【プレイバック’15】2年で約140→15店舗に…『東京チカラめし』ブレイクが一瞬で終わった理由

池袋西口にあった1号店。「米がまずい」というイメージを払拭するためか、「ご飯が美味しくなりました」というのぼりが(’15年6月5日号より)
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたびふり返る【プレイバック・フライデー】。今回は10年前の’15年6月5日号掲載の『東京チカラめし2年で140→15店舗に激減「何がダメだった」』を紹介する。
東日本大震災から間もない‘11年6月に東京・池袋に1号店を出店、「東京から日本にチカラを」との願いをこめて命名された牛丼チェーン『東京チカラめし』。看板メニューの焼き牛丼は大人気となり、店舗数も急増したのだが……。その失速の理由に迫った記事だ(《》内の記述は過去記事より引用。年齢・肩書はすべて当時のもの)。
開店当時のにぎわいはどこへ…
その大失速ぶりについて、当時の本誌では次のように報じていた。
《「1000店舗を目指します!」
‘11年6月、吉野家、松屋、すき家に続く”第4極”にならんと、勇ましく牛丼界に殴り込みをかけた「東京チカラめし」。運営会社の三光マーケティングフーズ(以下、三光フーズ)の平林実社長(当時)は当初、こうブチ上げていたハズなのだが……。
あのときの勢いは見るカゲもない。わずか2年ほどで約140店舗と異様な早さで拡大したはずの同店が、いまや直営店12店舗、FC店3店舗という壊滅的な状況となっているのだ。
本誌記者も平日のランチ時に都内の店を訪れたが、一度も満席になることはなく、開店当時のにぎわいはなかった。東京チカラめしに何があったのか》
平林氏が一代で育て上げた三光フーズは『東方見聞録』『金の蔵Jr.』などの居酒屋チェーンで大成功をおさめてきたが、やがて居酒屋市場は頭打ちに。そこで「外食人生40年の集大成」として、平林氏自ら陣頭に立って立ち上げたのが『東京チカラめし』だった。
同店のウリは「焼き牛丼」。甘辛く濃い味のタレを絡ませた薄切りの牛肉を特製のロースターで焼いた牛丼だ。これまで大手3社が展開してきた「牛丼は煮たもの」という常識を覆した斬新な商品だった。さらに当初の価格は280円(並)という破格のものだった。焼き牛丼はたちまち大人気となった。
さらに三光フーズは過当競争にある牛丼市場を生き抜くために、大きな賭けに出た。特定区域に大量に出店するドミナント戦略で「牛丼といえば東京チカラめし」のイメージを顧客に刷り込もうとしたのだ。チェーンは急拡大し1号店開店からわずか1年3ヵ月後の’12年9月には100店舗目となる世田谷・梅ヶ丘店がオープンした。
しかし、徐々にほころびが出始めることに。一つは焼き牛丼の”焼き”があだとなった──。
急拡大のツケも表面化した
《「焼き牛丼は、普通の牛丼と違って作りおきができない。提供に時間がかかって客を待たせてしまう。焼くときに出る油煙で店舗も汚れやすい」(専門紙記者)
しかも、急拡大で店長は急ごしらえ。 店舗のマネジメントは難航した。
「席からキッチンが見えますが、丼からハミ出た肉を素手で戻しているのが見えたり、盛りつけが雑だったりと清潔感に欠けた」(フードアナリスト・重盛高雄氏)
‘12年7月からの1年間には、60店を新規開店するも、18店舗を閉店した。店舗数が100を超え、順風満帆に見えた同社だが、実は、こうしたチグハグな拡大をしていたのだ。
肝心の味にも難があった。
「当初、中国産のコメを使っていて、これがあまりにマズかった。店側も改善しようと、途中からコメを変えたのですが、 そのイメージがすっかり定着してしまった。肉そのものも、個人的な印象では脂っこかったし、焦げ臭くてなんとも……」 (安うまグルメ研究家、柳生九兵衛氏)》
さらに大手の逆襲が始まった。吉野家が「牛焼肉丼」、松屋が「カルビ焼牛めし」と競合商品を続々と発売し出したのだった。三光フーズは厳しい状況に陥った。「煮る牛丼」を一部店舗で販売してみたこともあったようだ。‘13年7~12月には67店舗を閉店。そしてついに’14年6月には居酒屋に経営資源を集中する方針に転換した。当時の全店舗の8割にあたる68店舗をカラオケなどを運営するマックグループに売却することとなった。
《多くの店舗を受け継いだマック側は、「チカラめし」という企業を設立し、運営に乗り出したものの、このブランドの限界を見極めていたのだろう。 チカラめしとは会社の名前ばかりで、買った店舗を、ラーメン店「壱角家」などに転換。’15年5月までに同社運営の東京チカラめしは姿を消した》
残されたのは三光フーズが運営する15店舗だけだった。”国民食”牛丼市場で過酷な競争を勝ち抜くのは並大抵のことではなかったのだ。
’24年に10年ぶりとなる新店舗が都内に
『東京チカラめし』の店舗展開はあまりに早すぎた。’21年に社名が変わった現在の㈱SANKO MARKETING FOODS(以下、SANKO)の長沢成博社長は‘22年11月18日の毎日新聞で当時の様子を語っている。
「平均すると2週間に3店舗を出すぐらいの勢いでした。では、2週間に3人の店長をきちんと育てることができたのかというと、それは非常に困難でした」
‘15年5月の時点で15店だった店舗はさらに減り続けた。’23年10月には当時関東で唯一の店舗だった鎌ヶ谷店が閉店。大阪市の大阪日本橋店が国内では唯一の店舗となった。
その一方でコロナ禍の‘21年に海外でのライセンス事業として香港やバンコクなどに4店舗を開店させた。また、昨年5月には国内では10年ぶりの新店舗となる『東京チカラめし食堂』が東京・九段第二合同庁舎内にオープン。その名の通り同店は庁舎の「食堂」で、「焼き牛丼」以外のメニューも提供している。コロナ禍でSANKOは居酒屋事業を縮小して官公庁の食堂事業に注力している。その一環として『東京チカラめし』ブランドとコラボした食堂が誕生したようだ。
この食堂は一般も利用することができ、オープン初日と2日目には、開店前から30人ほどの人が往年の「焼き牛丼」を求めて行列したという。店は無くなってしまっても熱烈なファンは味を忘れていなかったのだ。

焼き牛丼(並)。当初は280円だったが’15年5月当時は原材料の高騰により430円(390円の店舗も)だった(’15年6月5日号)

当時記者が訪れた店は2人で切り盛りしていた。提供までには5分ほどかかり、牛丼店としては遅い印象だったという(’15年6月5日号)