JAXAの募集要項「学歴不問だけど大学相当の選抜試験はあります」に怒り狂った人々の心理とは

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日本ではいまだに学歴フィルターが根強く残っているものの、ビジネスの現場において「実際に仕事がデキるかどうかは別問題」であることを実感することも多い。それでもなぜ人は、学歴にこだわってしまうのだろうか。組織開発の専門家が企業と労働者のジレンマを解説する。※本稿は、勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP研究所)の一部を抜粋・編集したものです。

学歴よりも成功を左右する

「能力」がいくつもあるらしい

 学歴ではない成功のカギはこれさ、と言われがちなもの。いろいろと頭には浮かんでいるのではないでしょうか。私で言えば、本田宗一郎氏の言葉にあった「愛」や「協力」「徳」もそうですし、昨今流行した書籍を見ても「成功」のカギ言説の話が浮かんできます。

「多動力」

「1%の努力」

「聞く力」

「美意識」

「リーダーシップ」

「エッセンシャル思考」

「1分で話せ」

……と、各界の著名人が成功の秘訣をおおよそ自分がもっていると自負していそうな特別な「能力」に回収させて、「学歴ではない何か論」を盛り立てる。そう言っても過言ではありません。

「大事なのは、学歴ではない。仕事に不可欠な『能力』をもっていること、そしてそれを磨き続けることだぞ」と誇らしげに(往々にして本人は高い学歴ももっていたりするので悩ましいですが)。

 学歴に関するあらゆる言説が「正しいのか?デマなのか?」という問いに盲進する前に、この言説が意図するものと、その背景から垣間見える、人びとにとっての「正義」とは何かを考えてみましょう。慎重に精査したいのですが、私はずばり、この議論がいわゆる「コンピテンシー」と呼ばれる能力研究の系譜だと考えています。

 拙著『「能力」の生きづらさをほぐす』で述べ、人材開発業界に激震が走ったとか走っていないとか聞くのですが、能力研究(その代理指標としての学歴論)は教育社会学の貢献が絶大です。

 アカデミアのみならず、能力開発業界が労働社会にもしかと配備されているからこそ、ここまで能力が信奉される土壌をつくっていると私は考えています。よって、包括的な学歴論を点検するのであれば、能力研究についても俯瞰しておく必要があるでしょう。しばしお付き合いいただければと思います。

学歴もIQも高いはずなのに

アイツはなぜ仕事ができない?

「学歴ではなく、成功者は成功者独特で共通した言動パターンがありまっせ(意訳)」

 そう組織心理学の観点から実証した人が、この広い世界にはいます。ハーバード大学で組織心理学の教鞭を執っていた、デビッド・マクレランドです。コンピテンシー理論の興りとその商業化の波について、拙著を引用しながらコンパクトに説明しましょう。

「(1970年代)当時のアメリカも、学歴偏重のきらいがある社会。学歴やIQテストによって仕事が決まっていた。でも、外交を担う国務省がちょうどこんな人事の問題に直面していたところだったんだ。

『学歴やIQテストでしっかり選抜しているはずなのに、開発途上国に送り込まれた我が国の外交官が短期間で帰国せざるをえない精神状態になったり、一方で、平然と大活躍したりする。同じ“能力”の指標で選んでいるはずなのに、どうしてこんなにも差がついてしまうのか?』

 つまり、学歴やIQで選抜しても、シビアな任務が全うできるかを正確には予測できない。これまで測られていなかった別の『能力』が、実は仕事の出来・不出来を左右しているんじゃないか、と思われはじめていた」

――学歴や知力への懐疑が、仕事力を予見する「コンピテンシー」の機運を高めたというのです。名門校出身の高学歴な外交官を選りすぐったのに、さまざまな国際地域の任務に当たらせると、脱落者が続出したと言うんですから。「ガリ勉」と一口に言っても「激務をやり遂げるガリ勉と、そうでないガリ勉とがいるぞ」というわけです。

成功者にはある特定の

言動パターンがあった?

 そこで国務省は、マクレランドとタッグを組んで、任務遂行を分かつ「能力」のあぶり出しに取りかかります。そして見出された成功者の言動パターンを「コンピテンシー」と呼んだのです。

 学歴の高さで仕事のパフォーマンスを予見しようとしても外れるよ~。これからはその職務遂行に欠かせない「コンピテンシー」なる「能力」をその人がちゃんともってるか?これを測らないとダメだよ~と。ずいぶんと小気味よく感じられます。

 その後、コンピテンシー理論の広がりはすさまじい勢いでした。私の古巣でもあるヘイグループは企業内に行動心理学の研究所であるマクレランドセンターをつくり、コンピテンシーの見極めテスト(アセスメントと呼ぶ)の開発や、求められる職務遂行力を向上させるための教育プログラム開発など、企業コンサルティングの傍ら、知見を溜めに溜めたのでした。

 お気づきのとおり、コンピテンシーが仕事のパフォーマンスを高精度に本当に予見できるのだとしたら、学歴云々という話はもっと下火になっていてもいいはず……というのがミソです。

 しかし現在において、たとえば日本の就活と呼ばれる主に大卒一括採用の就職戦線において、コンピテンシーよりも、圧倒的に学歴フィルターのほうが話題になります。どういうことなんでしょう。

それでも日本企業は

学歴にこだわり続けてしまう

 学歴論争とはご存じのとおり、諸説あるわけですが、その玉石混交、有象無象の議論に共通している点をあえて抽出するならば、「成功の予見」という究極の人間の願望をかけた“聖戦”だと言えます。

 聖戦とはただの争いではありません。各々が信じて疑わない「正義」をかけた戦いなのです。人びとは自分なりの哲学を披露してみたり、社会的にうまくいっている人はその立場から、要・不要論を展開しているようです。

 人生は有限ですし、その限られた生を全うするためのリソースも有限です。回り道も大変結構なことですが、愉しんで生きるには、予測不可能性に耐え、人生の出来事に良し悪しを拙速につけることなく……という相当に達観した姿勢が求められることでしょう。

 ネガティブケイパビリティ(編集部注/不確実性や未知なるものを許容する能力のこと)どころの騒ぎではない仙人の境地……十中八九の人は、少しでもうまく立ち回ることのほうを志向するものです。学歴を取り巻く諸説が、いまだに廃れずそれなりに人びとの語り草になっているのは、よりよく生きるための探究の話であり、かついずれの論点(争点)もいまだ答え(ハック術)が出ない話題だからだと推察します。

JAXAの宇宙飛行士募集要項

「学歴不問」に一瞬の夢を見た

 ちなみにこの両面性というか、多面性のある議論というのは、議論を終わらせないための魔法にもなります。わかりやすくどちらか一方の論に軍配が上がるようでは、こんなに長年の論争になっていないはずです。

 意見が割れている状況だからこそ、学歴社会論争は続くよどこまでも。

 そういえば、JAXAが2021年に宇宙飛行士募集要項の内容を改訂し、学歴不問となった年の採用結果が物議を醸したことがありました。

同書より転載

「JAXAをめざして入れなかった恨みでもあるんでしょうか?」というくらい、JAXAひどい!との意見や、当たり前だろ、などの意見も散見されました。が、お気づきのとおり学歴不問とは、機会の平等の話です。「学歴というシグナルだけを受け取って判断しませんよ」という声明です。

 ただし、宇宙飛行士に求められる職務要件はかなり明確なほうでしょうから、知力その他の緻密な選抜の結果、「結果的に」学力試験の偏差値どおりに並んでしまったとしても何ら不思議ではありません。

 世の学歴批判は少なからず「不平等」という言葉に向けられるものですが、その中身がはたして機会に対してなのか、結果に対してなのかを考えさせる事例の1つと言えましょう。

『学歴社会は誰のため』 (勅使川原真衣、PHP研究所)