「EV一本足打法」の断末魔――2035年エンジン車禁止「撤回」、なぜ欧州は白旗を上げたのか?

EU気候政策の現実

 2021年に掲げられた「2035年エンジン車販売禁止」という野心的な目標は世界を震撼させた。だが、わずか数年でその梯子ははずされた。2025年12月16日、 欧州連合(EU)の行政執行機関である欧州委員会が発表した「35年以降のエンジン車容認」という事実上の撤回案。これは、理想に燃えた欧州が現実の前に折れた歴史的転換点といえる。中国製EVの猛追と、自国メーカーの悲鳴、そしてエネルギー安保の崩壊。本短期連載では、この「EVシフト狂騒曲」を地政学、産業競争力、消費者心理の三つの視点から総括する。欧州の戦略的敗北と、あらためて評価されるトヨタのマルチパスウェイ戦略。インフラの壁や政治的妥協の先に、自動車産業が辿り着く脱炭素の新たな均衡点を探る。理想から現実への回帰を通じ、次なる競争の行方を占う。

【画像】「えぇぇぇ!」 これが今回の「補助金」です!(6枚)

※ ※ ※

 2021年、EUは「Fit for 55」を掲げ、世界に衝撃を与えた。しかし、理想はわずか4年で揺らぎ始めた。

「Fit for 55」は2030年までに温室効果ガス排出量を1990年比で少なくとも55%削減する政策パッケージである。ただし、これを単なる環境規制や数値目標と見るのは正確ではない。背後にはEUの成長戦略である「欧州グリーン・ディール」がある。

 EUはコロナ禍後の経済復興に向け、デジタルとグリーン分野に注力する方針を示している。環境政策と経済成長戦略は一体であることを理解する必要がある。

補助金依存のBEV限界

EU気候政策の現実, 補助金依存のBEV限界, 中国製EVの脅威, エネルギーコスト増によるメリット消失」

自動車(画像:Pexels)

「Fit for 55」はエネルギー効率化や代替燃料、再生可能エネルギーなど幅広い分野を対象としている。車両に関しては、2023年2月に欧州議会で採択された乗用車・バンのCO2排出基準の新規則が該当する。

 この規則の狙いは2035年までに新車をゼロエミッション化することだ。ゼロエミッション車であれば、エンジン車でも電動車でも認められる。しかし現実には、2023年時点で幅広く普及できるのはバッテリー式電気自動車(BEV)のみであり、実質的に「2035年エンジン車禁止」となっていた。補助金の追い風もあり、EUではBEVの販売台数が伸びていく。ここで、EU全体の動力別の販売台数の推移をみてみよう。

・2022年:112万3444台

・2023年:153万8106台

・2024年:144万7934台

BEVの販売は増え続けていると思われがちだが、実際にはそうではない。2022年から2023年にかけてはEU全体で+37.0%と大きく伸びたが、2024年には成長が鈍化した。特に減速が目立ったのはドイツである。ドイツにおけるBEVの販売台数を時系列で確認する必要がある(欧州自動車工業会のデータより)。

・2022年:40万7559台

・2023年:52万4219台

・2024年:38万609台

2024年のBEV販売は対前年で-27.4%と大幅に落ち込んだ。この要因は、2023年末で予定されていた補助金が打ち切られたことにある。スウェーデンも同様で、補助金を2022年末で終了した後、2023年はプラス成長を維持したが、2024年は-15.9%に落ち込んだ。

 BEVはハイブリッド車やガソリン車と比べて価格が高く、広く普及させるには補助金が不可欠である。ドイツは2025年に販売が持ち直す見通しだが、2026年には新たな補助金が予定されている。BEVの普及は、補助金に依存している構造だといえる。

中国製EVの脅威

EU気候政策の現実, 補助金依存のBEV限界, 中国製EVの脅威, エネルギーコスト増によるメリット消失」

フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長(画像:EU)

「Fit for 55」はグリーン分野でのEUの成長戦略でもある。しかし、実際にEUの成長に寄与したのかは疑問である。

 2023年9月、フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長は、中国製EVが巨額補助金によって安く製造され、市場を歪めていると名指しで批判した。EU各国のBEV補助金によって中国が利益を得ているとの批判も根強い。BEV普及には常に中国の影がつきまとっている。次に、ドイツでのBEV登録台数トップ5メーカーの推移を確認する(ドイツ連邦自動車庁データより)。

●2022年

・TESLA:69963台

・VW:63206台

・HYUNDAI:32877台

・FIAT:29911台

・OPEL:29297台

●2023年

・VW:70628台

・TESLA:63685台

・BMW:40420台

・MERCEDES:36703台

・AUDI:30596台

●2024年

・VW:62108台

・BMW:42066台

・TESLA:37574台

・MERCEDES:33991台

・SKODA:25308台

中国メーカーのEVは目立った存在ではない。世界的BEVメーカーの比亜迪(BYD)でさえ、2024年の実績は2781台にすぎない。しかし、

「中国製EVが市場を歪めている」

という批判は間違いではない。欧米メーカーが中国で安く製造し、欧州で販売しているからだ。テスラは2022年3月、ドイツ・ベルリン郊外のグリュンハイデにギガファクトリーを稼働させたが、モデルYのみで年間最大50万台にとどまる。

 今後、価格を武器に中国メーカーがシェアを拡大する可能性もある。専門家のなかには、

「最大20%まで伸びる」

と試算する者もいる。近年、EU域内でのBEV生産は増え、当初描かれた成長戦略に近づきつつある。しかし、完成車だけでなく部品調達でも課題は残る。ノースボルトの破綻やポルシェのバッテリー製造子会社撤退は、中国製バッテリーとの競争での敗北を示している。オランダの半導体企業ネクスペリアも、中国系企業傘下として半導体危機に直面した。

 BEVの普及には完成車から部品まで中国の影がつきまとう。EUは普及と域内成長戦略をいかに結びつけるかが引き続き課題である。

エネルギーコスト増によるメリット消失」

EU気候政策の現実, 補助金依存のBEV限界, 中国製EVの脅威, エネルギーコスト増によるメリット消失」

EU旗(画像:Pexels)

 エネルギーコストの上昇はBEVにとって逆風となる。2025年のEU平均電気料金は28.72セント/kWhで、最も高いドイツは38.35セント/kWhとなった。ドイツは2024年に再生可能エネルギー比率が約40%に達したが、なお20%近くを天然ガスに依存している。そのため、2022年2月のウクライナ情勢をきっかけに天然ガス価格が上昇し、電気料金は2022年以前より高い水準にある。エネルギーコストの増加はBEVのメリットを削ぐ要因となる。

 BEVにとって再生可能エネルギーによる発電は必須であり、天然ガス発電からの脱却はエネルギーコスト安定化の観点でも急務である。EU統計局によると、2024年のEU総発電量に占める再エネ比率は46.9%だった。「Fit for 55」の政策効果が表れているが、国による差は大きい。デンマークは88.4%、チェコは15.9%にとどまる。

 それでは、再生可能エネルギー比率が高まるとエネルギーコストが下がるのだろうか。実際にはそうではない。デンマークは風力発電が約50%を占め、再エネ比率はEUで最も高い88.4%に達する。しかし、電気料金は34.85セント/kWhでEU3番目の高さだ。再生可能エネルギーにはコストがかかるのである。

 さらに銅価格も高騰している。2020年の年間平均70万200円/tに対し、2024年は143万5800円/トンと倍増した。風力発電の採算割れを引き起こし、BEVの生産コストにも影響する。銅価格高騰の背景には、グローバル・サウスの経済成長や、BEVや風力発電による銅需要の増加がある。

「Fit for 55」が進むほど、銅価格はさらに上昇し、エネルギーコスト増という悪循環が続く。車両価格と電気料金の上昇は、今後のBEV普及の足かせとなる可能性が高い。

 EUの「Fit for 55」は壮大な社会実験である。政策を進める過程で、当初描いた未来とのズレが生じるのは自然な流れだ。EUは補助金依存、中国の影響、エネルギーコスト上昇という現実と理想のギャップをどのように解消していくのか。次回は、産業界の視点から「2035年エンジン車販売禁止」に異を唱えたドイツの動向を取り上げる。