「陸の孤島」「娯楽がなさすぎて心を病む」と言われていたが…人口が水戸市を超えて1位に「茨城県つくば市」急成長の背景
前編で見たように、土浦はつくばに対して「自分が支える側」と位置づけ、1985年の科学万博を商機と捉えて駅前再開発を進めた。しかし実際には、つくばは土浦を経由しない形で発展していく。
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その背景にあったのは、つくばが他の地方都市とは異なる「自己完結型の計画都市」として設計されていたことだ。
かつて「陸の孤島」と呼ばれたつくばは、どのようにして茨城県内で人口1位の都市にまで成長したのか。まずは、その成り立ちから見ていきたい。
つくばは「研究機関を集めるため」に作られた街
つくばは、自然に発展した都市ではない。63年、国は「筑波研究学園都市」の建設を閣議了解した。背景にあったのは、東京一極集中の緩和である。都内に集中していた国の研究機関を地方へ移転し、新たな研究拠点を整備する国家プロジェクトとして始まった。
その後、国の43の試験研究機関が移転。つくばは、研究施設を核に研究者が住み、働く都市として整備されていく。ここが、他のニュータウンと決定的に異なる点だった。
60〜70年代に開発されたニュータウンの多くは、都心部へ通勤する人のための「ベッドタウン」だった。住民は都心で働き、街は住む場所として機能する。
一方、つくばは、研究機関の周辺に住宅や生活機能を整備し、住む・働くを街の内部で完結させる「職住近接」を前提としていた。つまり、つくばは最初から「都心へ通う街」ではなく、「街の中で生活が完結する街」として設計されていたのである。

つくば駅を降りると画一的な建物群が目に入る。色味が統一されていて近未来的な雰囲気(写真:筆者撮影)

駅前に広がる「つくばセンター広場」。個性的なオブジェクトや噴水が重厚な雰囲気を醸し出している(写真:筆者撮影)
もっとも、つくばが最初から現在のような都市だったわけではない。研究機関の移転は進んでいたものの、70年代のつくばは商業機能が乏しく、日常生活には不便が多かった。
筑波大学の渡和由准教授は、当時のつくばについて、「電車かバスで土浦市中心部へ行くか、バスと電車を乗り継いで2時間以上かけて東京方面へ向かうしかなかった。いわゆる『陸の孤島』だった」と説明している(『住宅』2015年)。
つまり当時のつくばでは、研究施設はあっても買い物や娯楽の場が十分ではなく、住民が現実的に向かう先は土浦だったのだ。実際、1975年の『土浦市史』には、土浦が「新都市に対する消費都市としての役割を果たすべき」と記されている。当時は「娯楽がなさすぎて心を病む」と言われることもあったらしい。
「研究はつくば、消費は土浦」。当時の土浦が「つくばを支える消費都市」を目指したことには、一定の合理性があったのである。

駅前の画一的なビル群を抜けると、雰囲気が一変して緑豊かなストリートが出てくる(写真:筆者撮影)

広々とした公園も多い。子連れの家族や犬の散歩をする人がいた(写真:筆者撮影)
万博を機に、つくばは「土浦を経由しない街」へ向かった
転機となったのは、85年の科学万博だった。万博の開催に合わせて、つくばの交通環境は大きく変わる。常磐自動車道が整備され、つくばは東京と高速道路で直接つながった。
さらに、つくば駅前には西武百貨店筑波店や商業施設「クレオ」が開業した。研究施設中心だった街に、日常的な買い物機能が整い始めたのである。
それまで研究者や住民は、買い物や娯楽のために土浦へ向かうか、長時間かけて東京へ出る必要があった。しかし、つくばの内部に商業機能が整備され、高速道路で東京とも直結すると、その前提は変わり始める。
つくばエクスプレス開通が決定打に
さらに2005年には、つくばエクスプレスが開通。つくば~秋葉原間は最速45分となり、東京の通勤圏にも組み込まれた。
一方、土浦は科学万博を契機に、駅前へ人を呼び込む再開発を進めていた。しかし、つくばは結局、土浦を経由することはなくなった。

商業施設「トナリエ・クレオ」。駅前商業の賑わいを担っている(写真:筆者撮影)
つくばが自己完結型の都市として成長するにつれ、土浦が担っていた役割は徐々に失われていく。
その変化は、地価に表れている。大和総研の鈴木文彦氏によれば、05年、土浦税務署管内の最高路線価が、土浦市からつくば市へ移った。つくばエクスプレスが開通した年である。さらに15年には、つくば市の最高路線価が県都・水戸市をも上回り、県内最高となった(『ファイナンス』2022年)。小林秀樹氏はこれを「茨城県南地域におけるつくば市の一人勝ち」と表現する。
研究機関、住宅、商業施設を街の内部に整備した結果、かつて土浦駅前に集まっていた人の流れが、つくば市内や郊外型ショッピングセンターへ分散していった。
ただし、これは「つくばが土浦から客を奪った」という単純な競争の話ではない。つくばは、土浦の商圏を取り込むことを目的に発展したわけではないからだ。
そして、土浦が「衰退した」という見方も正確ではない。土浦市全体の人口は、ピークだった00年から23年までで約1.5%減にとどまる。市そのものが急速に縮小したわけではない。
一方、中心市街地の人口は1980年から約40年で3割以上減少した。「衰退した」と語られるのは、市全体ではなく駅前の話だ。

閑散とした土浦駅前。人よりもタクシーのほうが多かった(写真:筆者撮影)

土浦駅東口は駐車場やホテルがメイン。団体のサイクリング客で賑わっていたが、その賑わいも駅前だけのようだ(写真:筆者撮影)
土浦とつくばの「下剋上」が示したもの
土浦とつくばの関係は、「勝った都市」と「負けた都市」という単純な構図では説明できない。
土浦は、県南の中心都市として買い物や娯楽、交通機能を駅前に集めることで発展してきた。一方のつくばは、国家プロジェクトによって研究機関や住宅、商業施設を内部に抱える都市として整備された。
当初、つくばは土浦に依存する「陸の孤島」だった。しかし、高速道路や商業施設、つくばエクスプレスの整備によって、土浦を経由しなくても生活が成り立つ都市へ変わっていく。
その結果、土浦駅前が担っていた買い物や娯楽、交通の中心機能は、つくば市内や郊外へ分散した。
土浦とつくばの「下剋上」とは、一方が他方を打ち負かした物語ではない。40年かけて、都市の成り立ちの違いが表面化しただけなのだ。