日本を破ったベネズエラは「ヤマモトの強メンタル」を理解していた…関係者が明かす、山本由伸の「まだ未熟だった」青春時代

日本中を熱狂させたWBC。大会連覇を狙っていた日本代表「侍ジャパン」だが、アメリカ・フロリダ州マイアミで行われた準々決勝で強豪・ベネズエラに5-8で敗れ、準々決勝敗退が決まった――。

山本由伸ら若きサムライたちはどんな青春を過ごしてきたのか。まだ何者でもなかった彼らを知る関係者たちが証言する。

「プロになるとは思いもしなかった」

「ウチには、当時の由伸よりも実績があって野球が上手い子は山ほどいました。だから、特に目立つ存在ではなかったんです。まさかプロになるとは、思いもしませんでした」

延岡学園高校の野球部部長を務める森松賢容さんはこう振り返る。かつて宮崎の都城高校野球部監督を務めていた森松さんは、ドジャースの山本由伸(27歳)が無名選手だった頃、都城にスカウトして、その才能を開花させた「恩師」だ。

史上最強と称される今回のWBC日本代表。「打」の主力が大谷翔平だとすれば、「投」の主力は台湾との開幕戦で先発を務めた山本だ。

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オリックスで3年連続の投手四冠を達成した後、'24年にドジャースへ。昨年は日本人投手として初のワールドシリーズMVPも獲得した山本だが、最初から「エリート街道」を歩んできたわけではない。

中学生の頃に所属していた地元・岡山のチームで全国大会に出場したものの、名の知れた選手ではなかった。前出の森松さんは、山本について「ピッチングではなく守備に目を奪われた」と語る。

「由伸が中学生の頃、河川敷で練習しているのを見たのですが、捕球までの準備やノックを待つ間の所作など全ての振る舞いが映えるんです。『心から野球が上手くなりたいんだな』と思いました。能力ではなく存在に惹かれたんです」

「プロに行く選手」の振る舞いを見て…

強豪校からの勧誘がなかった山本は、森松さんの熱心なスカウトで都城高校に入学する。本人は内野手を希望していたが、投手としても才能を感じていた森松さんは同時にピッチングも練習させた。

すると、入学当時は最速124キロだった球速は、2年秋になると151キロへと上がった。地道な基礎練習を誰よりも行ったことが実を結んだ。だが、メンタル面では未熟さが残っていたという。

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「コンディションが悪い時に失投があると、試合中でもわかりやすく落ち込むことがあったんです。そんな時期、東海大相模と試合をしました。当時のエースは小笠原慎之介(現在はMLBのナショナルズ所属)。彼は土砂降りでも淡々と投げていたので、『あれがプロに行く選手の振る舞いだ』と由伸に言ったのです。

小笠原選手の姿に感銘を受けたのか、それ以降はエースとして責任感を持つようになり、メンタルも強くなっていきました。一方で、いまも野球に対する純粋な思いを持ち続けています。昨年、ワールドシリーズ終了後に連絡を取ったときは『野球がめちゃくちゃ楽しいです。もっともっと上手くなりたい』と話していました。野球小僧としての精神を失っていないのが彼の強みなのかもしれません」(森松さん)

宮城大弥、貧困時代を物ともせず

代表メンバーで、山本と同じピッチャーとして招集されたのがオリックス所属の宮城大弥(24歳)だ。

'19年にドラフト1位で入団。新人王を獲得するなどリーグを代表する左腕として活躍し、山本がオリックスからメジャー移籍を果たした後は、彼の背番号「18」を継承している。

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そんな宮城の青春時代には、想像を絶する「貧困」の壁が立ちはだかっていた。出身は沖縄県宜野湾市。米軍普天間基地がある街で、両親と妹と高校入学まで暮らしていた。

父の亨さんは若い頃に遭った交通事故の影響で左手が不自由になり、定職に就くことが難しかった。その結果、生活は食費もままならないほど困窮した。家計がいよいよ苦しくなると、毎日のように具のないカレーが並んだという。

かつて本誌の取材に、宮城の母・礼子さんはこう話した。

「電気代を払えず、頻繁に電気が止まるのでマッチとローソクが手放せない生活を送っていました。ガス料金も払えなかったので、真冬になるとポットのお湯で身体を拭いてしのいでいたものです。こんな家庭なのに、息子は文句ひとつ言いませんでした。

それどころか、『プロは給料が高いと聞いたんだ。母さんにもスイカを買ってあげられるよ』と笑顔で話していました。本当に優しい子です」

中学進学後に所属したクラブチーム「宜野湾ポニーズ」で総監督を務める知名朝雄さんは取材にこう語っている。

「大弥の『野球で飯を食おう』という思いは飛びぬけていました。中学生で『プロに行って親孝行したい』と言ってのける子はなかなかいませんよ。ユニフォームは可哀想になるほどボロボロで、道具は少年野球用のものをそのまま使ったり、チームメイトのお下がりを貰ったりしていました」

171センチメートルと小柄な宮城の最大の武器は抜群のコントロール力だ。困窮を物ともせず、大好きな野球に打ち込み続けた男は、WBCの舞台でもメンタルが揺らぐことは決してない。

【後編記事】『村上、岡本「WBCで打てずに苦しんだ」スラッガーたち…それでも《不動の精神力》で今季メジャーの活躍期待へ』につづく。

「週刊現代」2026年3月30日号より