「人口20万人なのに百貨店1店だけ」「その店も売上低迷で消滅」…茨城屈指の"企業城下町"で百貨店が根付かなかったワケ

かつて百貨店は「特別な場所」だった。家族と過ごす休日、背伸びをして選ぶ贈答品。屋上やレストラン街には、地域の憧れと活気が凝縮されていた。しかし今、多くの街からその姿が消えつつある――。
本連載では、百貨店が消滅した街を歩きながら、「なぜ消えたのか?」を街ごとに分析していく。
第5回は茨城県日立市。企業城下町として栄えた日立市に唯一存在した百貨店「ボンベルタ伊勢甚日立店」。県北の中心都市でありながら、なぜ百貨店を維持できなかったのか。

日立市に存在した唯一の百貨店

茨城県日立市には、かつて1店の百貨店があった。ボンベルタ伊勢甚日立店だ。前身は1930年代に開業した丸和百貨店で、戦後に水戸の老舗呉服商・伊勢甚に買収され、89年からは「ボンベルタ伊勢甚日立店」の名前で営業していた。

【画像23枚】かつては茨城が誇る企業城下町だったが…百貨店が消滅、駅前はガラリ閑散とした「日立」の実態

しかし、その唯一の百貨店は、2005年5月に閉店。跡地は一時「さくらシティ日立」として再活用されたものの、08年に閉鎖。現在はスーパーの「カスミフードスクエア日立神峰店」が営業している。

最盛期は人口20万人規模だった日立市で、百貨店が1店のみだったことは県内でも特異な状況だった。隣の水戸市は伊勢甚・京成百貨店・高島屋・丸井などが集まる大型店の激戦地。人口が日立の約半分だった土浦市でも、京成百貨店・小網屋・伊勢屋の3店が存在した。

なぜ企業城下町として発展した日立市で、百貨店が1店しか根付かなかったのか。その背景を知るには、街の成り立ちまで遡る必要がある。

日立市の商業は、日立鉱山(1905年創業)と日立製作所(10年創業)の発展とともに形成された。鉱山や工場で働く従業員とその家族が人口の大半を占め、地域の消費を支えていたからだ。

丸和百貨店が生まれたのも、この企業城下町の拡大期だった。昭和13年(1938年)版の『日本百貨店年鑑』は、丸和百貨店について「軍需景気の波に乗って今や昇天の勢で伸展している」「町勢に伴ひ驚異的の進出」と記している。30年代後半の時点で、すでに日立の発展とともに急成長していたことがうかがえる。

戦後、丸和百貨店は水戸の老舗呉服商・伊勢甚に買収される。銀座通りの店舗をそのまま引き継ぎ伊勢甚日立店として営業した後、71年に鹿島町へ新築移転した。

日立鉱山の開坑から半世紀ほどで、日立市は茨城県有数の工業都市へと成長。百貨店もまた、その拡大と並行するように規模を広げていったのである。

日立市に存在した唯一の百貨店, 「商業の中心地」を作るための再開発, 開業から1年4カ月で旧店舗が閉店, 企業城下町と歩んだ百貨店

鹿島町にある伊勢甚の旧店舗。現在は駐車場として使われている(写真:筆者撮影)

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壁にはテナント募集の貼り紙が。掲載元は伊勢甚本社(写真:筆者撮影)

「商業の中心地」を作るための再開発

ところが70年代に入ると、日立市の商業には陰りが見え始める。背景にあったのは、購買力の分散だった。

日立市は山と海に挟まれた南北に長い地形で、市内には小木津・日立・常陸多賀・大甕(おおみか)の4駅が点在する。それぞれの駅周辺に商店街が形成され、商業の中心が分散していた。

業界誌『商業界』(84年5月号)では、日立市を「消費の流入のない閉ざされた商圏」と表している。85年3月の日本経済新聞も、日立市の小売業年間販売額が水戸市の半分以下にとどまり、人口規模が半分以下の土浦市にも肉薄されている状況を報じている。

市内に買い物の中心地がなく、市外への購買流出も深刻だった。

こうした状況を打開するため、市が主導して進めたのが、神峰町1丁目の市街地再開発事業である。市の再開発リーフレットには、「工業中心都市のため、ショッピングによる楽しむまちとしての表情に乏しい面がありました」と記されている。

市は、中心市街地に大型商業施設を整備することで、購買人口の流出を防ごうとしたのだ。

85年6月、神峰町に大型ショッピングセンター「椎の広場アウリット」が開業。茨城県初の組合事業型SCで、店舗面積約2万5000平方メートル、55テナント、700台の駐車場を備え、初年度売り上げ目標は140億円。日立市がこれほどの規模の商業施設を持つのは初めてのことだった。

核テナントとして入居したのが、伊勢甚日立店だ。再開発組合理事長の長山昌弘氏は、「SCを核にした街づくりを実施しようということでスタートした」と語っている(『ショッピングセンター』96年11月号)。

一方で、当初から不安視する声もあった。

当時、伊勢甚日立店に勤務していた元社員の井手よしひろ氏に話を聞くと、「山と海に囲まれた日立は商圏として厳しく、社内でも『こんな大きな店を作って大丈夫なのか』という声はあった」と語る。さらに、「ビルのスペックが過剰で固定費が高く、単店で黒字を出すのは難しかった」とも振り返った。

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ショッピングセンター「椎の広場アウリット」の跡地はスーパーの「カスミフードスクエア」になっている(写真:筆者撮影)

開業から1年4カ月で旧店舗が閉店

新店舗オープンに合わせて、旧店舗(鹿島町)はディスカウントストア「DS伊勢甚」として営業を継続。しかし86年11月、開業からわずか1年4カ月で閉店する。

日本経済新聞(87年3月11日)は、閉店の背景として、新店との両立の難しさと円高不況による地域経済への打撃を挙げている。日立市は日立製作所の業績が地域経済に直結する典型的な企業城下町であり、主要企業の減量経営が消費の冷え込みにつながったと分析した。

実際、85年以降の円高不況で、日立製作所をはじめ、地域の主要企業は給与カットや残業削減などの減量経営を進めた。企業収益の悪化は、地域の消費にも影響を与えていった。

水戸市への購買流出を食い止めるために始まった再開発だったが、中心市街地の再編は当初の想定ほど簡単ではなかった。

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伊勢甚旧店舗の近くにあった看板(写真:筆者撮影)

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よく見ると地図に「伊勢甚」の文字が。街のあちこちに伊勢甚の痕跡が隠れていた(写真:筆者撮影)

77年、伊勢甚の百貨店事業はジャスコグループに移行した。店名はしばらく「伊勢甚」のままで続いたが、89年のグループ内ブランド統一に伴い「ボンベルタ伊勢甚日立店」へと改称された。

バブル崩壊後、グループは地方百貨店の整理を進める。94年に勝田店がジャスコ勝田店へ業態転換するも、2010年に閉店。03年には創業地の水戸店が閉店している。一方、日立店は「比較的好調」とされ、最後まで営業を続けていた。

ただ、2000年代に入ると状況は変わる。日立製作所本体の事業再編が本格化し、国内雇用の縮小が始まったのだ。市の地域再生計画によれば、市内大手企業の従業員数(市外在住者を含む)は1994年の2万1066人から2021年には1万2004人へと減少している。

閉店後の数字も含まれるが、企業城下町を支えた雇用は、百貨店と同じ速度で縮小していった。

そして05年5月、売り上げの低迷と追加投資の困難を理由に、ボンベルタ伊勢甚日立店は閉店。

当時、市民の間では「日立が寂れていく」といった声も上がっていたという。企業城下町を支えてきた百貨店の閉店は、単なる商業施設の撤退以上の意味を持って受け止められていた。

日立市に存在した唯一の百貨店, 「商業の中心地」を作るための再開発, 開業から1年4カ月で旧店舗が閉店, 企業城下町と歩んだ百貨店

閑散とした商店街。すれ違ったのは1〜2人だけだった(写真:筆者撮影)

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平日だが、シャッターの下りた店が並ぶ(写真:筆者撮影)

企業城下町と歩んだ百貨店

丸和百貨店は、日立鉱山や日立製作所の発展とともに成長した。のちにボンベルタ伊勢甚日立店へと名前を変えながらも、企業城下町の縮小とともに消滅した。

ただ、それだけでは説明しきれない点もある。なぜ日立では百貨店が増えなかったのか。そして、最後の1店すら維持できなかったのか。

閉店の背景を理解するには、企業の変化だけではなく、日立市特有の都市構造を見る必要がある。次回は、その背景を探る。