代ゼミのカリスマ英語講師・西谷昇二氏が明かす“500人教室満員”の熱気と「生徒が変わった」1995年

代々木ゼミナールの英語講師・西谷昇二さん(69)は、30代で「カリスマ講師」と呼ばれ、予備校全盛期には500人以上の生徒が入る教室を満員にした。今年で代ゼミ歴38年目となる西谷さんは、予備校の移り変わりに何を思うのか――。カリスマ講師と生徒が一体となったかつてのブームについて、そして予備校の未来について語った。
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■予備校に集まって「文化圏」を作っていた
――1980年代~90年代の「予備校バブル」のときの生徒はやはり元気でしたか。
「予備校バブル」という言葉が当てはまるかわからないけれど、単純に浪人生が多かったということですね。今の5倍以上はいましたから。彼らが予備校に集まって、大げさに言えば「文化圏」みたいなものを作っていた。その活気は本当にすごかったです。
夏期講習会なんか、10分ぐらいでほぼ締め切られていました。当時、代々木校で一番大きかった「63B」教室は500人以上入るけど、そこもすべて満席。びっくりしましたね。経済的に余裕があった時代でもあったから、教室の机の上が講師への「貢ぎ物」で一杯になることもあったし、元旦講演会では12月30日の夜から生徒が並んでいたこともありました。
――代ゼミでは89年から代々木校の授業を全国の校舎で受けられるサテライン(衛星中継)授業が始まりましたが、当時はサテラインに出たくないと考える先生もいたそうですね。
当時、英語で1番人気のあった先生が「サテラインは好きじゃない」と降りて、僕にお鉢が回ってきたんだけど、逆に面白かったですね。89年の冬だったと思うけど、最後の授業で、29歳で亡くなった親友の話をしたんです。そうしたら、目の前にいる教室の生徒と全国の生徒が、感覚的につながった気がしましたね。

■カリスマと言われることもあるけど…
――80年代後半は経済的な余裕もあり、今よりも明るかったと言えるのでしょうか。
そこはすごく難しいですね。一つは70年代からの流れがあると思うんです。60年代の安保闘争が東大紛争により終焉して、簡単に言えば、集団から個人へと社会が移行していった。集団で大学の民主化を求めた全共闘運動が潰れて、みんな地下に潜った。その中で個人をどうつくるかを考えていく時代でした。その感覚と、80年代に僕が予備校に入った頃の生徒の価値観がつながっていたんです。だから僕は、生徒に「教えよう」という気はあまりなくて、70年代に自分が生きてきた経験を語りたかったし、生徒も真剣に聞いてくれた。それが自然と熱気につながっていったんだと思います。
――講師間の競争も苛烈だったそうですね。
人間ですからね。やっぱり頑張れば高収入になる世界でもあり、競争も激しかったですよ。それが正当な競争ならいいんだろうけど、つるんで相手を引きずり下ろす、みたいなことも現実にはありました。そういうことは正直あまり言いたくないけど……。でも僕はそういう中で同じ土俵で戦わないようにしていました。生徒は勉強しに来ているわけだから、そういう話には一切コメントしない。自分が信じることをやっていれば、生徒はついてくる。それも一つの大人のあり方だと思っていたので、その姿勢は崩さずに、割と意図的にやっていました。
――英語の教え方について、批判されることもあったのでは。
何百人もいた生徒が、どんどん減って、数十人ぐらいになったこともありました。「これはやばいな、クビかな」と思ったこともあります。でも、そこから自分が思っていることをずっとしゃべり続けていると、またV字回復するんですよ。我慢して、自分なりに辛抱しながら必死でやっていると、生徒もちゃんと見てくれる。そうやって生徒とつながれたことは、自分にとっても生きがいでした。だから、カリスマと言われることもあるけど、僕は自分をそう思わない。生徒と一緒になって、「どうやったら個を確立できるのか」を考える場が教室でした。それが、あの時代の予備校の楽しいところだったんじゃないかな。
――浪人生の数も減り、代ゼミも全国27校舎から7校舎に減り、大学入試も総合型選抜や学校推薦型選抜が増え、一般入試の枠は減りました。最近は生徒の質も変わりましたか。
今の生徒は効率主義で、コスパ・タイパを求めると言われるけど、予備校生が大学への最短ルートを求めるのは昔も本質的には同じです。ただ昔は、授業の合間にポロッとしゃべる雑談に、生徒が食いついてきた。でもこの10年ぐらいは、食いつくどころか寝る。あるいは批判される。「それは授業でやることじゃない」と言われるようになりました。

■アンパンマンも歌えない?
――最近は代ゼミでも映像授業が増えていますね。
僕はライブ授業の方が好きですけどね。でも、自分がしゃべりたい話を受け入れてくれる聴衆は、今の時代は少数だと思う。そういう意味では難しい時代になったかな。転換点はおそらく95年だと思います。3月の地下鉄サリン事件の前、1月17日に阪神・淡路大震災が起きた。いくら経済的に繁栄していても、自然災害が一発来たら全部壊れてしまう。高度成長や消費社会に対して、自然の側から「ノー」を突きつけられた。地下鉄サリン事件にしても、60年代の安保、そこから「個の確立」という形で頑張ってきたものが、いくら努力しても組織や体制に対抗できない行き詰まりを、無差別テロという形で示してしまった。あの二つで、日本は経済的にも政治的にもどん底に突き落とされた、と僕は思っています。
――ここまで続けられたのは代ゼミへの愛着が強かったからですか?
僕は代ゼミが一番自分に合っていると思ったし、テキストもかなり自由に作れました。冬期直前講習会では、まるで電話帳のように分厚いテキストを作って「Candy Rock」と名づけたりね。ほかの予備校ではなかなかできなかったと思います。
――予備校講師は「天職」でしたか。
確かに天職でしたね。自分が自然に情熱を持てる仕事を探していたし、教壇という場は、自分が呼吸できる場所だった。親友が亡くなったこともあって、ギタリストという夢を追っていた彼の存在も、生徒に向き合う姿勢に影響していたと思います。生徒をどこか同志みたいに感じていたし、語ったことに彼らなりのリアクションが返ってくる。それは本当に救いでした。でも、だんだん変わっていった。正直、今は少し諦めに近い感覚もありますね。
――最後の授業で「アンパンマンのマーチ」を歌い、生徒を大学受験に送り出していたのが印象的でした。今はどうされていますか。
全然歌えない、規制が厳しいですからね。著作権の問題もあるし、そもそも生徒が引いちゃう。生徒からすれば、「アンパンマン」を歌う時間があったら受験テクニックを教えてほしいんですよ、今は。
――昨年の連続テレビ小説(NHK)は「あんぱん」で、アンパンマンも話題になりましたが……。
そうですよね。この前テレビを見ていたら、NHKに出ている気象予報士の檜山靖洋さんが、「あんぱん」の感想を聞かれた際、「予備校の先生が『アンパンマン』を歌っていて、励まされたのを覚えています」と言ってくれたんです。それを聞いて、ああ、そうやって残っているんだな、と思った。過去にやったことが、ちゃんと今も生きて覚えてもらえてるんだなと感じられて、本当にうれしかったですね。どんな形でも、自分のしてきたことが人の心に残ったら、僕は本当に幸せなんです。
(聞き手・構成/AERA編集部・岩田智博)
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