なぜ新聞は売れなくなったのか? 実はCDアルバムと同じ理由だった

世界中で新聞離れが止まらない~「新聞の読み物」は不要だった?, 「必要最低限の社会適応装置」にしか金を払わない, レンタルビデオ店と書店はなぜ廃れたか, 新聞も本も読まない時代――数字が示す深刻な現実, 伝統芸能化する新聞と本

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「新聞離れ」が世界中で止まらない。クオリティペーパーの代表格、ワシントン・ポストでさえも例外ではなく、従業員を3分の1解雇するという。似たような道をたどり、売れなくなってきているものは他にもある。音楽CDや本もそうだ。かつて栄えたコンテンツビジネスが次々と廃れていく。その背景にある共通項とは?(ライター、編集者 稲田豊史)

世界中で新聞離れが止まらない~「新聞の読み物」は不要だった?

 2月、アメリカの新聞「ワシントン・ポスト」が従業員の3分の1を解雇し、スポーツ報道や国際報道など複数の部門を閉鎖・縮小する、と報じられた。

 新聞社の経営難は世界共通だ。日本も例外ではない。

 今をさかのぼること4年、2022年のある日。筆者が某全国紙から取材を受けたときのことだ。文化部所属の記者はボソリと言った。「新聞社は長らく、読者が無料で読めるニュースをYahoo!に提供し続けてきました。今さらお金を出してウェブのテキストコンテンツを買ってくれといっても、通らないですよね」

 同年、一般紙の発行部数が初めて3000万部を割り、界隈では大騒ぎになった。以降も落ち込みは止まらず、2025年には2300万部程度にまで減少。2000年の一般紙発行部数が4700万部だったので、四半世紀で半分以下になったわけだ。昨今では夕刊の刊行を廃止する地方紙も多く、現代人の新聞離れは止まらない。

 今さら新聞が読まれていない理由をあれこれ並べても仕方がない。答えは件の文化部記者が4年前に言っている。ニュースなどタダで読めるからだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 ここには反論もあるだろう。新聞には単なるニュース以外に、骨太な論説や論考、丁寧な調査記事や味のあるコラム、読者投稿、文化面の特集記事など、ネットでは無料で読めない読み物もたくさん載っているではないか、と。

 しかし、その価値はと問えば、昔から大半の人にとってはそもそも「なかった」のかもしれない。

 多くの人は、社会生活を送るうえで「知っておかなければ恥をかくニュース」を押さえておくために新聞を取っていただけであって、それ以外の記事などろくに読んでいなかった。

 だからこそ、ネットでニュースだけが無料で供給されると知るや、日常的にインターネットに触れている人から順にニュース供給元として新聞を選ばなくなり、無駄な出費を抑えたにすぎない。

「必要最低限の社会適応装置」にしか金を払わない

 多くの人は「教養」や「文化」にではなく、「必要最低限の社会適応装置」にしか金を払わない。筆者も含む書き手やメディアの人間は、この身も蓋もない残酷な事実を認める必要がある。

 この構図、何かに似ている。CDアルバムだ。

 CDアルバムは本来、ジャケットのアートワークや曲順設計やブックレットの解説文なども含め、世界観を表現する「文化的な作品」だった。しかし、アーティストについたコアなファン以外の多くの消費者にとって、そんなものはどうでもよく、最低限「曲さえ聴ければ」それでよかったらしい。だからこそ、その最低限がiTunesやSpotifyなどで代替されると、CDアルバムはサービス過剰の代物になっていった。「余計なものはいらないから、曲だけ安く聴きたい」だ。

 無論、物理メディアが配信に取って代わられた要因は、他にもたくさんある。入手工数の少なさ、収納場所が不要であること、事実上無限の曲数を持ち運びできる便利さ、サブスクの安価な料金設定など。

 しかしそれらを踏まえても、物理メディアという「モノ」でしか供給されない文化的な諸要素が、思いのほか多くの人にとって「なくても支障はなかった」という残酷な事実には――骨太な読み物記事を心血注いで執筆する新聞記者と同様に――かつて多くのアーティストがショックを受けたのではないだろうか。

レンタルビデオ店と書店はなぜ廃れたか

 ある商品やサービスが、本来は多様な価値を持っているにもかかわらず、多くの利用者はそのうち「最低限必要の機能」しか消費していなかった。その最低限が、安価もしくは無料で代替可能になった瞬間、商品やサービス全体が不要と判断された――。このような事例はCDアルバム以外にもある。

 たとえばレンタルビデオ店や書店。独自性やセンスが光る作品陳列、店員による手書きPOP、ジャケットや表紙を眺める楽しみ、予想していなかった作品に偶然出合う知的興奮。これらは映像文化や書物文化を味わうための大切な要素……のはずだった。

 しかし、多くの人にとってレンタルビデオ店は「週末に話題作を1、2本見るための供給装置」であり、書店は「話題のベストセラーを狙って買う場所」あるいは「買い続けている漫画の最新刊を手に入れる場所」でしかなかった。

 よって、その最低限のニーズがNetflixなどの定額制動画配信サービスやアマゾンなどのネット通販で代替されると、「店に行く手間」「目当ての商品がないかもしれないリスク」が無駄なコストとなり、店舗への来訪自体が敬遠されるようになった。

 レンタルビデオ店も書店も文化空間としての価値は確かにあったし、現在でもある。ただ多くの利用者は、そこに「コストを払ってもいい」と思えるほどの価値は見出していなかったらしい。新聞の読み物やCDのブックレットと同じく、「なくても支障はなかった」のだ。

新聞も本も読まない時代――数字が示す深刻な現実

 新聞に話を戻すと、若者が新聞を取っていない、読んでいないのは当然として、中年層も読んでいない。これは筆者が本の執筆用に実施した大学生グループインタビューで判明したことだが、そもそも彼らの実家、すなわち40~50代の親が新聞を取っていない。さらに言うと、筆者周囲の編集者、つまり文字を商売にする人たちですら、40代以下で新聞を取っている人はかなり減った感覚がある。

 新聞ついでに読書の話をすると、2025年時点の大学生の月平均の書籍費は自宅生が970円、下宿生が990円で、前年の1450円、1500円から大きく落ち込んだ。また、大学生の51.5%が「1日の読書時間0分」である(いずれも全国大学生協連調べ)。若者が経済的に窮乏していて本を買えないという事情は当然考慮すべきだが、それでもやはり、他の娯楽に比べて書物に金を払う優先順位は非常に低いと言わざるをえない。

伝統芸能化する新聞と本

 言ってしまえば、「必要最低限の社会適応装置」に新聞や本は含まれないのが、令和の日本だ。だとすれば、新聞や本は今後どういう存在になっていくのか。

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稲田豊史 『本を読めなくなった人たち~コスパとテキストメディアをめぐる現在形』 (中公新書ラクレ)

 ひとつ考えられるのは「歌舞伎化」である。

 歌舞伎は、江戸期には町人中心の大衆娯楽だったが、明治期以降に伝統芸術化が進み、国家文化財的に扱われるようになり、中上層寄りの文化へと変貌した。現在、歌舞伎ファンの中心層と考えられるのは、比較的可処分所得が高めの年配者である。誤解を恐れず言うなら、大衆娯楽というよりは、もう少し限られた人が愉しむ趣味と化した。

 いずれ新聞も本も、時間的、経済的に余裕のある年配者が「教養」を携えながら「文化」を志向する、限られた人の趣味と化してしまうのだろうか。そうなれば当然ながら、市場は極限まで小さくなる。本を書き、できるだけ多くの人に買ってもらうことで生計を立てている筆者にとっては、気が重くなる未来でしかない。

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