「そのていどの戦績で…」阪神タイガースが御堂筋パレードを「長年できなかったワケ」

プロ野球の日本シリーズを制し、御堂筋をパレードする阪神ナイン(プロ野球阪神優勝パレード大阪会場、2023年11月23日) Photo:SANKEI
御堂筋を行進する阪神タイガース。その光景はいまや関西の歓喜を象徴するものだ。だが、この“南下するパレード”には、もう一つの物語が重なっている。かつて同じ御堂筋を“北上”した南海ホークス――。その軌跡には、電鉄と野球、そして大阪という都市が描いた夢の記憶が刻まれていた。※本稿は、井上章一『阪神ファンとダイビング 道頓堀と御堂筋の物語』(祥伝社)の一部を抜粋・編集したものです。
関西ダービーを彩った
2023年の阪神とオリックス
御堂筋の話からはじめる。
大阪の人びとには、わざわざ言うまでもない。御堂筋は大阪市の中心を南北につらぬく大通りである。大企業の社屋が両側にならぶビジネス街としても、知られている。
この目抜き通りで、阪神タイガースは、しばしば凱旋(がいせん)行進を演出してきた。2023年のそれは、なかでも記憶に新しい。
この年、阪神はセ・リーグのペナントを勝ちとった。パ・リーグを制したのはオリックス・バファローズである。日本一をきめる日本シリーズでは、この両球団が対峙した。どちらも、関西に本拠をおくチームである。そのため、両者の対戦は関西ダービーとはやされた。
最終的な凱歌は阪神にあがっている。しかし、相手のオリックスを圧倒したわけではない。接戦がつづき、このシリーズは最終戦までもつれこんでいる。阪神としても、4勝3敗という僅差(きんさ)の日本一であった。オリックスも、よくたたかったと、野球好きは語りあったものである。いいシリーズだったという声も、しばしば耳にした。
もりあがった関西ダービーをいわいたいということなのだろう。
両チームのパレードを大阪と神戸で挙行する企画が、浮上した。地元の自治体や経済団体も、これを支援するはこびとなる。そして、11月23日に実行された。神戸の三宮と大阪の御堂筋で、両チームのパレードがくりひろげられたのである。
ただ、野球好きのひとりとして、あのパレードについては、言っておきたいことがある。それは、旧南海ホークスファンの陰口が、まったく聞こえてこなかったという点である。
南海ホークスは御堂筋パレードを
1959年の一回しか開催しなかった
若い読者は、旧南海という名称に、とまどうかもしれない。今はソフトバンクホークスが、あとをついでいる球団である。
かつては、南海電鉄が経営をささえていた。1938年に南海軍として、職業野球にくわわっている。だが、50年後の1988年に、同電鉄はチームを売却した。この時は、流通大手のダイエーがホークスを買いとっている。それが、後年ソフトバンクへ経営権をわたし、今日のソフトバンク球団につながった。
その南海が、1959年に、日本シリーズで優勝する。同シリーズでの宿敵とされた読売ジャイアンツをやぶり、日本一の座を手にいれた。この時、南海球団は御堂筋でパレードをおこなっている。
プロ野球の球団があの大通りで優勝をいわった前例は、ひとつもない。南海球団のそれが嚆矢となる。のみならず、御堂筋パレードを、その後南海はくりかえしていない。リーグで優勝し、日本シリーズに勝っても、反復はしなかった。それは、南海にとっても、1959年だけの特殊なイベントだったのである。
いずれにせよ、それは他球団が安易にまねてよい催しだと、みなされてこなかった。さきほどのべたが、南海球団じたいも、もう一度やろうとはしてこなかったのである。
かつての南海は、大阪球場(大阪スタヂアム)を本拠地とした。南海電鉄難波駅のすぐ南側にひろがる球場である。今はなんばパークスという商業施設になっている。
地図でその立地を見てほしい。
御堂筋のすぐ東側にある。3、400メートルほど北上すれば、そのままパレードの御堂筋につながる。

同書より転載
御堂筋は南海の縄張りだから
他の球団は手を出せなかった
この目抜き通りは、南海電鉄やホークスの拠点と言ってもいいエリアに接していた。御堂筋のパレードを、南海は地元での感謝祭めいた催しとしても、認識していたろう。
当時の在阪と言いうる球団に、本拠球場がこれだけ近いところはない。阪神の甲子園球場や阪急の西宮球場は、遠くはなれている。近鉄の日生(日本生命)球場や藤井寺球場も、その点はかわらない。御堂筋を地元の大通りと位置づけられる度合いでは、南海が群をぬく。ここでのパレードは、その点でも南海のイベントとして了解されやすかったろう。
くりかえすが、御堂筋は大阪を代表するメインストリートである。ここでの凱旋にあこがれた球団は、南海以外にもあったろう。たとえば、阪神の戸沢一隆球団代表は、1958年に、こう言っている。「ぜひ選手権をとって御堂筋をパレードしたい」(『週刊朝日』1958年6月1日増大号)、と。南海が挙行する、その1年以上前に。
それでも、他の球団はここでの行進にふみきらない。優勝をしても、日本一になっても、はばかった。御堂筋に隣接する大阪球場が、本拠となる。そんな南海に、他球団が遠慮をした可能性は考えうる。あそこは、南海のシマだ。うちは手をださないほうがいい、と。少なくとも、南海という球団のあった1988年までは。
南海以外の球団が御堂筋で優勝をいわいだしたのは、21世紀になってからである。そして、その口火は2003年に、阪神がきった。この年、阪神は闘将と言われた星野仙一にひきいられ、セ・リーグで優勝する。日本シリーズには、勝てていない。
当初は阪神への反発はあったが
最近は旧南海びいきも弱体化
だが、それでも11月3日に御堂筋と神戸市中を凱旋している。2005年にも、阪神はセ・リーグのペナントを勝ちとった。そして、2年前と同じ行進を御堂筋で披露する。
旧南海ファンは、自分たちの聖地がけがされたように、この事態をうけとめた。南海に起源のあるイベントを、阪神がうばったと感じたようである。だから、ついついこんな口吻をもらすようになっていく。
なんや、たかがセ・リーグで勝ったぐらいで。日本シリーズには負けとるやないか。巨人をうちまかした南海ホークスには、とうていおよばんやろ。そのていどの戦績で御堂筋パレードやなんて、おかしいわ。阪神は、なんかかんちがいをしとるんやないか……。
旧南海ファンのそういう口振りを、私はじかに聞いている。2005年までは、まちがいなくそんな反発があった。だが、2023年にはこれが聞こえてこない。少なくとも、私の耳にはとどかなかった。
日本シリーズでも勝ったから、大目に見られたのか。オリックスとの共催で、パ・リーグにも花をもたせた点が、買われたのかもしれない。もちろん、旧南海のひいき筋が弱体化している可能性もある。あるいは、私の耳が遠くなり、彼らの声を聞きもらしているせいか。いろいろ、考えあぐねているところである。
1959年の日本シリーズで、南海は読売を打倒した。それをことほぎ、御堂筋での凱旋行進にのりだしている。そして、南海にとって、それは唯一無二のイベントとなった。その後も日本一になりはしたが、同じことをやろうとしていない。
いったい、なぜか。1959年の日本シリーズは、南海にとって、どのような意味をもっていたのだろう。
南海の球団史は、くだんの凱旋行進をこう位置づけていた。「夢にまで見た“御堂筋パレード”」うんぬん、と。じつは、当時の監督であった鶴岡の自伝も、同じことを書いている。「いつかは御堂筋のパレードをやろうと誓っていた」、と(鶴岡一人『御堂筋の凱歌──栄光と血涙のプロ野球史』1983年)。
1959年に読売をうちまかす。その前から御堂筋行進を夢想していたという。選手だけではなく球団側も、そうちかい、また夢見てきた。いつかは、あそこでやりたい、と。いったい、南海にとって御堂筋は、どのような意味をもっていたのか。
こう書けば、たいていの人は、つぎのように言いかえすだろう。あそこは、大阪を代表する目抜き通りである。ニューヨークの5番街やパリのシャンゼリゼ通りに、市中でのポジションは匹敵する。御堂筋で自らの成功をいわいたがる人たちがいることじたいに、不可解な点はない、と。
たしかに、そのとおりである。そう語ることで議論をまとめても、問題はないのかもしれない。しかし、私はもうひとつべつの理由もあったと、思っている。
球団の夢は叶ったけれど
電鉄の夢は絶たれた南海
南海電鉄は大阪の難波と、その南側をむすぶ私鉄である。大阪府の南部と和歌山県の北部に、その路線はひろがる。南海難波駅は、その最北端にある終点である。これより北側に、同電鉄の路線はない。
また、難波駅には複数の路線が、あつまっている。南海本線と高野線、そして泉北高速鉄道を走る便が、ここから始発する。そのたたずまいは、どこかヨーロッパの終着駅をしのばせなくもない。じっさい、この駅はターミナル駅であると、地元でも言われている。
しかし、より北のほうへと路線をのばす意欲を、南海電鉄がもたなかったわけではない。難波は大阪でミナミとよばれるエリアの、その南側に位置している。これをキタと通称される地域の梅田までとどかせたい。そうすれば、ミナミからキタへといたるドル箱路線がきりひらける。そんな野望を、潜在的には秘めていた。
これをはばんだのは大阪市である。同市は1901年以後、市内交通に関する大方針をうちだした。市中の交通手段は、すべて市営にするという決定をくだしたのである。おかげで、民営鉄道のみならず国営鉄道も、旧市街へははいれなくなった。
この市営優先という考え方を、大阪市のモンロー主義とよぶことがある。モンロー主義は、アメリカ合衆国の孤立主義を意味する用語である。
1823年に第5代大統領のモンローは、欧州諸国との相互不干渉を宣言した。その閉鎖的な政治姿勢を、モンロー主義という言葉はさしている。大阪市の交通政策をしめす慣用語としても、これは採用された。
その当否、用語としての良し悪しはともかく、南海電鉄は北進をゆるされなくなった。
北へ向かうパレードの背景には
南海電鉄の野望があった
梅田まで北上したいという思惑を、難波でさえぎられたのである。難波駅はターミナルにならざるをえなかった。それは、北へのびようとする夢が切断された跡なのである。
南海電鉄にかぎったことではない。北側の梅田を終着駅とした阪神電鉄と阪急電鉄も、南進の意欲を断念した。ミナミの難波まで路線を延長させることは、大阪市の方針でかなわない。両電鉄の梅田駅も、南へむかう夢をとちゅうではばまれ終着駅となった。両電鉄がターミナル化を強くのぞんでそうなったというわけでは、かならずしもない(地図3)。

同書より転載
もう一度、1959年の御堂筋パレードをふりかえる。この時、南海の選手たちは難波駅の南側にあった大阪球場から、行進を開始した。キタの梅田までそれをつづけている。そして、南海球団は以前から御堂筋で凱旋をしたいとのぞんでいた。
なぜ、そういう志をいだいてきたのか。ひとつには、御堂筋が大阪随一の大通りだったからだろう。
だが、いまひとつの理由として、親会社である南海電鉄の見はてぬ夢もあげられまいか。ほんとうは、梅田まで南海の電車を走らせたい。そんな欲望が球団の凱旋に形をかえ、北へむかうパレードになったのではないか、と。

『阪神ファンとダイビング 道頓堀と御堂筋の物語』 (井上章一、祥伝社)