では新進党の公認で出馬し当選した。だが、当選直後に離党。わずか2カ月で政権与党に復帰していた自民党に入党を表明したことで、批判を呼んだ。
党首だった小沢一郎氏の言行不一致などを離党の理由としているが、新進党の候補としての高市氏を支援していた公明党奈良県本部にとっては青天のへきれき。強い反発を買い、2003年の衆院選で県内の自民候補で唯一公明から推薦を得られず、落選するという代償が伴った。
浪人生活を経て、小泉郵政解散の“刺客”として05年に現在の地盤と重なる旧奈良2区へ。対立候補は家族ぐるみの付き合いだったという滝実氏だった。初出馬からわずか4年で、無所属~自由党~新進党~無所属~自民党と渡り歩き、刺客にもなった。ときにハレーションを起こし、「不義」と断じられたことも。そんな高市氏を奈良在住の元国会議員は「時流を読むのがうまい政治家」と評価する。
「時流を作るというよりは、それを読んで乗ることにたけている。ただ、配慮が足りないので、成功するときもあれば失敗するときもある」
“配慮の足りなさ”はその後もつきまとう。
高市氏は自民党入党後、旧安倍派の清和政策研究会に所属する。当選同期の安倍晋三氏と交流を深め、06年の第1次安倍内閣で内閣府特命相として初入閣。12年に第2次安倍内閣が発足すると、女性として初めて政調会長に就任した。14年に発足した第2次安倍改造内閣では女性初の総務相となり、17年まで務めた。
高市氏のキャリアを振り返ると、「女性初」という言葉が目に留まる。当時、国会議員の女性比率は1割にも満たず、とりわけ自民党は今でも男性議員が多くを占めているのが現状だ。
自民党では、これまでにも数々の女性政治家が総理総裁の座を狙ってきた。かつて自民党議員だった小池百合子東京都知事(73)は、08年に女性で初めて総裁選に立候補したが、涙をのんだ。

■うじうじ振り返らない
小池氏はその後しばらく自民党広報本部長などを務めたが、16年に永田町を飛び出し、都庁へ。女性首相誕生の時流に乗ることができなかった小池氏は、女性初の東京都知事として辣腕を振るう。だが、希望の党を立ち上げた17年に「排除」発言もあり、失速した。
その一方で、高市氏はガラスの天井を打ち破り続け、総理総裁まで上りつめた。
「水を得た魚のように、今が一番生き生きしている」
奈良県医師会長で地元後援会長の安東範明氏は高市氏の躍進に目を輝かせる。二人の交流は、10年ほど前に安東氏が医療問題を相談したことがきっかけで始まった。
「実力で道を切り開いて、やりたいことをやっとできるようになったリーダーです。世襲でもなければ、小学校から大学まで国公立。その環境で自分の高い理想のために努力してきた」
高市氏は、度々「理想」を口にするという。
「面と向かって愚痴を聞いたことはない。高市は未来を語る人。常に目線を上に向け、『絶対に負けないわよ』という自信がある。過去をうじうじ振り返ることはまずないんじゃないかな」
しかし、「強気な姿勢」はときとして混乱を招き、政治生命が危ぶまれる事態にも陥った。
高市氏が総務相だった2016年2月、放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返した場合の停波の可能性に言及。メディア統制だと批判が噴出した。騒動は落ち着いたように見えたが、23年3月、放送法を巡る総務省内部文書が野党議員から公表される。高市氏は、「捏造でなければ議員辞職する」と発言。野党の追及に「信用できないんだったら、もう質問なさらないでください」と答弁したことも問題になった。
余波はお膝元にも及んだ。奈良県では、同年4月に県知事選が控えていた。その際に高市氏は県連会長として、現職より30歳若く、自身が総務相だったときの秘書官の平木省氏の擁立を主導。前回まで自民党の支援を受けた荒井正吾知事との間で票が割れ、「保守分裂」となった。
党本部は態度を保留し、一部県議や首長は荒井氏を推すなど自民内で対応が割れた。選挙の責任者だった高市氏は放送法問題もあり、平木氏の応援に注力できなかった。その結果、“漁夫の利”で日本維新の会公認の新顔、山下真氏が当選した。

■地方で地道に党員獲得
関西で勢力を強める維新だが、大阪以外で維新が公認する候補が知事になるのは初めてだった。それだけに、県知事選すら仕切ることのできなかった高市氏の政治手腕に対しては、「もう終わった」という声もあがったという。
「一度は現職で、という話でまとまりましたが、どの調査を見てもしんどい部分があった。選挙戦略という意味で、『このままでは勝たれへん。若い人にバトンタッチしたほうがいいんじゃないか』という話になったんです」
そう振り返る自民党奈良県連幹事長の疋田進一氏は調整不足を認め、続ける。
「それぞれに思いがあるなかで、結果的に保守分裂してしまった。ただ、あの状況で誰ができたかと言われるとわからない。高市先生は県連会長を辞められたということで一区切りやったとも思います」
責任者だった高市氏には冷たい視線も注がれたが、24年9月の2度目の総裁選では決選投票まで進み、時流をつかむ力を発揮。地方での講演会を多く開くなど、地道に党員を獲得してきた。前出の安東氏は、この総裁選以降、「高市首相」を意識する人が増えていったと感じている。
「診療所に来られる患者さんからも事あるごとに、『早苗ちゃんを泣かせたらあかんよ』『先生も頑張ったりや』と言われましたね」
地元の激励から1年。25年10月、高市氏は3度目の自民党総裁選を勝ち抜き、首相の座についた。就任当時、安東氏は祝福のメールを送った。
「高市からは、『今からが勝負なんで』と返ってきました」
多忙を極める高市氏だが、11月に開かれた奈良県医師会の創立記念式典には、来賓祝辞を送っている。そのメールにはビデオメッセージも添えられていたという。
その一方で高市氏に複雑な感情を抱く人もいる。
「もうちょっと人間らしく生きてほしい」
そう憤るのは、奈良県に住む70代男性だ。男性は、高市氏のテレビ出演の足がかりをつくったプロデューサー・A氏が理事を務めるNPO団体で活動していた。男性は言う。
「今があるのは、テレビで名前を売ったことが大きい。その口利きをしたのはA氏。それなのに、時間がたっているとはいえ、高市さんはA氏の九回忌に、電報すらよこしませんでした」
A氏は、フリーのメディアプロデューサーとして「関口宏のサンデーモーニング」などに携わる一方で、政治家や財界人を集めた演劇を手がけていた。劇には当時民主党の枝野幸男氏や自民党の石原伸晃氏らが出演。そこには高市氏の顔もあった。
■挨拶しても無視された
政財界にも交友が広かったA氏だが、2007年12月に急逝。15年の九回忌には、劇でテーマにした吉田松陰ゆかりの東京・三軒茶屋付近で故人を偲ぶ会合が開かれたが、高市氏は欠席したという。
高市氏の“義理の息子”にあたる福井県議の山本建氏は、首相就任後のインタビューで、高市氏は「誰にでもしっかり礼儀を尽くす」という幸之助の教えを守っていると答えていた。A氏の妻はこう話す。
「挨拶しても無視をされることもありました。過去を知っている立場からすると、いい感じは……」
(編集部・福井しほ)

※AERA 2026年1月26日号より抜粋
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