「ボスを裏切り織田信長についた」美濃三人衆とは何者だったのか?〈大河ドラマ「豊臣兄弟!」第9回〉

『豊臣兄弟!』第9回で描かれた「美濃三人衆」とは? (C)NHK
歴史はエンターテインメント!かしまし歴史チャンネルへようこそ。「美濃を獲れば天下は半ば手に入ったも同然」と言われた戦略の要地、美濃。その美濃を、織田信長はいかにして手に入れたのか?鍵を握ったのは、稲葉良通、安藤守就、氏家直元、「美濃三人衆」と呼ばれる三人の国人領主たちでした。『豊臣兄弟!』第9回で描かれた通り、斎藤龍興から織田信長についた彼らの行動は「裏切り」だったのか、それとも戦国を生き抜くための合理的選択だったのか?今回は、彼らの事情を読み解いていきましょう。(かしまし歴史チャンネル/川合章子)
美濃(現在の岐阜県南部)という国の特殊な事情
今回は、美濃の領主・斎藤龍興が、なぜ家臣である美濃三人衆に見限られたのか、その背景をわかりやすく整理してみたいと思います。
美濃国は現在の岐阜県南部にあたり、室町時代には守護の土岐氏が支配していました。しかし戦国期になると守護の力は衰え、各地の国人(在地の小領主)たちが台頭します。
この「国人勢力が強い土地」に乗り込み、武力で支配を確立したのが斎藤道三でした。
これまで斎藤道三は、一介の油売りから身を起こして美濃を掌握した、下剋上大名の代表のように言われてきましたが、近年の研究では、美濃の掌握は道三一人の力ではなく、道三の父の長井新左衛門尉と親子2代で成し遂げたものだ、ということがわかってきています。
とはいえ、美濃の守護の土岐氏を追放し、新たに美濃の主となった斎藤道三は、もともと外来の支配者であり、国人たちの心からの支持を得ていたわけではありません。
その反発が噴き出したのが、息子の斎藤義龍による父殺し、いわゆる「長良川の戦い」です。
道三が武力と恐怖によって国人たちを支配していたのに対し、息子の義龍は強引な父親のやり方を改め、美濃の国人たちが納得できるような支配体制を整えていったため、多くの国人たちの支持を得ることができ、父の道三を討ち滅ぼせたというわけです。
さらに義龍は、信長と2度戦って2度とも勝っており、美濃の国人たちにとっては頼れる領主でもありました。
ところが永禄4年(1561)、義龍が33歳で急死してしまい、跡を継いだのがわずか14歳の龍興でした。

美濃・斎藤家の家督を継いだ、斎藤龍興(演:濱田龍臣)は、斎藤道三の孫に当たる。史実では家督を継いだとき、まだ14歳だった (C)NHK
美濃三人衆とは何者か
主である斎藤龍興を見限った美濃三人衆とは、稲葉良通(一鉄)、安藤守就、氏家直元(卜全)の三人です。
彼らは単なる家臣ではなく、それぞれ城と兵を持つ、美濃に土着した国人領主でした。つまり、斎藤家が美濃を支配するより、ずっと前から美濃に根を張り、領民を守ってきた存在だったのです。
そのため、彼らの価値観は「主君への絶対忠義」ではなく、「自分たちの領地と民を守れる主君に従う」というものでした。当然のことながら、主が頼りなければ別の勢力に乗り換えることも厭わない存在だったわけです。

美濃三人衆の一人、稲葉良通(演:嶋尾康史) (C)NHK

美濃三人衆の一人、安藤守就(演:田中哲司)。 前回記事で解説した竹中半兵衛 の義理の父に当たる (C)NHK

美濃三人衆の一人、氏家直元(演:河内大和) (C)NHK
若き龍興の失政
父の義龍が急死した後、わずか14歳の龍興が一人で政治を行うことには無理があり、美濃の政治は重臣たちの合議制によって行われることになりました。
ところが、『信長公記』によると、龍興は「酒色におぼれ、重臣の意見を聞かなくなっていった」とされており、外交と軍事でも失敗が続きました。
軍事面では、信長が三河の徳川家康と清洲同盟を結び、背後を固めて美濃への侵攻を繰り返すようになり、龍興は苦戦を強いられます。外交面でも、北近江の浅井長政との同盟を狙った龍興に対し、信長が妹のお市を長政に嫁がせて先手を打ちました。
戦も外交も成果がなく、しかも重臣を軽んじる。これでは国人たちが不安を抱くのも無理はありません。

その頃、織田信長の家臣である豊臣秀吉(左、演:池松壮亮)と秀長(中、演:仲野太賀)は、斎藤家の家臣だが斎藤龍興を稲葉山城から追い出した竹中半兵衛(右、演:菅田将暉)を味方につけようと説得していた (C)NHK
「裏切り」ではなく合理的選択
美濃三人衆から見れば、信長は桶狭間で今川義元を討ち、外交でも優れた実力者です。一方の龍興は、助言も聞かない若く我儘な主君。
美濃三人衆にとって、誰を主君に据えるかの判断基準は、あくまで誰が美濃を守れるかであり、その答えこそが信長だったのです。
そして永禄9(1566)年、美濃三人衆は信長に人質を送り、稲葉山城を差し出しました。美濃三人衆に裏切られ……というか見捨てられ、美濃から逃げ出す羽目になった斎藤龍興は、伊勢の長嶋へ亡命。本拠地を稲葉山城とした信長は、この地名を「岐阜」と改め、稲葉山城を岐阜城と改名したのでした。
斎藤家が三代で滅びた理由
斎藤家が三代で滅びたのは、国人の力が強い土地柄であったこと、斎藤義龍の急死による政権の弱体化、龍興の失政、そして信長の台頭といった複合的な要因によるものです。美濃三人衆の行動は、単なる裏切りではなく、戦国の論理に基づく合理的な選択だったのです。

『豊臣兄弟!』第9回より、安藤守就(左)と斎藤龍興(右) (C)NHK
次ページの動画ではこの他、
・国を追われた斎藤龍興のその後
・美濃三人衆のその後
・稲葉一鉄の栄達
・氏家卜全の最期
・安藤守就の悲劇
といった内容についてお話しています。気になった方は、動画をご覧ください。
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