皇室典範改正で皇室の「中国化」が進む可能性…じつは「父系相続」は「日本古来の伝統」ではなかった
皇室典範の改正について、衆参両院の正副議長による取りまとめ案が、8日に国会に提案される予定だ。安定的な皇位継承を目指した、今回の改正の主な柱は2つ。女性皇族が結婚後も皇族の身分を保つことと、旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎え入れることである。家族社会学者の落合恵美子さんがこの改正案を前に、日本社会が育んできた伝統的な家族制度について、あらためて検討していく。
日本に父系親族集団は無い
これを読んでくださっているあなたに質問です。あなたに娘さんしかいないとします。あなたの財産を相続し、あなたの家族を継承してほしいのは、あなたの娘さんですか、それともあなたの(あなたが女性ならあなたの夫の)兄弟の息子さん、つまり甥御さんですか?
大学の教室や講演会の場でこの質問を何度もしたことがあるけれど、ほとんどの方は「娘さん」の方に手をあげる。「甥御さん」にあげた方にはまだ会ったことがない。
そんな分かり切った質問をなぜ、と思われるかもしれないが、所変われば品変わる。男系の甥を跡取りにするのが当然という所がある。中国である。現在は変わってきたようだが、伝統的には「異姓不養」と言って、姓の違う人、つまり父系(男系)親族集団の外から養子を取って後継者にしてはいけないという絶対的ルールがあった。
他方、「同姓不婚」と言って、姓が同じ人どうしは結婚してはいけなかった。姓が同じということは、同じ父系親族集団に所属するという記号だから。父系親族集団は「族外婚」をルールにしている「外婚集団」であった。結婚できない人と契ってしまったり、子どもにしてはいけない人を養子にしてしまったりするのを防ぐため、「姓」があるとすら言えるかもしれない。

20世紀前半、中国の結婚式の様子/Photo by Culture Club/Getty Images
ここまで読んで、???と思った方もあるだろう。あれ、日本にも「外婚集団」ってあっただろうか? とか、姓が同じ人は結婚してはいけないの? そもそも夫婦は同姓と決まってるんじゃなかったけ? などと。
疑問に思って当然です。日本に父系親族集団は無いのです。
日本でも近親者と結婚できないルールはあるけれど、それは男系・女系のどちらでも親等の近い人との結婚を禁じているだけなので、父系の絆でつながった外婚集団があるわけではない。韓国でも同姓同本婚を禁じる法律が2005年の民法改正まで存在したので、10万人以上の人と結婚できない場合もあったというが、日本では想像もできないだろう。逆に、イトコ婚も平気という日本人の結婚に目を丸くしている隣国人もいる。
親族制度は社会のアイデンティティの根幹
親族制度というのは身近にありすぎて深く考えることが少ないかもしれないが、社会による違いがこれほど大きいということを忘れてはならない。この社会はどういう社会かという、いわば社会のアイデンティティは何によって決まるかと言えば、宗教や文化と並んで、というかそれより深いところに親族制度があるではないかと、家族社会学者のひいき目もあって考えてしまう。
日本の家族といえば家制度。「家」は父系で継承するものなのではないか、と思った方もいらっしゃるかもしれない。では今度は、ご親戚や知人で養子になった方がいないか思い出してみていただきたい。養子の必要は世代の人口学的条件にもよるので、皆さんが思い出せるとは限らないが、伝統的に見て日本は養子の多い社会だったのは間違いない。
わたしは家族社会学者だが、歴史人口学という方法で江戸時代から明治初期の家族の研究もしてきた。この時代には、地域や時期によるばらつきはあるが、男性のだいたい5人に1人は他家の養子になったことがさまざまな資料からも確かめられている。たとえば明治初めの多摩の農村地帯では、全世帯の戸主のうち20パーセントは養子としてその家に入ってきた男性だった(黒須・落合「人口学的制約と養子」)。さらに養子経験者のうち53パーセントは養父の娘と結婚した婿養子だったことがわかっている。
婿養子とは女系により家の連続性を確保する女系相続である。家督相続適齢期の息子はいないが娘はいる世帯は婿養子、どちらもいない世帯は婿ではない普通の養子を取るという原則が、ほぼ法則的に適用されていた。普通養子には男系や女系の親族に加え、全くの他人も含まれる。

明治初期日本の農村/Photo by The Print Collector/Heritage Images via Getty Images
この自由さは、「異姓不養」がルールだった中国や韓国の方々には驚きである。婿養子の話をしたとき、「乱倫」と眉をひそめられたこともある。考えてみれば息子になった養子と娘が結婚するのだから、近親相姦のタブーを犯している。「同姓不婚」にも抵触する。
しかし、実をいえば、宗門人別改帳の原史料には「婿養子」という表現はあまり登場しない。ただ「婿」と記されていることが多い。おそらく庶民の感覚では娘が後継者となるのは当然で、その夫として入ってきた「婿」が家の正式なメンバーとなるのは当たり前だったろう。「嫁」が養女にならなくてもその家のメンバーになるのと同様に。しかし、家の後継者は男系につながる「息子」でなければならないという父系規範に感化された人たち(武士や明治政府の役人たち)が、その色メガネをかけて庶民の家の「婿」を見たから、これも「婿養子」であったはずだと辻褄を合わすようになり、わたしたち研究者もその用語法を踏襲してきたのではないだろうか。女系相続が当たり前の社会では「乱倫」でもなんでもなかったのに、祖先に対して失礼だったと申し訳なく思っている。
武士の家系継承はどうだったのか
農民などしもじもの者はいい加減だったかもしれないが、武士は違ったはずだと思われるかもしれないので、もうひとつ紹介しておこう。坪内玲子先生の『継承の人口社会学―誰が「家」を継いだか』(ミネルヴァ書房)は、各藩の編纂した藩士家譜を数量的に分析することで、江戸時代の武士の家系継承のパターンを明らかにした、とてつもない労作である。当時の武士は長男相続を理念としていたと言われるが、息子がいないなどの人口学的制約条件のため、理想を実現できないケースも少なくなかった。そうした場合の「補完システム」にはどのようなものがあったか、本書の研究成果を見てみよう(落合「書評」参照)。
まず藩ごとの長男相続の割合は、17世紀には60~70パーセント台だったのに、18世紀には50~40パーセント台に低下する。18世紀の武士は少子化に直面しており、それに伴って実男子がいる割合も低下したからである。
では実男子がいない場合に、誰を跡取りに選んだのだろうか。焦点は先代家督者の娘と父系親族のどちらを選好するかということである。娘を選び娘婿を跡取りにするなら「女系相続」ということだ。「男子がなく女子のみがあるという人口学的条件」を満たす者の数、およびその中で婿養子を取った者と、婿ではない養子を取った者の数を数え上げ、婿養子と(普通)養子の選好度を4藩について計算されている。
そのうちの3藩、すなわち秋田藩、会津藩、萩藩では婿養子を選好する傾向が圧倒的に強い。17世紀から18世紀にかけて若干低下したものの、60~70パーセント以上は娘に婿養子を取っている。それに対して(普通)養子を取ったのは10~20パーセント台かぎりぎり30パーセントに届く程度である。加賀藩では婿養子と普通養子の選好が比較的拮抗しているが、実は普通養子であっても異姓養子を選好していたという興味深い結果が示されている。父系男子を跡取りにするという父系規範は、武士階層でも尊重されていなかった。

千代田の大奥/楊洲周延( by Heritage Art/Heritage Images via Getty Images)
全地域を視野に入れると、さらに興味深いことが見えてくる。薩摩藩の支配下にあった琉球王国の首里、宮古、久米村の琉球士族は、婿養子が皆無だという点で例外性が際立っている。それもそのはず、琉球王国は中国皇帝の冊封も受ける二重支配の状態だったので、中国の影響が強かった。なかでも中国系の移民の村であった久米村では甥による継承が6~7パーセントもあり、中国的な性格が顕著である。17世紀の首里では弟による継承が7パーセントあるのも目を引く。「甥」であれ「弟」であれ、父系親族集団の男子であれば、養子にするまでもなく継承権があると認識されていることがわかる。
階層差という点では、大名家は一般の藩士と違い、婿養子が非常に少ないという特徴がある。普通養子の割合は一般藩士と同じくらいだが、弟による継承が8パーセントもあり、甥による継承も5パーセントほどを占める。武士のなかでも階層が高いほど父系へのこだわりが強いことは注目に値する。
以上をまとめると、庶民はもちろん武士階層でも一般的には父系規範はさほど尊重されず、女系相続が当然のように認められていたが、琉球士族、とりわけ中国系移民と、大名家という最上層では、例外的に父系規範が実践されていたことがわかった。
父系相続は日本の守るべき伝統なのか
ここまで読んでこられて、このエッセイが皇室典範改正の論点の背景を探る目的で書かれていることは見当がついているだろう。皇室はずっと父系相続だったことを出発点としてほとんどの議論がなされているが、それは本当に日本の守るべき伝統なのかと、まずしっかり考えておくべきではないだろうか。天皇が日本国の象徴であるなら、この国で広く受け入れられ実践されているルールを体現する存在であってほしい。
純粋な父系制とは一線を画し、女系も非親族も受け容れる柔軟な家族制度を維持してきたことこそが日本の特性なのは、ここまで見てきたとおりである。「甥」や「弟」、そして「男系の養子」にこだわるのは「異姓不養」のルールであり、中国式の純粋な父系制を実現するという宣言である。
それにしても、中国系の移民の村などと並んで、大名家など最上層の家が、日本では例外的に強い父系規範を実践してきたのはなぜなのだろうか。皇室は最上層の最上層ということだろう。
ひとことで言えば、父系制は古代日本の「鹿鳴館」だったのだと思う。先進文明国に学び、自分たちもあなたたちと同じ文明国ですよと示すために模倣したという意味で。古代日本にはヒミコという女王がいたが、そもそも氏族の長に女性が就くことは例外ではなく、古墳に埋葬された女性も多かったことが明らかになっている。氏族は父系の親族集団ではなく、父母双方のつながりをたどる、いわゆる「双系的」な集団だった。8世紀の奈良時代の天皇の男女比は五分五分だった。しかし中国から律令制度を導入したのをきっかけに、9世紀には支配層の氏族は「父系化」したと言われている(義江明子『女帝の古代王権史』)。

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日本の立ち位置を定める重要な決断
先進文明に倣おうとしたとき、上の階層から染まっていくのは世の常である。とはいえ、平安時代の貴族は結婚後の妻方居住を続けており、藤原氏や鎌倉時代の北条氏など女系の力も強く、変化はゆるやかだった。ましてや庶民まで徹底することはついに無かった。言ってみれば、伝統は庶民の慣行の中に生き続けた。
中国文明により「父系化」の圧力を受けたのは日本だけではない。朝鮮半島では高麗時代(10~14世紀)まで妻方居住を続けていたが、朝鮮時代(15~19世紀)に急速に儒教化を進め、父系の純粋性を保つために寡婦の再婚を戒め、ときには自死を促すまでになった。同時代の日本では離婚も再婚もしやすいままだったのに。
さらに視野を広げれば、中国、インド、西アジアを中心とする父系的な大文明が、それ以前にユーラシア大陸全体に広がっていた双系的な社会を侵略もしくは影響を与え、双系的社会を大陸周辺部に押し込めていったのが家族の世界史だったと見ることもできる。エマニュエル・トッドが『家族システムの起源』で示した見取り図であり、わたしも基本的に賛同している(落合「アジアの重層的多様性」)。大陸から離れた日本は、西端のヨーロッパと共に、父系的変容を受けつつも双系的な伝統を保ち続けたことにこそ独自性がある。両地域での女王や女性天皇の出現はその証なのである。
今、皇室の「父系化」を完成させることにより中国文明圏の一部として自己定義するのか、独自のアイデンティティをもった社会として21世紀を生き抜いていくのか、重要な決断を迫られているのではなかろうか。性急に結論を出すのではなく、じっくりと時間をかけて、激動の世界の中での日本の立ち位置をどのように選びとっていくのか、衆議を尽くすべきだろう。
参考文献
落合恵美子「書評:坪内玲子『継承の人口社会学―誰が「家」を継いだか』」『比較家族史研究』第16号、2001年。
落合恵美子「アジアの重層的多様性―セクシュアリティとジェンダーから見る」落合恵美子・森本一彦・平井晶子編『アジアの家族と親密圏』第3巻、有斐閣、2022年。
黒須里美・落合恵美子「人口学的制約と養子」速水融編『近代移行期の家族と歴史』ミネルヴァ書房、2002年。
坪内玲子『継承の人口社会学―誰が「家」を継いだか』ミネルヴァ書房、2001年。
トッド,エマニュエル『家族システムの起源』藤原書店、2016年(原著2011年)。
義江明子『女帝の古代王権史』ちくま新書、2021年。
*現代ビジネスに発表した夫婦の姓に関する筆者の記事もあわせて参照していただきたい。
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