「西部邁が生きていたら高市政権を批判していたと思います」、戦後日本が失った「保守」の核心

市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫(写真:akg-images/アフロ)

 自民党保守派と呼ばれてきた高市総理。米トランプ政権を前に慎重な立ち振る舞いを見せているが、本来やるべきことに取り組んでいないとの批判の声も聞かれるようになってきた。現在日本を覆っている保守ブームは本物なのか。『保守のコスモロジー』(講談社)を上梓した文芸評論家の富岡幸一郎氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──本書では特に、三島由紀夫、江藤淳、西部邁についてページが割かれています。保守という観点でこの3人を比較すると、どんなことが言えますか?

富岡幸一郎氏(以下、富岡):1970年11月25日、作家の三島由紀夫は憲法9条の改正を訴え、自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決しました。あの事件は右翼的だと言われました。

 当時中学1年だった私は三島由紀夫についてはほとんど知らず、ノーベル文学賞の候補にもなる作家がなぜあのような死を選び、憲法改正と自衛隊が真の国軍になることを求めたのかと不思議に感じました。

 その後に三島さんの文学や評論を読むようになり、私もアメリカに従属することで経済成長を遂げる戦後の日本の姿勢には大きな問題があると考えるようになりました。三島さんは自衛隊に向かって対米従属から脱却しろと訴えましたが、これは政治だけの問題ではなく、文学を含む日本の文化の問題でもあります。

 実は当時の左派も、「平和憲法」を尊重しつつもアメリカの核の傘の下で平和を求める日本には問題意識を持っていましたから、1991年のソ連の崩壊による冷戦終結後に日本も変わっていかなければなりませんでした。

 三島さんは、天皇を日本の歴史と伝統の象徴だと考えました。文化概念としての天皇こそが日本文化の根源であり、そこを保ち守らなければならないという意志が三島さんの基本的な主張です。割腹自殺のときも一緒に自決した森田必勝と共に「天皇万歳」を叫びました。

 1968年に三島さんは『文化防衛論』という評論を書いています。これは彼の保守思想の本質をぎゅっと凝縮した内容になっています。

 戦争が終わったときに三島さんは20歳でしたから戦死した仲間たちもいました。江藤さんは12歳で、西部さんはまだ6歳ですから世代的な意識の違いがありました。

 表現も過激だし伝統回復を焦ったと、江藤さんは三島さんの自決に対して、当初肯定的な感想は持っていませんでした。私は評論家になってから、何度も江藤さんとお話をさせていただく機会がありましたが、江藤さんは次第に「やはり三島は正しかった」という考えを持つようになり、晩年は深く共感していました。

 一方の西部邁は、1960年の安保闘争で全学連を指導した中心人物でした。ただ、彼はこの安保闘争こそが日本の左翼思想を歪んだ反米感情にしてしまったと考え、やがて左翼の過激派から離れ、いわゆる保守思想に変わっていきました。

──江藤淳は三島由紀夫のどんなところに最終的に共感したのですか?

江藤淳が三島由紀夫に共感した理由

富岡:三島さんは1970年に、『果たし得ていない約束 私の中の二十五年』という評論を産経新聞に書きました。ちょうど戦争終結から四半世紀のタイミングです。

 日本は高度成長を遂げ豊かになった。皆浮かれているが、本当にこれでいいのか。日本の歴史と伝統は失われ、残されたのは対米従属下の経済成長しかない。彼はそう批判しました。この段階で、三島さんは自決を決めていましたから、あの評論には遺書のような意味合いがありました。

 1980年代になると日本はさらに豊かになり、世界第二位の経済大国になりました。アメリカとの貿易で膨大な黒字を出し、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本を出しました。ところが、1985年のプラザ合意を経て、アメリカは勢いづいた日本の経済を叩きました。やがてバブルも崩壊し、日本は失われた30年に突入しました。

 こうした時代を生きた江藤さんは、60年から80年代まで続いた日本の成長は虚妄だったと痛感したのです。自分たちの土台の上に家を建てたのではなく、アメリカ次第の安定で、アメリカが怒ればペシャンコにされてしまう。日本は本当の自分たちの姿に戻らなければならないという三島由紀夫の思いに深く共感したのだと思います。

──西部邁との出会いについて書かれています。

富岡:もう移転しましたが、当時、新宿三丁目に文壇バー「風花」がありました。私もよく編集者とこのバーを訪れ、そこで西部さんと初めて出会いました。

 西部さんは当時、文芸評論家の福田恆存と西洋古典学者の田中美知太郎を日本の保守思想の先達として高く評価していました。もっとも、福田恆存の背後にあるのはキリスト教的な西欧の神の考え方で、一方の田中美知太郎はギリシャ哲学の研究者ですから世界観や歴史観は全く異なります。

 本質が異なる2人を同じ保守というくくりでまとめるのはいかがなものか、と当時20代後半の私は問いかけました。酒場で若干食ってかかるように若者から話しかけられたら普通は相手にしないでしょう。ところが、西部さんは真剣にこちらの問いを受け止めて答えてくれました。

 そこには言葉を大事にしたより良い対話を作ろうとする姿勢があります。私は西部さんの姿勢に強く感銘を受けました。その後も座談会や評論の場に呼んでいただいて長い付き合いになりましたが、本当に言葉を大切にする方でした。だからこそ何を議論してもつまらない空中戦のような言い合いにはならないのです。

保守論客の西部邁が左派だった頃

富岡:1つの言葉の意味を掘り下げていくとそこには思想がある。西部さんは晩年に『昔、言葉は思想であった 語源からみた現代』という名著も出しています。

 大衆社会とマスメディアの中で言葉がフワフワと宙に浮いてしまう。誰もが言葉の意味を問い尋ねることもなく恣意的に乱用するようになる。1つずつの言葉の意味を踏み固めて議論していかないと何もできないのだと西部さんは主張し続けました。

 言葉へのこだわりに加えて、西部さんの中核には大衆批判があります。1980年代に東大の教授を辞職して在野の評論家になった西部さんは、大衆社会になった日本への批判を鋭く展開しました。原点には『大衆の反逆』という本を出したスペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットからの影響がありました。

 20世紀前半のヨーロッパでは大衆の存在感が大きくなっていきました。大衆はただの無知な人々ではないはずですが、大衆の声は移ろいやすく、大きな塊となって右往左往します。20世紀前半のメディアの発展の影響もあり、何かが人気になると、そちらに向かって一気に動く。そうした大衆の動きが、ファシズムや共産主義のような全体主義に安易に流れる要因になるのです。

 西部さんは、日本がオルテガの指摘する危険な状況になっていると考え、1983年に『大衆への反逆』という本を発表しました。

 現在ではさらにSNSなどがそこに加わり、ますます皆が簡単に同じ方向に一斉に動く要因が増えていると言えます。2026年の衆院選における、高市・自民の異常な支持の集め方もこれを反映していると思います。

──保守論客という印象の強い西部さんですが、学生時代は非主流派系左翼「共産主義者同盟(ブント)」に参加していたのですね。

富岡:学生運動に参加していた頃、西部さんは北海道から出てきたばかりで若さもあり、エネルギーをぶつけたいという思いがあったと思います。そんな中、当時の日本に「何かヘンだぞ」という違和感を強く感じていました。

 日本が独立講和をする時に、吉田内閣がアメリカと日米安全保障条約を結んだ。その後、1960年に安保条約が改定されると、この改定を巡り60年安保闘争が起きました。本来は独立すれば、外国の軍隊は日本から出ていかなければならないはずです。ところが、冷戦や朝鮮戦争があり、吉田ドクトリンは米軍が日本を守るという形を固定してしまった。「これはおかしい」という感性が学生を中心に日本に沸き上がったのです。

 後に西部さんは『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』という本を出し、その中で、思い返してみると自分は学生運動をしていたときに安保条約を読んでさえいなかったけれど、後から読み直してみたら、安保条約の片務性を解消する上では、決して悪い内容ではなかったといったことを書いています。西部さんはその後に保守派になっていきますが、時代に対して異議申し立てをする態度は一貫していました。

 おそらく今、西部邁が生きていたら、高市政権を批判していると思います。大衆が一体高市さんのどこをそんなに評価してあれほど一斉に支持をしているのか、その実態が不確かなことに疑問を感じていたはずです。

 緊縮財政なのか積極財政なのか、そんな議論が目立ちますが、そもそもこの国はどこに向かっているのか。いまだに、アメリカの基地があちこちにあり、アメリカの核の傘を信じたふりをしている。そういう国に本当の自由があるのか。そう言うでしょうね。

西部邁と三島由紀夫の最期

──西部さんが亡くなられたときのことについて書かれています。

富岡:亡くなるかなり前から、西部さんは親しい人たちに自分は自死するつもりだと語っていました。西部先生があのように断言するのだから本当にやるだろうなと皆シリアスに受け止めました。

 西部さんは78歳で他界されましたが、55歳の時に『死生論』という本を出しています。西部さんはこの本の中で、人間は死を意識しなくなると生きることが腐ると書いている。ラテン語にも「メメント・モリ(死を想え)」という言葉がありますが、死を意識しながら、自分が生きている間にするべきことを考えなければならない。

 現代社会は科学技術が進み、命さえもコントロールできるようになってきました。健康に生きることはいいことですが、ただ生きればいいと考えることは人間の魂を腐らせます。「長生きがいい」「医療費が安くなればいい」などの世間の声に西部さんは苛立ちと不信感を持っていました。

 晩年ご自身の身体もだんだん思うように動かなり、不調も感じるようになってきた。このままだと思考や意志も貫けなくなる。自分の精神の核である言論活動もこのままではできなくなる。であれば、肉体がやたらと長く生き延びてもしょうがないという思いはあったと思います。

──西部さんの亡くなり方に関して何を感じましたか?

富岡:西部さんは、2018年1月21日の未明に多摩川に入水しました。その時すぐには分からなかったのですが、後に2人の人物が西部さんの最後を手伝ったということが明らかになりました。法的には自殺ほう助に当たります。この2人は執行猶予つきの有罪判決がつきました。

 西部さんは周囲に迷惑をかけない「簡潔な死」を望まれていましたが、あの亡くなり方はそうした方針に反すると指摘される方もいます。西部さんの最後を手伝った2人を私はよく知っていますが、彼らは西部邁の自死を1つの思想として信じていたと思います。

 三島由紀夫の自決のときも、当時25歳だった森田必勝という若者が三島と一緒に割腹自殺をしています。三島さんは「森田は生きろ」と言っていたようですけれど。森田さんは三島さんを介錯して自分も割腹自殺した。

 西部さんと三島さんの最期は、関わった方々も含め相通じる部分はあったと思います。周りから見たら、人の死のために大きなリスクを負ったように見えますが、本人たちは曇りなき決断をしたと考えているのではないかと私は信じます。

富岡 幸一郎(とみおか・こういちろう)

文芸評論家

1957年東京都生まれ。関東学院大学国際文化学部教授。中央大学文学部仏文科卒業。1979年「意識の暗室 埴谷雄高と三島由紀夫」で第22回群像新人文学賞評論優秀作を受賞。西部邁の個人誌「発言者」と後継誌「表現者」に参加し、「表現者」編集長を務める。著書に『内村鑑三 偉大なる罪人の生涯』、『使徒的人間 カール・バルト』、『〈危機〉の正体』『危機の日本史』(佐藤優との共著)、『天皇論 江藤淳と三島由紀夫』など多数。

長野光(ながの・ひかる)

ビデオジャーナリスト

高校卒業後に渡米、米ラトガーズ大学卒業(専攻は美術)。芸術家のアシスタント、テレビ番組制作会社、日経BPニューヨーク支局記者、市場調査会社などを経て独立。JBpressの動画シリーズ「Straight Talk」リポーター。YouTubeチャンネル「著者が語る」を運営し、本の著者にインタビューしている。

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