ロレックスとオメガの決定的な違い

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「成功者の時計」と言われて真っ先に思いつくのがロレックスだろう。高性能クォーツ時計のセイコーや、ロレックスよりハイエンドなパテック・フィリップなどを差し置いて、時計の王様として君臨しているのはなぜか?そこには、1950年代から緻密に積み上げられたマーケティングと、驚きの販売戦略があったのだ。※本稿は、大阪大学大学院経済学研究科教授のピエール=イヴ・ドンゼ『ロレックスの経営史-「ものづくり」から「ゆめづくり」へ』(大阪大学出版会)の一部を抜粋・編集したものです。
クォーツ時計の登場で
スイスの時計会社は苦境に陥った
1977年、スイスの時計産業が深刻な危機に陥っていた頃、ロレックス時計はニューヨークの中心部にあるビルを1500万ドルで購入した。
このエピソードは、当時のロレックスと競合他社との間に存在したギャップを端的に示している。オメガを所有するSSIHは、安価なロスコフ・ウォッチの大量生産に対して巨額の投資を行ったが、クォーツの出現で売上が激減した。
一方、ロンジンは1950年代から慢性的な投資力不足に悩まされていた。同社の株主は経営権を保持することを望んでいたが、もはや単独で会社を発展させる手段を持たない同族企業であった。資金不足によって生産能力の向上とセカンドブランドの立ち上げに苦戦し、その結果、ロンジンは1971年にASUAGに買収された。
最終的に、オメガとロンジンは、優れた精度を持つ時計を開発できるクォーツへの技術的移行を選択したが、日本の競合会社である服部時計店とは異なり、製品の大量生産には大きな困難を抱えていた。
この危機的状況を受けて1983年にSSIHとASUAGが合併し、スイス・マイクロエレクトロニクス・時計株式会社(Societe Suisse de Microelectronique et d’Horlogerie SA,SMH、1998年以降はスウォッチ・グループ、Swatch Group)が設立された。
同時に、スイスの時計会社の多くが消滅し(1970年には1618社、1985年には634社)、時計産業の雇用は1970年の約9万人から1985年には約3万3000人に減少した。
伸び悩むオメガを尻目に
業績を伸ばしたロレックス
競合他社が危機からの脱出を模索するなか、ロレックスは世界有数の時計ブランドとしての地位を確立した。その優位性が目に見える形で現れたのは販売においてであった。
ロレックスは財務データを一切公表していないため、この分析は新聞で引用された推定値や銀行アナリストの作成した数字、あるいは貴重なアーカイブ文書に記載された数字に頼らざるを得ない。これらの大半は非常に大雑把な推計値であるが、長期的なトレンドを把握することはできる。この数字を見ると、危機の時代にロレックスが力強く成長し、ライバルのオメガを凌駕したことが浮き彫りになる。

同書より転載
入手できた数字によると、ロレックスは1960年と1970年にはすでにオメガを上回っていた。
しかし、その数字にはセカンドブランドのチューダーが含まれているのに対し、オメガの売上高にはティソなど他のSSIHブランドは含まれていないことに留意する必要がある。この時期のクロノメーター(編集部注/スイス公式クロノメーター検定協会の厳しい精度基準をクリアし、認定を受けた高精度の機械式時計)登録数の統計が示唆するように、2つのブランドが極めて接近していたことは間違いない。
ロレックスがオメガを大きく上回ったのは1970年代以降、とりわけ1980~1987年である。1987年、ロレックスの売上高は主要な競争相手のほぼ2倍となっていた。
大量生産で利潤を追求したセイコーと
マーケティングを重視したロレックス
ロレックスの成長ぶりは、この時期のセイコーの販売動向とも比較されるべきである。
セイコーはクォーツ・ショックの中心的存在であり、1980年代初頭には世界の時計産業の新たなリーダーとして頭角を現した。ロレックスと適切に比較するためには、セイコーのハイエンド製品だけに焦点を当てるべきであるが、セイコーの最高級時計として1960年に立ち上げられたグランドセイコーのサブブランドは、1968年に廃止され、国内市場では1988年に再スタートしたばかりである(世界市場では2010年)。したがって、服部セイコー株式会社の全生産量をロレックスと比較することになる。

同書より転載
腕時計の販売本数という点では、セイコーはまさに産業界の巨人であり、1960年に370万本だった生産量は、1987年には6640万本にまで増加している。
一方、ロレックスの生産量は、1987年には50万本弱と推定される。時計部門の売上高を円換算すると、セイコーは1960年の172億円から1984年の3118億円をピークに減少に転じた(1987年は2167億円)。スイスフランに換算すると、1987年のセイコーの時計部門売上高は約22億フラン、これはロレックスの2倍強であったが、数量は130倍以上であった。
セイコーとロレックスは、少数の高精度時計モデルの大量生産という産業組織構造こそ似ているが、ビジネスモデルは正反対であった。ロレックスはマーケティング戦略によって高い付加価値を目指したのに対し、セイコーは数量に重点を置いた。したがって、この時期、セイコーはロレックスのライバルとはみなされなかった。
時計の品質を宣伝するより
特別感の演出に心血を注いだ
1960年から1990年にかけてのロレックスの飛躍的成長において、新製品開発と技術革新が果たした役割は限定的なものに過ぎなかったものの、マーケティング戦略が功を奏して世界をリードする時計ブランドとしての地位を確立することができた。
ロレックスは確かに戦間期から高精度防水自動巻時計の大量生産に集中し、市場でのポジショニングという点で独自の戦略を持っていた。
しかし、今や有名なオイスター・モデルも、当時は腕時計の一種に過ぎなかった。1950年代の終わりまで、ロレックスは市場における競合他社との差別化を図っておらず、そのコミュニケーション戦略は製品の本質的な技術的特徴に無点を当てていた。
ロレックスは何よりもまず、ロンジン、オメガ、ゼニス、またセイコーのような高品質の時計であるということを顧客にアピールした。これらの時計メーカーのコミュニケーション戦略はすべて、モノづくりのパラダイムに基づいていた。製品の卓越性がその企業の中心的なメッセージだったのである。

『ロレックスの経営史-「ものづくり」から「ゆめづくり」へ』 (ピエール=イヴ・ドンゼ、大阪大学出版会)
一部の広告では、ロレックスを不滅の製品として、また防水時計を生み出したブランドとしてフィーチャーし続けたが、それまでコミュニケーションの大部分を占めていたこのような語り口は減っていった。
また、ロレックスは1950年代末にクロノメーター・コンクールへの挑戦を放棄した。一等賞や記録の獲得はもはや重視されなくなり、ロレックスのコミュニケーションから姿を消した。
こうして1960年代、ブランドのナラティブに根本的な転換期が訪れ、ロレックスはもはや単なる特別な時計ではなく、特別な人のための時計となった。
ロレックスは、社会的な差別化をマーケティング戦略の中心に据えた最初の時計ブランドであった。ロレックスは自己成功の体現者である、これがコミュニケーションの新たな焦点となった。