“怪物”と呼ばれた平山相太「プロ選手ではあるけど、“プロ”ではなかった」 サッカー人生で浮き彫りになった“評価”と“認識”のズレ

2000年代初頭、身長190センチの大型ストライカーだった平山相太さんは、高校サッカーの名門・国見(長崎)を象徴する存在だった。01年から3年連続で全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、史上初となる2年連続の得点王に輝いた。高校3年時には全国優勝も果たし、「怪物」と呼ばれて日本代表の中心になるとも目された。だが、その後はまばゆい光を放つことはなく、引退。現在はアマチュアの舞台で指導者としてのキャリアを積んでいる。
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■高校3年間を歯を食いしばって過ごしていただけ
――名将・小嶺忠敏監督が率いていた国見高校に進学されました。
いろいろな高校やユースの練習参加の機会があったんです。その中でも国見に実際に行って一番印象に残ったのは、あいさつや片付けなど、人間教育のレベルがものすごく高かったことでした。その点が自分に合っているなと思いました。将来、プロサッカー選手になりたいと思ってはいましたが、目標というよりも夢といった感じだったし、「国見に行くことがプロへの近道だ」というような考えも一切なかったんです。国見の “まっとうな”高校生を見て、小嶺監督の指導を受けたいと思いました。
――黄金期を迎えていた国見高校で、1年時から主力として出場されていました。
客観的に見れば順風満帆と映ったかもしれません。でも実際には練習についていくだけで必死。僕はそもそも性格的に自信を持つタイプではないんです。試合には出してもらっている、と捉えていましたね。2年、3年時の全国選手権で得点王になり、メディアの方々に「怪物」と命名していただいて、認知度は上がったんですが、自己評価との間には大きなギャップがありました。僕自身は高校3年間を歯を食いしばって過ごしていただけで。「すごい選手じゃないんだけどな」と思っていました。
――U20日本代表にも選ばれていましたし、ワールドユースでは得点も決めています。
僕はU20代表の主力世代の1学年下なので、みんな年上で、すごい選手ばかり。しかも国見は、代表選手を特別扱いするような空気感もなくて、むしろ小嶺先生には戻ったら、説教されていました。「天狗になって帰ってきたな。調子に乗るんじゃないぞ」と、まず走らされるんです。
――高校卒業後、プロではなく筑波大学への進学を決断されました。
選手権で得点王になったのは周囲がすごかったから、という自己評価でした。だから、4年間大学に行って成長できればプロになれるかなと。筑波大2年の6月に、高校3年時以来の、自分にとって2度目のワールドユース出場の機会があって。そのときに、前回大会から、新たに何かができるようになった、うまくなってきたという実感がまったくなかったんです。そこで初めて「もっと厳しい環境に身を置きたい」という欲が出てきたんです。

■ただサッカーがうまくなりたくて
――その後、筑波大を休学して、オランダ1部リーグのヘラクレス・アルメロに入団し、プロデビューされました。
日本にはない、僕が望んだ環境でした。外国人特有の当たりの強さや、間合いを詰める速さを体感できて、海外に来てよかったな、と。プレーそのものは、オランダでも十分にやれるという実感もありました。
――デビュー戦で2得点するなど、リーグ戦でチーム最多の8得点という1年目でしたが、筑波大を自主退学して迎えた翌シーズンは構想外となり帰国。ホームシックとも報じられました。
監督が代わったり、新しいフォワードを獲得したりと、環境が変わるなか、僕はオフの期間に手術をしたことでコンディション不良で、クラブ側とのコミュニケーションがうまくいかなかったんです。今思うと言い訳でしかないんですが、僕は「こちらにも事情がある」と腹が立ち、「じゃあ辞めてやる」と思ってしまったんです。契約期間は残っていたけど、飼い殺しにされるのも嫌だった。
――オランダで新天地を求め、プレーを続ける選択肢はなかったのでしょうか。
代理人から「どうする?」と聞かれましたが、「もうオランダはいいわ」と。日本に戻って再スタートしようと考えていました。振り返ると、このときの自分はプロサッカー選手としての準備も覚悟もできていなかったし、仕事として取り組むという姿勢が欠けていた。人生をかけてプレーし、サッカーのことを24時間考えて過ごすという、“プロ”ということがまったくわかっていなかった。プロ選手ではあるけど、“プロ”ではなかったんです。
――帰国後、JリーグのFC東京に加入します。
ホームシックになって逃げて帰ってきたとか、都落ちだといった声を散々耳にしましたが、「俺の人生だし、関係ない」とまったく気にしていませんでした。帰国後3年目までは練習に遅刻してしまうことも多かったし、しょっちゅう怒られていましたが、情熱的な城福浩監督の就任をきっかけに、だんだんと自覚が芽生えてきたと思っています。
――2010年には日本代表に初招集され、アジアカップ最終予選のイエメン戦で代表デビューし、ハットトリックの活躍でしたが……。
これまでと同じように、選んでもらえたという感覚でしたし、必死についていくだけで、才能に対する自信みたいなものもまったく生まれませんでしたね。こればかりは僕の性格。トップ・オブ・トップを目指してサッカーをやっていたというより、ただサッカーがうまくなりたくて続けていた。壮大な目標に向かって邁進するのではなく、目先の課題を一つずつクリアしていくことのほうが多かった。

■自分を信じてあげればよかった
――度重なる怪我もあり18年に32歳で現役を引退しました。引退時には「トップレベルでのパフォーマンスができない」と発言していました。J1リーグ通算では168試合33得点を記録しましたが、代表として出場した試合は4試合3得点にとどまりました。後悔などはありますか。
自分を信じてあげればよかったし、もっと調子に乗ってもよかったのかな。人間的にはともかく、“プロ”としては必要な部分だったように思います。国見の先輩の大久保嘉人さん(元セレッソ大阪など)はそんなタイプでした。もっとガツガツして中長期の目標を持っていれば、違ったキャリアがあったかもしれないなと。
――引退後は、仙台大学に入学。サッカー部の学生コーチを務めながら、指導者の道を歩まれます。筑波大大学院を経て、24年から仙台大学サッカー部の監督に就任されました。
ただ練習して帰るだけだった現役時代とは違って、今は考えることが山ほどありますね。戦術面に限らず、スタッフにはどんな人が必要なのか、限られた人数でどんな練習を組むべきか、といったことまで考えています。
チームには、プロを目指している学生もたくさんいます。できるだけ長くプレーできる選手を送り出してあげたい。一方で、就職活動をして社会に出ていく学生ももちろんいるので、「大学でサッカーをしてよかった」と思ってもらえるような指導を続けていきたいですし、実際にそう言われると僕自身もうれしく感じます。
現役のときから引退後は指導者にという思いを持っていました。当初はプロの指導者を目指していましたが、小嶺先生の影響で指導者イコール教育者という意識がありましたし、学生コーチを経験して、大学生を指導しているときが一番やりがいを感じたんです。子どもの未成熟な面と、大人の成熟した面を併せ持つ、あいまいな時期の人間形成に携われる。そして、日本代表にはユースや高校ではなく、大学出身者が多くいるという事実にも興味が湧きました。海外では見られない日本独自の育成ルートに関わることもやりがいの一つです。
――才能を発揮し続けることの難しさをどう考えますか。
才能を発揮するには人との出会いや環境も大事だと思いますが、それ以上に自分が自身の才能にちゃんと気づけるか、だと思います。学生を指導していても、やはり本人が主体的に行動しなければ変わらないということをすごく感じます。目標を立てて、逆算しながら計画的に一つずつクリアしていくことの大切さを、選手自らが感じないと意味がないとも思います。それは僕自身が身をもって経験しているので。だから今は、学生たちに気づきを与えるべく、「すべては自分次第」と伝えています。
(構成/AERA編集部・秦正理)
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