「会社で泳ぐのはもう限界」大手商社の安定を捨て、52歳から笑いの舞台へ。還暦で挑む「最後の賭け」

「組織でうまく泳ぐことに限界を感じたんです」。誰もが羨む大手商社のキャリアを手放し、還暦を過ぎた61歳で日本のスタンドアップコメディの道を切り開こうとする男性がいます。安定した給与や輝かしい肩書きを捨ててなぜ彼は別の人生を選んだのか。人生の後半戦、誰にも似ていない道を進むRyo Hayashiさんが、いま見据えているものとは──。

エリート路線に「たまたま乗っかった」

エリート路線に「たまたま乗っかった」, 「自費で交渉に!」と啖呵を切って商談をまとめ, しかし「会社で泳ぐこと」に限界を感じて, 退職後は単身ニューヨークへ「道は開ける」, 離婚を経て52歳でコメディアンの道へ, 61歳「これが最後の賭けです」

Ryo Hayashi

中年男女を対象にした恋愛リアリティ番組に出演。フラれるという結末に落ち込んだそう

──  Ryoさんは24年に配信された人気恋愛リアリティ番組に還暦で出演。話題を呼びました。現在はひとりで観客の前に立ち、話芸で笑いを届ける「スタンダップコメディ」に取り組んでいるそうですね。まずは、今どのような生活をされているのか伺えますか?

Ryoさん:職業を聞かれたら「スタンダップコメディアンです」と言っていますが、それだけではやっていけないので、長年続けている投資収益で補ってます。60歳になってから国民年金の前倒しも堂々ともらってます。

──  コメディアンとしての収入はどうやって得ているのでしょうか?

Ryoさん:「東京コメディーバー」という全国でも数少ない日本のコメディクラブに週3回ほど出演しています。あとは企業や団体に呼ばれて、スタンダップコメディを披露して収入を得ている感じですね。

──  もともとは上智大学を卒業後、大手商社でバリバリ働くエリートだったそうですね。

Ryoさん:自分としてはたまたまエリート路線に「乗っかった」という感じでした。進学校ではない高校から猛勉強の末、上智に入学し、ラグビー部に入ったところ、OBに商社勤務の人がたくさんいたのが縁です。「車両本部」という部署に配属され、中南米に日本のトラックやSUVを売りこむ仕事をしていました。

バブル真っただ中でしたし、入社後はCAとたくさん合コンをするなど、夜は遊んで弾ける生活でしたね。ただ、当時の僕は自分自身にプレッシャーをかけてしまって徐々に仕事がつらくなり、3年目のときに、今で言う「メンヘラ」っぽくなってしまったんです。

──  その状態からどのように回復したんですか?

Ryoさん:人事に「辞めます」と言ったら、「給料の7割出すし、1年くらい休んでもいいから」と引き留められてしまって。バブル時代だったので、人材を失いたくなかったんでしょうね。「簡単には辞められない…」と絶望しましたが、会社が持っていたラグビー場で同僚と週末にラグビーをするようになったら、憑き物が取れたように身体も心も自然と回復していきました。

「自費で交渉に!」と啖呵を切って商談をまとめ

──  韓国企業「サムスン」との取引を始めて成功させたこともあったとか。

Ryoさん:「辞める」ことを諦めたら、「新規事業開発部」に異動になりました。名前とは裏腹に出世コースから外れたクセのある社員が集められたような部署でしたね(笑)。そこでコンピューターのハードディスクを動作させるモーターを売り込むことになりました。そんなとき、当時は誰も知らない会社だった「サンセイ(三星電子)」、今のサムスン電子から引き合いがあったんです。

──  当時のサムスンは、今のような世界企業ではなかった?

Ryoさん:ほとんど無名でした。ソニーが天下だったころでしたから、当時の部長や仕入れ元の課長など全員に「そんなわけのわからない会社と商売するな!」と猛反対されたほどです。でも、掛け売りではなくキャッシュでの取引という好条件でしたし、「いける!」と直感で感じたんです(笑)。若造の生意気さで、「自費でも交渉に行きます!」と啖呵を切って、上司たちを連れてソウルに商談へ行きました。

──  現場での交渉はどうでしたか?

Ryoさん:約束をしてオフィスに行ったのに、目の前で相手の課長が新聞を読んでいました。対応してくれた部下が「課長は今忙しいので会えません」って…(笑)。上司たちからは「そら見たことか」という顔をされました。でも僕は「先方は自分たちのメンツを立てようとしているだけだ」と思い、渋ヅラのふたりを説得して30分待ちました。しばらくすると課長が新聞をたたんで、「じゃあ会いましょうか」と。結局、取引条件もよくてその後のビジネスも上手くいきました。

しかし「会社で泳ぐこと」に限界を感じて

エリート路線に「たまたま乗っかった」, 「自費で交渉に!」と啖呵を切って商談をまとめ, しかし「会社で泳ぐこと」に限界を感じて, 退職後は単身ニューヨークへ「道は開ける」, 離婚を経て52歳でコメディアンの道へ, 61歳「これが最後の賭けです」

Ryo Hayashi

大手商社時代のRyoさん。日本メーカーの代わりに中南米で日本車の売り先を探す仕事をいていた

──  仕事も順調だったのに、なぜ退職を?

Ryoさん:「会社で泳いでいく」ことに限界を感じていたんです。出世することにも興味がなかったですし、会社という組織の中で本当にやりたいことも見つからず…。サムスンとの取引で「新しい客を開拓した」ことは自信になりましたし、会社にも多少は恩を返せたかな、と。2度目の辞表を出したら、バブルが弾けていたこともあって、すんなり受け入れられました。 

── 「安定」を手放す怖さはなかったですか。

Ryoさん:怖かったのはむしろ「方程式」です。周りの同期が結婚して、家のローン、車のローン、全部会社が信用を付けて貸してもらえる。そうなるともう、一生会社にいなきゃいけない。その「会社に縛られる方程式」が自分には絶対に合わないと思ったんです。

──  身近な人から反対されたことは?

Ryoさん:父親からは「辞めるな。後悔するぞ」と言われました。実は61歳になった今でも「お前、商社にいたら今ごろは…」とずっと言われ続けているんですよ。だから「今ごろは定年退職して嘱託職員だっただろうね」って言い返すようにしています。もういい加減、心配してもらうに値しない年齢になったんだから、と(笑)。

退職後は単身ニューヨークへ「道は開ける」

──  世間的にみたら安定した地位を手放し、商社を退社後は単身ニューヨークへ渡りました。それはなぜですか?

Ryoさん:小学4年生のときに父の仕事の都合でイギリスに1年半滞在したことが大きかったと思います。現地のカトリックスクールに放り込まれて、初日から聖書を渡されて「読みなさい」と言われる生活が突然始まりました。英語がいっさいしゃべれなかったので、当然のようにいじめられ、つらい日々を過ごしました。ただ、多感な時期を欧米で過ごしたことで「日本の同調圧力が苦手」と感じるようになったんです。「とにかく海外に行きたい」と、まずはアメリカを見て回ったんですが、ニューヨークのエネルギーに惚れこみ、移住を決意しました。

──  仕事のあてはあったのでしょうか?

Ryoさん:まったくなかったです。ただ、当時は学生ビザが取得しやすかったので、夜間学校に通いながら、ニューヨーク大学の映画学部を目指しました。映画業界ならスーツを着る仕事からは離れられると思ったからです。でも最初は箸にも棒にもかからず落ちました。3回目でようやく合格。でもその時点で貯金がゼロになっていて…。

──  貯金ゼロでどうやって学費を?

Ryoさん:商社時代の先輩に「銀行の残高証明を出す間だけ、お金貸してください」って頼んだり、個人的にニューヨークのエンタメ情報をレポートする契約を日本の会社と結んだりして、なんとか学費を工面しました。「道は開ける」というメンタリティが確立したのはこのころです。一歩進めば見たことない景色が広がる。失敗したって別に命が取られるようなことはない、と。

離婚を経て52歳でコメディアンの道へ

エリート路線に「たまたま乗っかった」, 「自費で交渉に!」と啖呵を切って商談をまとめ, しかし「会社で泳ぐこと」に限界を感じて, 退職後は単身ニューヨークへ「道は開ける」, 離婚を経て52歳でコメディアンの道へ, 61歳「これが最後の賭けです」

Ryo Hayashi

英語は流暢だが、アメリカの舞台ではわざと日本語アクセントで登場して観客を掴むことも

──  大学を卒業してからは、音響エンジニアや映像制作講師を経て、スタンダップコメディアンを目指すようになりました。

Ryoさん:大学を卒業してからは映画業界でフリーランスの仕事や講師をして生計を立てていました。しかし何かが違う、僕は本当に長編映画を撮りたいのかな、と自問自答する日々が続いていました。

そんななか、自分が好きな映画監督にスタンダップ・コメディアン出身の人が多いことに気づきました。ウディ・アレンとかマイク・ニコルスとか。ニューヨークはスタンダップ・コメディの本場、何かヒントが見つかると思って、初めてNYでいちばん人気のコメディ・クラブ「Comedy Cellar」に足を踏み入れてみました。人種も性別も違ういろんなタイプのコメディアンたちが、ひとりずつ舞台に立ってはマイク1本を武器にジョークを言っている。笑えるネタもあれば、違和感を感じるネタもある。その笑いの多様性に衝撃を受けました。と同時に、もしかしたら僕にもできるんじゃないか、と。 

ニューヨークで出会い15年連れ添ったノルウェー人の妻と離婚したのもそんな時期です。結婚生活のなかで、家族や暮らし方に対する考え方のズレが少しずつ広がっていったことが、大きな理由です。落ち込んでてはいけない、何か新しいことにチャレンジしよう。ならば清水の舞台を飛び降りる覚悟でスタンダップにトライしてみようと。先ずはマンハッタンにあるコメディ教室に通い、試しに離婚の話をネタにしてみたら、大ウケで。「人を笑わせた!」というあの瞬間の高揚感は、もう忘れられません。

それ以来、毎日のようにオープン・マイク(公開練習)に通うようになって、もう、どっぷりハマっていきましたね。

──  ニューヨークでもトップ3に数えられる名門「ニューヨーク・コメディクラブ(通称:NYCC)」のオーディションにも合格されました。ここはアメリカでコメディアンを目指す人なら誰もが憧れる舞台だそうですね。

Ryoさん:全米から相当数の応募者があり、一度落ちるとその後は1年間、オーディションを受けられないなど、かなり厳しい世界なのです。私は約3年の下積みを経て2019年に合格しました。でも、受かってもメインのショーにはなかなか出られません。

いちばん出番があったのは「チェックスポット」という場所です。ショーが終わって、お客さんがお会計(チェック)をしているときに出て行って、笑わせる。みんな帰ろうとして集中力がないなかで、チェックの手を止めさせる。極めて難しい、トレーニングのようなスポットです。ただ、この経験がコメディアンとしての自信になりました。

61歳「これが最後の賭けです」

──  その後、2023年に帰国し、今度は日本でスタンダップコメディアンとして活動を始めました。

Ryoさん:本場の舞台で自信がついたものの、やればやるほど、いちばん多感な幼少期・青年時代をアメリカで過ごしていないがゆえに、観客と共有できるものが少ないと感じ、限界が見えてきたんです。両親の介護も重なり、帰国することにしました。帰国と同時期に渋谷でコメディクラブがオープンしたので、主にインバウンド客向けに、ニューヨークと同じように英語でスタンダップコメディをやり始めました。

──  日本でもスタンダップコメディの魅力を伝えたいと思っていらっしゃる?

Ryoさん:実は今、これまでやってきた英語のスタンダップコメディではなく、日本語でやることに燃えているんです。日本でもこの新しいコメディスタイルは広められるんじゃないか、と。

──  アメリカの文化が色濃いスタンダップコメディですが、日本での評判はどうですか?

Ryoさん:皮肉をベースにするネタなので、日本のお笑いとカルチャーは少し違いますが、絶対にニーズはあると思っていて。面白いのは、日本の自立した女性たちからの支持が多いこと。陰ながら叩かれたり、嫌な思いを乗り越えた経験を持った人は、スタンダップにハマってくれる方が多いですから。僕は今、61歳。健康寿命はあと10年ぐらいだと思っているので、これが最後の賭けです。日本のスタンダップコメディを切り拓いて、ブレイクスルーしたいですね。

取材・文:石野志帆 写真:Ryo Hayashi