「550万人雇用」を救う“非BEV”の勝算――トヨタが仕掛ける「水素エンジン」という内燃機関戦略

水素エンジンの挑戦

 電動化が正解とされる時代に、トヨタは水素エンジンにもこだわる。その狙いは単なる技術開発ではない。既存の内燃機関技術や雇用を生かしつつ、カーボンニュートラルと走る楽しさの両立を目指す道を切り拓こうとしているのだ。

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 水素エンジンはモータースポーツという実戦の場で磨かれ、過去の名車や商用車にも応用が広がる。こうした挑戦は、クルマ文化と産業の未来を大きく変える可能性を秘めている。

「マルチパスウェイ」という戦略

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マルチパスウェイ戦略のイメージ(画像:トヨタ自動車)

 自動車産業は今、電動化が急速に進み、各国は2030年代以降の内燃機関新車販売禁止を打ち出している。しかし、資源制約や充電インフラ整備の遅れなど、バッテリー電気自動車(BEV)一辺倒では解決できない課題も浮かび上がる。

 こうした状況で、トヨタは水素エネルギーに改めて光を当て、カーボンニュートラルと走る喜びを両立する新たな道を模索している。その象徴が、水素を直接燃焼させる水素エンジンである。

 トヨタはカーボンニュートラル社会の実現に向け、ひとつの道に頼らない独自戦略を掲げる。それが

「マルチパスウェイ(Multiple Pathways)」

という考え方だ。BEVだけを唯一の答えとせず、

・燃料電池車(FCV)

・ハイブリッド車(HV)

・プラグインハイブリッド車(PHV)

さらには水素エンジン車など、複数のパワートレーン技術を並行させる。地域のエネルギー事情やユーザーのニーズ、インフラ整備の進展度など、市場ごとに異なる条件に最適なソリューションを提供する狙いである。

水素エンジンの可能性

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トヨタ MIRAI(画像:トヨタ自動車)

 なかでもとりわけ注目されているのが水素の活用である。

 水素の使い方には大きく分けてふたつの方法がある。ひとつは燃料電池(Fuel Cell:FC)で電気を生み出し、モーターで走るFCVである。もうひとつは従来のガソリンエンジンのように水素を直接燃焼させて走る水素内燃機関、いわゆる水素エンジンだ。

 FCVは、水素と酸素を化学反応させて電気を作り、その電力でモーターを駆動する。走行中の排出物は水だけで環境性能が高い。エネルギー変換効率も高く、航続距離も長くとれることから、次世代パワートレーンの本命と見なされてきた。

 一方、水素エンジンには内燃機関ならではの魅力と、燃料電池とは異なる利点が数多く存在する。トヨタはそこに大きな可能性を見出しているのだ。

内燃技術の再活用

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水素エンジン(画像:トヨタ自動車)

 水素エンジンの最大の魅力は、現在の自動車産業が積み上げてきた膨大な資産を活かせる点にある。エンジンの仕組み自体は、燃料をガソリンから水素に置き換えるだけで基本構造は変わらない。そのため、既存の内燃機関技術や製造設備、人材、サプライチェーンを大きく変えずに、カーボンニュートラル時代への移行が可能である。

 日本国内だけでも自動車産業は約550万人の雇用を支えており、その中核には内燃機関に関わる人材や企業群が存在する。一気にBEVに舵を切れば、これらの経験やノウハウ、設備は不要となり、産業構造そのものが大きく揺らぐ恐れがある。

 さらに、水素エンジンには感性面での大きな魅力がある。内燃機関ならではの回転フィールやサウンド、操る喜びをそのまま残せるのだ。環境負荷を抑えつつ、ドライバーが五感で楽しめる走りを維持できる。トヨタが「カーボンニュートラルと走る楽しさは両立できる」と強調する背景には、この「新しい内燃機関」への期待がある。

 また、FCVやBEVは大容量バッテリーや燃料電池スタックの製造にリチウム、ニッケル、プラチナなどの希少金属を必要とする。これら資源は供給制約や価格変動の影響を受けやすく、資源獲得競争が激化すればコスト上昇や紛争リスクも避けられない。

 水素エンジンは希少金属への依存度が極めて低い。エンジンの基本構造はガソリン車とほぼ同じで、生産コストを抑えやすく、既存の製造ラインを活用できる。これは自動車メーカーだけでなく、部品サプライヤーや地域経済にとっても大きな利点となる。

レースで磨く新技術

 トヨタは水素エンジンを研究室ではなく、実戦の場で育てている。量産を見据え、耐久性と信頼性を確保しつつ、短期間で技術を進化させる舞台として選んだのがモータースポーツだ。

 2021年、トヨタは市販車「カローラスポーツ」に水素エンジンを搭載したレーシングカーで、国内耐久レース「スーパー耐久シリーズ(S耐)」に初参戦した。2025年現在も参戦を継続している。技術は年々進化し、トヨタがレースを「走る実験室」として活用している好例といえる。

 参戦当初、水素補給は他チームから遠く離れた特設ステーションで、厳重な安全管理のもと行われていた。しかしわずか数年で、給油と同じくピットレーンでの「給水素」が可能になった。最初は気体の水素を充填していたが、途中から世界初の液体水素への切り替えに成功し、補給時間は当初の6分から1分程度に短縮された。航続距離も伸び、1回の補給で200kmの全開走行が可能となった。水素ポンプも当初はレース中に2回交換が必要だったが、現在は無交換で24時間走り切れるよう進化している。

 S耐という現場で得られる知見は膨大だ。水素の燃焼制御、供給系の耐久性、充填インフラ整備のノウハウなど、実戦を通じてトヨタは日々改良を重ねている。市販車への応用可能性は、さらに現実味を帯びてきた。

WECで磨く耐久力

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GR LH2 Racing concept(画像:トヨタ自動車)

 トヨタはさらに、世界最高峰の耐久レース「WEC」への水素技術展開を視野に入れている。2028年以降、WECでは水素を燃料とするレーシングカーの参戦が可能になる見通しで、トヨタは水素内燃機関と燃料電池の双方の可能性を見据えて開発を進めている。

 世界の舞台で競争することは、単に技術力を示すだけではない。極限条件での耐久性や安全性を検証し、その成果を量産車へフィードバックする絶好の機会でもある。

 WECのほか、世界トップクラスのラリー競技であるWRC(世界ラリー選手権)向けの水素エンジンコンセプト車も発表している。トヨタは「モータースポーツは技術開発の実験場」という理念のもと、水素技術の実用化に向け挑戦を続けている。

水素で甦る名車

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水素エンジン搭載のAE86型スプリンター・トレノ(画像:東京オートサロン)

 水素エンジンの可能性は新車開発にとどまらない。2023年の東京オートサロンでは、トヨタが1980年代の名車「AE86 スプリンタートレノ」を水素エンジン仕様に改造して出展し、大きな話題を呼んだ。

 これは単なるショーモデルではない。過去の名車にもカーボンニュートラルの未来を与えられることを示す象徴的なプロジェクトである。長年愛されてきた車両をゼロエミッション化しながら、走りの楽しさを維持する。水素エンジンは、こうした未来の可能性を切り拓きつつある。

多様化する脱炭素戦略

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水素ハイブリッドエンジン搭載の「ハイエース」(オーストラリア向け)(画像:トヨタ自動車)

 トヨタは商用車の水素化にも取り組んでいる。現在、オーストラリアの公道で実用化に向けた実証実験が行われており、現地トヨタ役員によれば、水素エンジンはディーゼルエンジンを置き換える存在として期待されている。

 トヨタが水素エンジン開発を本気で進める理由は明快である。カーボンニュートラルという大きな目標に向け、多様な道を用意することにある。水素エンジンは、既存の強みを生かしながら、未来の選択肢を増やせる技術だ。

 もちろん、水素には課題もある。製造時のCO2排出、貯蔵・輸送のインフラコスト、現時点でのエネルギー効率の低さは今後解決すべき問題である。しかし、トヨタは水素エンジンをBEVの対立軸とは見なしていない。むしろ、BEVやFCVと並走させることで、カーボンニュートラルへの道筋は確かなものになる。

 S耐やWECといったモータースポーツで磨かれ、AE86のような名車の再生や商用車への応用にもつながる水素エンジン技術。その先には、クルマ文化と産業を次の時代につなぐ、多様性に富んだ未来が広がっている。