なぜ品川駅の女子トイレには「11枚」の貼り紙が並んだのか? 海外3000万人分析が突きつけた人流管理の変化とは

案内表示の限界と無意識の追従

 駅構内では、利用者は案内表示を見ながら合理的に移動していると考えられてきた。しかし最新の研究では、その前提とは異なる実態が示されている。オランダのアイントホーフェン中央駅で3年間にわたって集められた約3000万人分の歩行データの分析から、人は見知らぬ他者の進行方向を無意識にまねし、遠回りであっても前を歩く人についていく傾向があることが明らかになった。

【画像】「えぇぇぇぇ!」 これが56年前の「留萌駅」です!(計6枚)

 この効果は、駅の動線や避難計画、商業施設の運営、サイネージの配置、リアルタイムの群衆管理など、都市基盤の考え方そのものに影響を与える可能性がある。事業者が多額の資金を投じて整備してきた案内看板やデジタル表示は、想定したほどの効果を発揮できず、実際の利用行動との食い違いが生じている可能性がある。

 乗客が分散して移動することを前提につくられた通路や階段も、この追従行動によって利用者が特定の場所に集中すれば、本来の通行能力は大きく低下する。実際、日本でも品川駅で男子トイレを移した際、多数の注意掲示が必要となったように、文字による案内だけでは対応しきれない群衆行動が身近な場所で繰り返し確認されている。

 なぜ人は案内表示よりも他者の動きを見るのか、なぜ小さな追従行動が急激な混雑の広がりにつながるのか――今後の駅運営は、合理的人間ではなく、

「周囲の流れを見て動く人間」

を前提に考える必要があるのだろうか。行動科学と都市運営の接点から、この変化について考える。

前を歩く人に従う群衆の習性

案内表示の限界と無意識の追従, 前を歩く人に従う群衆の習性, 歩行心理による商業価値の偏在, 選択の雪崩と列車の遅延リスク, 施設拡張から心理誘導への転換

アイントホーフェン中央駅の位置(画像:OpenStreetMap)

 多くの鉄道路線が集まるターミナル駅では、人の流れが複雑に交差している。通勤や通学で使い慣れた駅なら問題は少ないが、初めて訪れる場所や久しぶりに利用する駅では、人混みに戸惑うことも珍しくない。新宿駅のような大規模駅で、乗り換えや出口への移動が思うように進まず、一時的に方向がわからなくなった経験を持つ人も多いだろう。

 こうした複雑な空間では利用者の負担が大きくなり、案内表示を見て判断するよりも、周囲の流れに従って行動しやすくなる。その結果、自分で経路を選ぶことをやめ、周囲の人の動きに合わせて移動するようになる。

 目的地へ向かうのが難しくなる背景には、見知らぬ他人の行動から強い影響を受けている実態がある。電車を降りた直後の利用者は、前を歩く人の後ろについていく傾向があり、最短経路を選ばずに遠回りや滞留が生じることがある。こうした行動は移動時間の増加につながり、それが積み重なれば鉄道事業者のサービス水準や利用者からの評価にも影響を及ぼしかねない。

 オランダのアイントホーフェン工科大学とイタリアのフェラーラ大学の共同研究チームが2026年2月に学術誌「PNAS」で発表した研究でも、群衆の中での意思決定が見知らぬ人の行動に大きく左右されることが報告されている。研究チームはこの現象を

「ストレンジャー・フォローイング効果(stranger-following effect)」

と名付けた。より効率的な経路を思い描いていても、まずは目の前の見知らぬ人についていく傾向があることが、データによって示されているのだ。

歩行心理による商業価値の偏在

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オランダ(画像:Pexels)

 毎日、何百万人もの人々が繁華街や空港、サッカースタジアム、駅などで見知らぬ者同士の群衆をつくっている。しかし、その集団の中で人と人との関わりが行動の選択にどのような影響を与えているのかは、これまで十分に注目されてこなかった。そこで研究チームは、オランダのアイントホーフェン中央駅の3番線と4番線で、3D立体画像を用いた歩行者追跡システムを導入し、他人の存在が意思決定に与える影響を調べた。

 頭上のセンサーが捉える範囲は駅構内の約1400平方メートルに及び、歩行者の動きを毎秒10フレームのデータとして記録する。2021年3月から2024年3月までの3年間で、合計3000万件を超える移動軌跡が集められた。

 この改札内の空間は、鉄道事業者にとって収益を高めたい重要な場所である。しかし、高精度なデータによって明らかになったのは、乗客が周囲の店舗に目を向けることなく、前を歩く人の流れに従って通り過ぎてしまう場所の存在だった。これまで駅ナカ商業の賃料は、

「改札の通過人数」

を基準に決められることが一般的だったが、今回の結果は異なる実態を示している。歩行中の心理的な影響によって、人が集まる店舗とそうでない店舗が生まれ、わずかに場所が違うだけで価値に大きな差が生じるためだ。この結果は、今後の賃料の考え方にも影響を与える可能性がある。

 なお、今回の調査は見知らぬ人から受ける影響を明らかにすることを目的としているため、同じ速さで同じ方向へ歩くふたり以上のグループは分析対象から除外された。個人で移動する歩行者に絞ることで、人の行動傾向を詳しく調べた形だ。

 ひとりで歩く乗客は自分の判断で動けるはずだが、混雑した場所では周囲の歩調に合わせて速度や進行方向を変えざるを得ない。まっすぐ進みたくても他人に行く手を遮られることもある。最短経路を把握していても、流れの遅い人混みを避けて別の道を選んだり、前を歩く人についていったりする場面は、日々の通勤でもよく見られる。

選択の雪崩と列車の遅延リスク

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オランダ(画像:Pexels)

 分析では、乗客が列車を降りた後の順番や選んだ経路を調べ、互いに面識のない人同士の行動が経路選択にどのような影響を与えるのかに注目した。その結果、ホームに降りた乗客は、

「すぐ前を歩く人と同じ経路をたどる傾向」

が強いことがわかった。この傾向は、相手と何の関係もない場合だけでなく、移動時間が余計にかかる場面でも見られた。人々が常に効率のよい道を選んでいるわけではないことを示す結果である。

 列車から降りた人々が最短経路を選ばず、特定の通路へ集中すると、ホームから人がいなくなるまでの時間は長くなる。秒単位で運行管理が行われる都市鉄道にとって、これは列車の遅れにつながる要因となる。さらに、このような滞留を防ぐため、鉄道会社は警備員の増員や誘導要員の配置など、追加の人件費を負担しなければならない。

 研究チームは、この行動の偏りが連続して広がることで、「選択の雪崩(avalanches of choice)」が起き、群衆全体の流れが形づくられるとみている。2022年10月に韓国・ソウルの梨泰院で発生した雑踏事故でも、混雑の中で明確な行き先を決めていなかった人々が、目の前の人の後ろについて移動した結果、群衆の流れが一方向に集中した可能性がある。

施設拡張から心理誘導への転換

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リポート「選択の雪崩――見知らぬ人同士の相互作用はいかに群衆の動きを形づくるのか」(画像:PNAS)

 続いて研究チームは、歩く速さの違いや群衆の流れへの追従など、さまざまな要素を取り入れた理論モデルを構築した。しかし、実際の駅で観測された人の流れを正確に再現できたのは、この効果を組み込んだ場合だけだったという。

 最初に動く少数の人の流れを意図的に導ければ、その後ろに続く多くの人々の動きにも影響を与えられる可能性がある。今後のインフラ整備は、多額の費用をかけて通路を広げる工事だけでなく、床面に動く光を映すなど、人の行動特性に働きかける手法にも目が向けられるかもしれない。研究チームは、

「これらの研究結果は、見知らぬ人同士の短時間で小規模な相互作用が、大規模な歩行者の動きに影響を与える可能性があることを示しており、群衆管理、都市設計、そして公共空間における社会行動のより広範な理解に大きな影響を与える」

と結論づけている。

 かつて東京の品川駅では、構内の女子トイレ入口に「男性化粧室ではありません」と書かれた掲示や女性用トイレのマークが11枚並ぶ様子が話題になった(2018年)。もともとその場所にあった男子トイレが工事によって移転したため、事情を知らない男性が誤って入るケースが相次いだからだ。

 それまでの記憶のまま歩く人の後ろについていく行動がなければ、ここまで大きな問題にはならなかっただろう。この事例は、文字による案内だけでは限界があることを示している。人は

「情報量が増えるほど案内そのものを見なくなる」

ことがあり、看板を増やしても期待した効果が得られず、管理費の増加につながる場合もある。

 今回の知見は、今後より安全な交通基盤の整備や、リアルタイムの群衆管理への活用が期待されている。

 前を歩く人についていく行動は、不慣れな場所で不安を感じたときに生じやすい。多くの人が行き交う大規模なターミナル駅で戸惑いや警戒感を抱くのは自然なことであり、周囲の流れに従うのも不思議ではない。だからこそ、これからの駅運営は、人が周囲の行動に影響を受けやすいことを前提に考える必要がある。合理的な判断だけを想定して施設を拡張するのではなく、人の行動特性を踏まえた誘導手法を取り入れていくことが、今後のインフラ運営で重要になっていくだろう。