新幹線が走れない?「インド高速鉄道」の重大局面 欧州勢が信号システム受注、日本式と共存できるのか
「信号システムは心臓部。それが欧州製になってしまうと、日本の車両の安全性は担保できない」――。
【写真を見る】▶インドの高速鉄道、工事はどこまで進んでいる?平原に延びる高架橋やすでに敷設された線路▶先行開業を目指す区間の駅など建設中のインフラ▶インドのモディ首相と安倍首相の首脳会談▶E5系新幹線を見学した際の様子など「インド新幹線」のこれまでの動き
5月13日に都内で行われたJR東日本の2026年3月期決算説明会。好決算の内容を笑顔で説明していた伊藤敦子副社長だったが、インド高速鉄道をめぐる最近の状況について問われると、このときばかりは厳しい面持ちで語った。
日本の新幹線方式が採用されたインド初の高速鉄道計画は、建設工事が佳境を迎えている。2025年8月の日印首脳会談において日本がインドに次期新幹線「E10系」の導入を提案したことは記憶に新しい。
首脳会談の共同声明には「インドへの最新の日本式新幹線の導入に向けて協力することで一致した」と記載され、両者の関係は良好に見える。しかし、伊藤副社長は「交渉はハードなものになっている」と明かす。
日本が逆転受注した「インド新幹線」
一体、現地では何が起きているのだろうか。これまでの経緯を簡単に振り返ってみたい。
インドは国内初の高速鉄道路線として、西部のムンバイ―アーメダバード間(508km)に照準を合わせた。この区間の予備調査は2009年にフランスの鉄道コンサル会社「シストラ」が落札していたことから、フランスの高速鉄道TGVに準じた仕様で建設されるとみられていた。
そこから日本は猛烈な巻き返しに動く。
日印による共同調査と並行して、2011年にはインド鉄道省から局長クラスの幹部12人を招待して、JR東日本の新幹線総合車両センター、川崎重工業、日立製作所の工場を視察させた。新幹線技術の優位性をその目で直接確かめてもらうことが目的だった。
こうした地道な努力も奏功し、2013年に日本は予備調査に続く本格調査を逆転受注した。実際の調査はJR東日本グループの「日本コンサルタンツ」を代表とする企業連合が担当している。この調査は東北新幹線「E5系」をベースに開発した車両を導入する前提で進められた。最終的に日本はフランスを退けて受注にこぎつけ、2015年12月の日印首脳会談で新幹線方式の導入に関する覚書が交わされた。

川崎重工業の工場で製造中のE5系新幹線の前で握手するインドのモディ首相と安倍晋三首相(当時)=2016年11月(写真:Bloomberg)
「新幹線方式」とは何か
では、ここでいう「新幹線方式」とは何か。JR各社やメーカー・商社などを会員とする国際高速鉄道協会(IHRA)は、新幹線の安全性・信頼性、そして高速・大量・高頻度輸送を実現する基本思想として「クラッシュアボイダンス(衝突回避)の原則」を挙げている。
道路との平面交差のない高速旅客鉄道専用線と、速度を制御して先行列車との距離に応じて自動的にブレーキがかかるATCシステム(自動列車制御装置)の2つの仕組みにより、衝突の可能性を完全に排除するというものだ。
これに対して欧州の高速鉄道は、専用線のほかに都市部などで在来線に乗り入れる方式を取る。そのため、踏切があるといった物理的な違いのほか、信号システムにも大きな違いがあり、ATCではなく、欧州で統一された信号システムである「ETCS(欧州列車制御システム)」を採用している。
日本が受注に成功した理由は、技術面の特性によるものだけではない。プロジェクトに対する巨額の「円借款の供与」が重要な要素である。計画当初に約1兆ルピー(約1.67兆円)と試算された事業費は、その8割が円借款による年利0.1%、償還期間50年(据え置き期間15年)という破格の低利融資で賄われることが2015年の覚書に記された。国の経済規模から見てもフランスには日本のような資金は準備できなかった。円借款は日本の最高の切り札だった。
また、インドは「メイク・イン・インディア(インドで作ろう)」という国内製造業の振興策を掲げており、高速鉄道車両を自国で製造し、将来は他国に輸出するという目標を掲げていた。日本はこの意向を受け入れ、覚書には車両や設備の製造を含む新幹線システムのメイク・イン・インディアを段階的に推進することも記載された。
2027年8月に一部先行開業へ
このプロジェクトは「インド高速鉄道公社(NHSRCL)」が事業主体となり、資金調達、建設、維持、管理を行うこととなった。日本コンサルタンツはインド高速鉄道における軌道・車両基地等の施工監理などを担当し、新幹線方式による建設の砦となる。当初は2023年の開業を目指し、2017年の起工式を迎えた。
だが、高速鉄道建設のための土地収用が遅れ、2023年の開業は幻に終わった。とはいえ工事が頓挫したわけではない。2024年にすべての区間の土地収用が完了し、現在は「2029年末までの全線開業」という新たな目標が定められている。

建設工事が進むインド高速鉄道。2026年4月時点で基礎部分は85%まで進んでいるという(写真:NATIONAL HIGH SPEED RAIL CORPORATION LIMITED)

先行開業区間となるスーラト駅(写真:NATIONAL HIGH SPEED RAIL CORPORATION LIMITED)
2026年4月時点における工事の進捗状況は、全線のうち基礎部分85%、橋脚84%、橋桁69%、道床29%となっている。全線開業に先立ち、区間のほぼ中間に位置するヴァピ―スーラト間(約100km)について、インドが建国80周年を迎える2027年8月に先行開業を目指すことも決まった。軌道の整備については遅れを取り戻しながら着実に進んでいる。
最大の懸念は「車両」である。
当初の計画では、E5系ベースの車両を開業時に24編成導入し、その後は利用客の増加に合わせて編成数を追加、30年後には71編成に拡大する予定だった。また、メイク・イン・インディア政策に基づき、初期の24編成中6本程度をインド国内でノックダウン生産し、その後は徐々に技術移転を進める計画だった。
2018年11月に開催されたIHRAの高速鉄道セミナーでは、インド鉄道省・鉄道委員会の車両担当委員が、「日本の技術は割高と言われているが、インドで製造すれば中国よりも安くできる。また、インド製は中国製よりも信頼できると考えている国が、中東やアジアに多い」と、将来の高速鉄道車両の輸出を見据えた発言を行っていた。
さらに、NHSRCLの幹部も「(他区間を)フランスやドイツがやることになったとしても、車両はE5系の技術を使って開発したい」と言い切るほど、E5系を絶賛していた。

2018年の日印首脳会談後の記者会見で、スクリーンに映し出された「インド新幹線」のイメージ。E5系を赤くしたようなイメージ画像だ=2018年10月29日(写真:Bloomberg)
交渉難航、インドは「国産車」発注
にもかかわらず、E5系の導入交渉は難航した。日本とインドの間で何が対立点になっているのかは不明だが、多くの識者が日本の提示価格がインドの想定を超えているのではないかと指摘している。国産化の障害となる技術移転上の問題もあるのかもしれない。
そこで、インド側は強硬策に打って出た。まず、2024年10月、NHSRCLが国内メーカーに最高時速280kmの高速車両を発注したことが報じられた。E5系よりも最高速度は劣るので本命車両とは言えないものの、2027年の部分開業時にはこの車両が走行する可能性が浮上した。
さらに、2025年1月、NHSRCLは全線を対象に信号・列車制御システム、電気通信システム、運行管理センターシステムの設計、製造、試験、メンテナンスなどに関する入札を発表した。入札参加要件には「UNISIGのメンバーであること」と記載されていた。UNISIGとは、欧州の信号仕様を策定・管理する専門委員会である。つまり、UNISIGのメンバーに発注するということは、「ETCS=欧州方式」の導入にほかならない。そして新幹線車両はETCSでは走行できない。
インドの強硬策を察知した日本は、さまざまな懐柔策を講じた。まず、E5系に代わり、JR東日本が開発中の次期新幹線E10系をインドに導入する案を打ち出した。E10系は2027年以降に完成し、2030年度に日本国内での営業運転を目指している。

新幹線E10系の完成イメージ(画像:JR東日本)
また、E10系導入に先立ち、総合検測車と訓練やデータ収集用のE5系を各1編成インドに譲渡することも決めた。さらに、2025年1月から1年間にわたってNHSRCLの職員16人を受け入れて、新幹線運転士研修を実施するなど、ソフト面での強化も打ち出した。これらの提案にインド側は謝意を示したものの、結果として入札は実施された。
欧州勢が信号システムを落札
なぜ日本は入札を阻止できなかったのだろうか。一連の動きについて日本コンサルタンツに説明を求めたが、「NHSRCLとの間に守秘義務がある」という理由で回答は得られなかった。なお、JR東日本によれば、今回の信号システムの入札やインド製車両の選定に日本コンサルタンツは関わっていないという。
最終的に受注したのは、ドイツのシーメンスが加わる企業連合だった。2025年6月にシーメンスが発表したリリースによれば、同社はETCSレベル2に基づく信号および列車制御システムの設計、設置および15年間にわたるメンテナンスを行うという。プロジェクトの期間は54カ月(4年半)なので、2029年末に完成する。つまり全線開業と同じタイミングだ。同リリースには「最高時速350kmでの列車運行を支える」という記載がある。E5系、E10系の最高速度を超えているのが気になる。シーメンスは時速350km運転が可能な車両を開発している。
また、「ETCSレベル2は世界的に認められた信号基準であり、現在50カ国以上で使用されている」「メイク・イン・インディアへのコミットメントを反映したものだ」といった記述が見られる。これらの文面からインド側の狙いが透けて見える。すなわち、世界標準であるETCSに対応した高速車両をインド国内で製造し、輸出にもつなげるといったシナリオだ。
しかし、問題は、ETCSには日本の新幹線が対応していないという点だ。クラッシュアボイダンスの原則からいって、ETCSで走る列車を新幹線と呼べるかどうか。
「それなら、外観だけをE10系にして、中身のシステムは欧州製にすればいいではないか」。インド側にはそう口にする人もいるという。しかし、JR東日本の伊藤副社長はきっぱりと言い切った。「そんなわけにはいかない。信号システムと車両は一体不可分。日本製の信号、日本製の車両で運行するということを約束している」。

JR東日本の新幹線試験車両「ALFA-X」の運転台(撮影:尾形文繁)
安全性は保てるのか
2025年8月に行われた日印首脳会談の共同声明には、「日本式信号によって走行するE10系新幹線を2030年代初頭に導入する」「日本式信号をはじめとする信号の早期敷設」といった文言が盛り込まれ、日本式信号が大前提であることが明文化された。
だが、それは甘い考えだった。NHSRCLは2025年11月に信号・通信システムなどのプロジェクト管理業務を入札を発表した。シーメンス連合の作業が適切に実施されているか管理するという内容だ。2026年2月、シストラはドイツ鉄道系のエンジニアリング会社と共同でこの業務を受注したと発表した。シーメンスなどの企業連合と密接に連携して業務を進めるという。当初予備調査を担当したシストラが表舞台に返り咲いた。
欧州式信号を撤回できないと判断した日本の国土交通省は2025年12月に、インド高速鉄道において「日本式信号と欧州式信号の並行整備」に関する調査の入札を公示した。2つの信号システムの共存が可能かを調査するのだ。もっとも、それが実現すれば、インドにとって信号システムの二重投資によるコスト増は避けられない。それ以上に、日本ではありえない試みだけに、安全性が心配だ。調査結果の行方が注視されている。
広大なインドの大地を日本の新幹線が走る姿を見れば、多くの日本人が誇らしい気持ちになるだろう。しかし、新幹線たるゆえんは、安全性あってこそなのである。