「おまえらだけは、やっていい」ヘッドスライディングを禁じた落合監督、実は2人の選手に許可していた。荒木雅博さんと、もう1人… プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(53)

2017年8月のDeNA戦で、ヘッドスライディングで生還する荒木雅博さん=ナゴヤドーム
プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらった連続インタビューの蔵出し企画「名球会よもやま話」。第53回は2度目のご登場の荒木雅博さんです。定位置をつかむまでの心境や、二遊間コンビを組んだ井端弘和さんとの思い出、中日コーチ時代の指導理念などを柔和な表情で語られました。(共同通信=栗林英一郎)

1995年12月、中日の新入団発表に望んだ荒木雅博さん(右)。左は星野仙一監督(当時)=名古屋市中区
▽「外れ外れ1位」から成り上がるための方策とは
【荒木さんは2千安打達成の要因に体の強さを挙げていた】
そもそもは田舎(熊本県菊陽町)で育って、おやつもお菓子とかじゃなく、手作りの自然のものだったりとか、そういう小さい頃からの食生活は(体づくりに)だいぶ関わってます。誰かが言っていたのは、一番のプロテインは季節のものを食べること。春には春の、夏には夏の食べ物を食べなさい。それだけで十分だって。昔のおじいさんとかおばあさんが農作業をする時に重たいものを持ってるのを見て、この人たちはプロテインを飲んでたんだろうかと。飲んでませんもんね。
16~18歳の3年間は毎日、高校までの往復30キロぐらいを自転車だった。バスや電車に乗って行けないことはなかった。あえて自転車を選んだりとか、自分の体が強くなる方をしっかり選んでこられたのかなっていう感じはします。めちゃくちゃウエートトレーニングしましたとか、そういうことはやってない。走ったりとかは好きだったんで、走ることや道具を使わなくてできるようなことを毎日やってたかな。
中日では、もともとレギュラーが取れるとも思ってなかった。試合に出られるようになるために、じゃあ走ることだけやろうという感覚でしたね。1軍にいられることだけで良かったので、全体を伸ばしてっていうよりは、1カ所(走塁)だけ伸ばした。試合で、どっかのピースに当てはまればいいやって。結果的にチームの足りないところの穴に入っていき、その形(ミート力、長打力、守備力、走力、送球力を表すグラフの形)がどんどん五角形に近くなっていったってことですよね。バッティングや守備、入り口ってたくさんあるんだよって若い子に教えないと。打たないとプロ野球界で活躍できないって、みんな思ってるので。いや、違う違う。1軍の舞台にいさえすれば、何かの形でチャンスは回ってくるから、まず得意なところを伸ばしていけばいいんじゃないのって。ドラフト上位で入ってきて期待されている人間は、最初から場所を用意していただけますからね。僕は上位とはいえ、外れ外れですから(1995年のドラフト会議で、福留孝介と原俊介を抽選で外した中日が荒木さんを1位指名)。そういう目で見られていなかったので、生き残るためにどうしたらいいんだろうと、自分で工夫していったということです。

2009年2月のキャンプでノックを受ける荒木雅博さん=北谷
▽ヘッドスライディングをするなと言った落合監督も最後に折れた
こいつは守備を外せないとなってくれば、ずっと出られるわけですから。守備のいい選手になってくれたらレギュラーに近いかなって思いますよね。まだまだ打つことだけでレギュラーを取ろうとしている選手が多い。アウトのなり方は得意ですって選手でもいい。相手に1個アウトをあげますけど、ランナーを進めることは絶対できますと。打率2割6分を打つにしても、残りの7割4分で、どうアウトになるかを考えるのもありです。
【2004年に落合博満さんが監督に就任後、荒木さんは安打数が増えた】
まあ、打てないときもずっと使い続けてくれたっていうことですかね。(落合監督は)まあまあ我慢強い人だったんだなと思いますね。自分のプロ野球人生は春先の調子が毎年悪いんです。何とかいいスタートをしたいから、丁寧にやっていきたい。こうやって構えて、こうやって打ってと考えて、4月いっぱいで打率2割前後。もう駄目だってなってから打ち始める。
頭の中で野球をやり過ぎてたんですね。こうやって打たなければと考え過ぎて、ほんのちょっとタイミングがずれるんでしょうね。頭じゃなくて体を使って野球ができましたっていうぐらいから乗っていけるのかな。頭で考えて結果を出せる世界だったら、もっと簡単なんでしょうけど。考えなくてもいいようにキャンプからバットを振り込んで、ノックを受け込んで、自分の体に染み付かせて無意識になるように練習してたんだっていうことです。
落合監督はヘッドスライディングはするなっていう人だった。やらない方がいいよって言われても、出ちゃうもんはしょうがないですもんね。最後の最後は「もう、おまえと英智(蔵本英智さん)はいい」って“やっていい指令”が出た。あれじゃないとセーフになれないのが、たくさんあったんで。

2011年10月、ベンチに戻って落合博満監督(左、当時)に迎えられる荒木雅博さん=ナゴヤドーム
【11年9月23日のヤクルトとの首位攻防戦で、中日は八回に井端さんが勝ち越し打。二塁走者の荒木さんが見せた本塁へのヘッドスライディングは語り草となっている】
サインを見ていれば、大体どういう球をピッチャーが投げるか分かってて、井端さんがこういう打ち方をするかなってところまで頭に入れてるんです。だから、思った通りの打ち方だった。スタートは自分の中ではちょっと遅かったんです。(本塁に)よくかえられたなっていう場面でしたね。(ヘッドスライディングは)もうOKって言われてますから、こっちも。手でいくと(ホームベースの)どこにでも入れられるんですよ。タッチの避けようがなんぼでもあるから。でも、やめた方がいいです。だいぶ肩をやりました。やっぱりやりました。(負傷は)しんどかったっす。だけど、セーフになりたいですもんね、その一瞬は。

2011年11月、本塁打を放った井端弘和さん(右)を祝福する荒木雅博さん=ナゴヤドーム
▽同じことの繰り返しは守備以外にも役に立っていく
井端さんは人と違う感覚を持っている。試合中でも、そういう感覚で守備位置を変える。野球の勉強をさせてくれましたね。あの人が守っている位置には理由が全部ありました。こっちも考えさせられるし、面白かったです、あの人の観察力は。スコアラーは毎回、カードの頭に各打者の打球傾向を出してくれる。だけど、この場面は違うよね、このバッターは性格的にこっちだよねっていうときもある。そういうところを現場の二遊間が感じ取って守れると強い。それを井端さんが担ってました。
(打順でも1、2番コンビを組み)エンドランに関してはサインはありました。ただ、僕は行けたら行っていいよっていう(盗塁の)サイン「グリーンライト」があったんで、井端さんがちょっと打ってくれたり、スタートが遅れた時にファウルしてくれたりとか、そういうことをやってくれてました。(結果的なランエンドヒットは)結構多いです。一、三塁をつくるのは得意な2人でしたね。あれはね、僕は何も仕事がない。走ってるだけですよ。その後に打つ人がいて、私が恩恵を賜りました。1、2年じゃ、そんなコンビはできないでしょう。長いこと組んだおかげで、どういう打ち方をするんだろうなって何となくイメージで持っておくと、スタートもしやすい。

インタビューに答える荒木雅博さん=2024年3月撮影、名古屋市内
【荒木さんは引退後に中日守備コーチを19年は2軍で、20年から23年までは1軍で務めた】
選手ができないことに対してイライラしないって決めてコーチになった。そもそも、できないからコーチが指導して、それを毎回毎回繰り返して、ようやくものになっていく。何でできないんだって言ってしまったらコーチの意味がないです。そういう点では5年間、我慢強く、辛抱強くできたのかなと思います。怒ることも、もちろんあります。僕はどっちかというと褒めることが多い。どっちにしろ本気で付き合ってあげると、言ってることに対して反応してくれる。この人は自分のために怒ってるんだっていう感覚になってくれた選手が多かったと思いますね。自分で思ってるだけかもしれませんけど。
正面のゴロをしっかり捕ってアウトにできるようにするまでやってしまえば、後は好きなように自分の形をつくってよっていうのが僕のコーチングスタイルだった。バッティングと違って、守備なんて土台を固めておけば、後はどういうふうにでもなっていける。基本的なことしかやってなかったです。手で転がしたりバウンドをつけてあげたりして、本当に小中学生がやるようなことを、ずっとやらせていたんです。結構時間はかけたイメージはあります。選手たちもきつかったかなと思いますけど、同じことを繰り返していくことが、将来的に役に立っていくので。守備だけじゃなくて他にも生きてくるだろうって。
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荒木 雅博(あらき・まさひろ)熊本工高からドラフト1位で1996年に中日入団。堅守と俊足で2001年からレギュラーに定着。04年から6年連続で二塁手のゴールデングラブ賞。07年は盗塁王でチームの日本一にも貢献した。08年北京五輪出場。名球会入り条件の通算2千安打は17年6月に到達し、18年に現役引退。19年から23年まで中日コーチを務めた。77年9月13日生まれの48歳。熊本県出身。