成果主義に絶望しました。「年功序列を望む若者」が増えた深刻な理由…甘えが原因ではありません

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就職活動や昇進試験において選ばれるのはやはり、優秀な人だ。しかし「頭がいい」とは、具体的にどのような資質を意味するのか。組織開発コンサルタントが、日本独自の評価制度によって生まれた日本社会の歪みを指摘する。※本稿は、勅使川原真衣『「頭がいい」とは何か』(祥伝社)の一部を抜粋・編集したものです。

成果主義よりも

年功序列を望む若手が増えた

 2025年夏、産業能率大学総合研究所が毎年恒例で実施している新入社員を対象とした調査において、驚きの結果が出ました。

「年功序列的な人事制度と成果主義的な人事制度のどちらを望むか」という毎年定番の設問に対して、「年功序列を望む」との回答が56.3%となり、1990年度の調査開始以来、はじめて「成果主義を望む」という回答(43.6%)を上回ったのです(図表6)。

 この36年目にして初となる逆転現象の背景にあるものは、「頭のよさ」という曖昧にして強力な概念が氾濫している現状と決して無関係ではないと私は捉えています。

 そのような現在地も踏まえた上で、いよいよ本記事では「頭がいい」という粒度の粗い評価軸と、その落とし穴について切り込んでいきたいと思います。

「頭がいい」という価値観が現代社会でどう作用し、人と組織をどう縛っているのか。その構造を解きほぐしていきましょう。

同書より転載

「頭がいい」は

過去への評価

「頭がいい」という尺度・基準は、極めて恣意的で曖昧です。

 曖昧で漠然としている上に、国や時代、環境が変われば、定義もたやすく移り変わっていくもの。しかし、どんな状況下にあっても「頭のよさ」にまつわるひとつの共通認識があります。それは、「過去への評価」という側面です。

「へえ、○○さんは頭がいいんですね」という言葉が私たちの口をついて出る場面を思い返してみてください。多くの場合、相手の過去の功績に対してのケースが多いのではないでしょうか。

 いま、ここにいる相手に「頭のよさ」を見いだしているよりは、相手の過去の学歴や実績、勲章に対して「○○試験に通るということは、きっと頭がいいのだろう」と評価を下している。そのようなケースのほうがおそらく多いはずです。

 つまり、「頭がいいんですね」は、「(過去に)頭がよかったんですね」と言い換えることも可能でしょう。過去の実績の延長線上に「頭がいい」が存在しているのです。

 この過去への評価が、いかに現代の能力主義と結びついているのか、話を進めていきましょう。

能力主義と選抜は

相性がいい

 過去の「実績」を「能力」とみなして「評価」する。

 人間を一列に並べて誰が優秀か、誰が役に立ちそうかを選抜するこの考え方は「メリトクラシー」(meritocracy)と呼ばれるものであり、イギリスの社会学者マイケル・ヤングが1958年に記した著書『The Rise of the Meritocracy』(メリトクラシーの台頭)ではじめて提唱しました。

 メリトクラシーとはラテン語の「meritum」(業績、功績)とギリシャ語の「kratos」(力、支配)を組み合わせた造語です。家柄や身分ではなく、その人の業績や成果に基づいて社会的地位や収入を決定するべきだ、という考え方です。身分制度のような、近代以前の封建的な社会制度と比べると、民主的な響きがするのが特徴です。

 海外では本来の意味で「業績主義」と訳されるのが一般的ですが、日本ではその名称ではいまいち広がらず、原義からやや離れた「能力主義」という訳語で浸透することになりました。

「業績」であれば、完全に過去の実績の総体です。しかし、それに対して「能力」という言葉を使ってしまった瞬間に、架空の概念の話になる。この点には注意が必要です。業績や実績は、なんらかのデータとして残るものでしょう。しかし、「能力」なるものをこの目で見たことのある人は誰もいませんし、正確で客観的な測定や、他者と比較して順位付けできる人も、本来はいないはずです。

就職氷河期に都合がよかった

「自己責任論」

 この「能力主義」が日本で最も盛り上がったのは、1990年代に入ってからだと考えられています。

 そう、バブルが崩壊して、就職氷河期が到来した時期です。

 国家財政の悪化が不況を招き、多くの企業が人件費削減のために新卒採用を大幅に絞ったことで、多くの若者が非正規雇用や不安定な雇用状況に追い込まれました。この時期の日本で台頭したのが高度経済成長期から脈々と続いてきた能力主義であり、新自由主義のもとで広がった自己責任論です。

 2000年代以降に新自由主義的な構造改革路線を推し進めた小泉純一郎政権下において、人は能力に応じて評価・選抜されるべきだとする評価観=能力主義は、非常に相性がいい思想でした。

 大勢の人を並べて、「能力」で断定・他者比較・序列化する。

 それによって選ばれた少数の人だけが肯定され、より多くの報酬と地位を得る正当性を持つ。

 選ばれないのは、個人の能力・努力が不足しているのだから、残念だけどまあ仕方ないよね……。もっと頭を使えばよかったのに、もっと頑張ればよかったのに……。

『「頭がいい」とは何か』 (勅使川原真衣、祥伝社)

 さて、このような能力主義的発想が配分原理として用いられるようになった結果、日本はどんな国になりましたか?

 成功した少数の強者が国や経済を回し、弱者にはとことん冷酷に自己責任を突きつけています。なぜなら、人生に失敗しているのは、愚かで努力をしていない人間だから――。福祉の削減や排除の正当化を支えるロジックは、このような発想に由来しているのでしょう。急激な人口減少が止まらないこの国では、もはや誰かを排除している場合ではないというのに。

 残念ながら、これが日本型メリトクラシーとも言うべき能力主義に社会全体が覆われ、失われた30年を経てたどり着いた日本社会の現在地です。