退団する腹心に再就職先斡旋 常勝軍団ホークスの礎を築いた王貞治さんの決断と気遣い

ダイエー時代、タッグを組んだ王貞治監督(右)と尾花高夫投手コーチ。この年、チームは日本一に輝いた=1999年5月28日、福岡ドーム

ソフトバンク球団会長の王貞治さんが2月、キャンプ地の宮崎に足を運んでいました。昨年末にインフルエンザにかかり、「年のせいで治りが遅かったので休ませてもらった」とわずか3日間の滞在でしたが、グラウンドで選手にアドバイスする姿をニュースで見ました。5月で86歳になりますが、旺盛な野球熱は健在です。

チームは2024、25年とリーグ連覇、昨年は5年ぶりに日本一を奪回しました。2年連続最多勝の有原航平が日本ハムに移籍しましたが、〝台湾の至宝〟徐若熙(シュー・ルオシー)=(25)=を獲得。エースのモイネロが先発の軸を担い、プロ3年目の左腕・前田悠伍ら若手の有望株も控えています。打線は柳田悠岐、近藤健介ら主力がけがから復活し、昨季飛躍した柳町達も元気。4軍制を敷き、12球団随一とされる選手層の厚さで、今季も優勝候補の筆頭といえそうですね。

ダイエーの不甲斐ない戦いぶりにファンが暴走。選手の送迎バスを包囲し、生卵を投げつける暴挙に出た=1996年5月9日、日生球場

屈辱の生卵事件

ダイエー、ソフトバンクで王貞治監督(右)を支えた尾花高夫投手コーチ(中央)=2005年10月13日、ヤフードーム

今のホークス王国を築いたのは王さんです。1995年、前身の南海から17年連続でBクラスだったダイエー(現ソフトバンク)の監督に就任。それ以来、ずっと言い続けている言葉があります。

「組織全体が『勝利』という同じ目標を共有することが一番大切なんだ。個人が『打つ』『投げる』に満足していては、チームは変われない」

V9を成し遂げた巨人での現役時代に培った勝負哲学ですが、負け癖のついていたチームの改革には時間がかかりました。就任2年目、最下位に沈んだ96年には有名な〝生卵事件〟が発生。5月9日の近鉄戦(日生球場)で、ふがいない戦いに業を煮やしたファンが左翼席から発煙筒を投げ込み、選手が乗った大型バスを包囲したのです。

交流戦で恩師の楽天・野村克也監督(左)にあいさつする巨人・尾花高夫投手総合コーチ=2009年5月22日、Kスタ宮城

「王、辞めろ!」-。怒号が飛び交う中、一部のファンが投げた生卵が割れてフロントガラスにへばりつき、視界を遮断。球場からの帰路、バスは近くの大阪城公園内で一時停車し、車内が静寂に包まれる中、王さんは選手たちにこう訴えたそうです。

「ファンはわれわれのふがいない戦いに怒っているんだ。ファンは責められない。われわれが変わらなきゃいけない。彼らを黙らせるには勝つしかないんだ」

外部の血を導入

屈辱をきっかけに、負けに慣れっこになっていた選手の意識が変わっていきます。西武で黄金時代を築いた秋山幸二、工藤公康のほか、小久保裕紀、城島健司ら若手を含むチーム全体に王イズムが浸透。翌97年は4位に浮上し、21年ぶりのAクラスとなる3位に入った98年オフ、王さんは大きな決断を下します。外部からの〝血〟の導入です。

「もしもし、オーです」

「えっ、どちらのオーさんですか?」

「福岡ダイエーホークスの監督をしている王貞治です。突然の電話でびっくりしていると思うけど、許してください」

98年10月中旬、王さんが電話をかけたのは、80年代にヤクルトのエースとして活躍した尾花高夫さんの自宅。尾花さんの驚きといったら…。

「思わず『どちらのオーさんですか?』と。現役時代に対戦し、グラウンドでお会いしたら挨拶もしましたが、付き合いは全くなかったですからね」

この年、尾花さんはヤクルトの投手コーチを務め、野村克也監督の辞任と同時に退団したばかり。そんなタイミングでの〝直電〟でした。

「投手コーチとしてホークスに来てほしい」

自身と関係性が薄かった尾花さんへのオファーについて、王さんはこう振り返ってくれました。

「投手陣の整備が最大の課題だった。俺は投手に関しては専門じゃない。尾花とは直接面識はなかったけれど、新聞やテレビなんかで彼の言動やロッテとヤクルトでの投手コーチとしての実績を調べてね、きっちりものを言えるし、勉強もしている。そんなコーチを探していたんだ」

ノムさんの嘆き

尾花さんは現役時代、ヤクルトで通算112勝をマーク。引退後の95年、ロッテの広岡達朗ゼネラルマネジャーに招かれ、バレンタイン監督の下で投手コーチに就任すると、チーム防御率を前年の4・50から3・27に改善させた。97年には野村克也監督が率いる古巣のヤクルトに復帰し、チーム防御率を同様に4・00から3・26に良化させリーグ優勝と日本一に貢献。理論派の投手コーチとして知られていました。

巨人・川上哲治監督は、スポーツ紙の評論家として巨人に辛辣(しんらつ)なコラムを書いていた牧野茂さん(現役時代は中日)を外部からコーチに迎え、見事にV9を成し遂げましたが、王さんも自らの〝眼〟を信じて尾花さんにアプローチしたのです。

余談ですが、「ホークス尾花投手コーチ誕生」には裏話があります。尾花さんが明かしてくれました。

「王さんの申し出をちょっと保留させてもらったんです。ノムさんにも相談しなきゃ、恩師ですから…」

当時、ヤクルトを退団した野村さんが阪神監督に就任するとの情報が流れていました。本人に確認すると「阪神? ない」との返事。ホークスへの最終返答の前日には、こんなやり取りを交わしたそうです。

「明日返事しますが、阪神はないんですね?」

「ない」

「では、ホークスにお世話になります」

「おお、よかったな」

ところがホークス入りを決断した直後、『阪神・野村監督』が公に。後に野村さんが嘆いていました。

「『俺について来い』って喉まで出かかったが、阪神監督の件は公にできないし、尾花との会話はつらいものだったよ。ま、それで俺は投手コーチ探しでかなり悩むことになったんだけどな…」

ちなみに、投手コーチには元ロッテ監督でかつて同僚だった八木沢荘六さんを招聘(しょうへい)。しかし、野村阪神は99年から3年連続で最下位に沈んでしまいました。

データ重視の指導

尾花コーチの思考は、恩師であるノムさん譲りの「データ重視」です。先頭打者に四球を与えた際の失点の確率を算出しながら、同じ出塁でも四球と安打ではどう違うのかを分析するなど、具体的なデータを提示して選手を納得させたのです。

「同じ走者を出す場合でも3連打はほとんどない。ヒット2本と四球というケースはかなりある。どちらが失点につながるかといえば、四球が絡んだ方が失点の確率は上がる。投手はいかに四球を出さないか。逆にいえば、打者はいかに四球を選ぶかなんだよ」

王さんは尾花さんに全幅の信頼を置き、投手に関する全てを一任しました。99年はロッテ、ヤクルトの就任初年度と同じように、チーム防御率を前年の4・02から3・65に改善。14勝を挙げた篠原貴行を筆頭に、工藤公康(11勝)若田部健一(10勝)永井智浩(10勝)星野順治(10勝)の5人が2桁勝利をマークしました。ダイエーは強力投手陣を武器に23年ぶりのリーグ優勝を果たし、日本シリーズでも星野仙一監督率いる中日を4勝1敗で撃破。王さんは就任5年目で悲願の日本一を成し遂げました。

王さんと尾花さんがタッグを組んだ2005年までの7シーズン、ホークスは3度のリーグ優勝に2度の日本一。いずれも2位以上という常勝軍団に変貌(へんぼう)しました。今の時代に続く隆盛は、王さんから尾花さんへの1本の電話から始まったような気がします。

「うちには損失だけど…」

05年のシーズン終盤。尾花さんはチームを去る決断をします。

「監督、申し訳ありませんが、今年で辞めさせていただきたいのですが…」

「何か不満か?」

「いえ、それは全くありません。家庭の事情というか、息子が受験を控えていて女房だけでは心配なので東京に帰りたいんです」

「次の職の当てはあるのか?」

「いえ、ありません」

「そうか、わかった。俺に任せろ!」

王さんはすぐさま、当時の巨人・滝鼻卓雄オーナーに連絡。数日後-。

「巨人でいい? 決まったよ。頑張れな」

尾花さんの記憶によると、再就職先を知らされたのは神戸でのオリックス戦の試合中。チームが優勝争いを繰り広げている最中、王さんは部下の就職活動に奔走していたのです。これこそ、気遣いの人である王さんらしいエピソードですね。

「うちには損失だけど、彼は勉強家で理論派。球界のためにもなるしね」

有能な腹心を快く送り出した王さんの言葉です。巨人は5位に沈み、成績不振の責任を取って堀内恒夫監督が退任。06年、監督に復帰した原辰徳さんは尾花さんを1軍投手コーチに抜擢(ばってき)します。この年は4位でしたが、07年からリーグ3連覇。王さんがかけた1本の電話が再び、成績不振のチームをよみがえらせるきっかけになったのです。

尾花さんの述懐です。

「ロッテで広岡さんに管理者の厳しさを学び、ヤクルトでは野村監督にID野球を教えられ、ホークスでは王監督に人間の懐の深さを学んだ。巨人では原監督の明るさ、人間力にひかれました。4人の監督の下で働かせてもらったのは僕の財産です」

スポーツ記者歴50年を誇る産経新聞の清水満客員特別記者(73)が、半世紀にわたって綴った取材ノートから知られざるエピソードを蔵出しします。

【プロフィル】清水満(しみず・みつる) 1975年産経新聞社入社。サンケイスポーツで巨人、日本ハム、大洋(現DeNA)、遊軍担当としてプロ野球を取材。日本レコード大賞の審査委員も長く務めた。サンケイスポーツ編集局長などを経て、2019年から客員特別記者。記者生活50年を迎え、現在もゴルフを中心に精力的に取材を続けている。