「だからあれほど言ったのに…」コロナ禍の自粛破りがバッシングされたワケ

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悲惨な事故が相次いだことで世論が動き、厳罰化されていった飲酒運転。これは「個人の決定」を抑止することで良い結果につながった事例だが、このような誰もが納得するケースは少ない。私たちはどこまで自己決定を尊重し、どこから責任を問うべきなのか。その境界線の手がかりを探る。※本稿は、社会学者の石田光規『自己決定の落とし穴』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。

飲酒運転はいかにして

重い罰則になったのか

 責任と行為の関係について、飲酒運転を事例に考えてみましょう。今では想像もつきにくいですが、私たちの社会は飲酒運転にとても寛容でした。地方では駐車場を備えた居酒屋も珍しくなかったほどです。

 飲酒運転が少なくなったのは、ひとえに、私たちがお酒を飲んで運転をするという決定に厳しい責任を課したゆえです。まずは図2を見てください。この図は1998年から2023年にかけての飲酒事故、飲酒による死亡事故の件数をまとめたものです。

同書より転載

 これを見ると、飲酒事故、飲酒による死亡事故の件数は2000年から2009年にかけて急激に減少したことがわかります。さらに細かく見ると、2001年から2003年、および、2006年から2007年にかけて、飲酒事故の件数、飲酒による死亡事故の件数は、いずれも大きく減少しています。

 飲酒事故は2001年に2万5400件もあったのですが、2002年には2万331件まで減少し、翌年にはさらに減り、1万6376件になります。2年間で9000件以上、飲酒事故が少なくなったのです。2006年から2007年にかけては、1万1626件から7561件となり、やはり1年で4000件以上減っています。

 飲酒による死亡事故は2001年の1191件から、2002年には1000件、2003年には781件になり、2年間で400件以上減少しています。2006年から2007年にかけては、611件から433件と180件近く減っています。いったい何があったのでしょうか。

世論と法律を通じて

飲酒運転は厳罰化された

 共通するのは、いずれの年でも件数の減る前に、世のなかを騒がせた飲酒運転の事故が起き、件数の減った年に飲酒運転を厳罰化する法改正があったことです。つまり、事故により飲酒運転に対する責任の強化を訴える世論が起こり、その後、厳罰化という形で実際の責任が強化されたのです。

 2000年4月、神奈川県座間市で飲酒運転の車が大学生2人をはねて即死させました。当時の交通事故による死傷事故は、業務上過失致死傷罪で処理されていました。この決定に対し異を唱えたのが犠牲になった大学生の母親です。

 母親は「窃盗罪(10年以下の懲役)より軽い業務上過失致死傷罪(5年以下の懲役)で処理されるのはおかしい」と不服を訴え、法改正を求める署名活動をしました。署名の効果もあり、2001年12月には改正刑法が施行され、「危険運転致死傷罪」が新設されました。

 この法の成立により、故意に危険な運転を行い、その結果、人を死傷させたものは、行為の危険性に応じて、暴行による傷害罪・傷害致死罪に準じた重大な罪を犯したとして処罰されるようになりました。

 2006年8月には、福岡市で飲酒運転の車が乗用車に追突し、同乗していた3人の子どもが亡くなるという事故が起きました。居酒屋・スナックで飲酒を重ねた加害者が幼い3人の命を奪った事故への反響は大きく、マスメディアでも注目されます。

 その後、2007年9月には改正道路交通法が施行され、飲酒運転をした人の罰則は大幅に強化されました。さらに、運転者に車両を提供した人、お酒を提供した人、一緒に乗っていた人も罰せられるようになりました。

 このように、お酒を飲んで車を運転するという決定をした人に、厳しく社会的な責任を問う声があがり、また、実際に責任を課す法律が施行されたことで、飲酒運転は大幅に減ったのです。

 飲酒運転に対して大きな責任を課すことで、そのような決定をするのを未然に防いだと言えるでしょう。

個人と集団で下す

決定の重みの違い

 ある行為に責任を課すことで、その行為を思いとどまらせ秩序を維持する。私たちがよく用いる方法です。それにより飲酒運転による悲惨な事故を防げるならば、それはとてもよいことです。

 しかしながら、飲酒運転のように、個々人の決定を抑止した方がよいと多くの人が思える事例は、それほど多くありません。個々人の決定を尊重した方がよいのか、責任を重視すべきか。この判断は意外と難しいものです。また、ときに責任の追及が過剰になり、息苦しさを生むこともあります。

 私たちの生活する社会で何かを決めるのは、個人だけではありません。会社・地域の自治会・国といった集団も、さまざまな決定をします。ときに集団の決定は、私たちの決定と対立し、私たちの決定の範囲を狭めることがあります。

 記憶に新しいところでは、2020年の新型コロナウィルス騒動があげられます。騒動のさなか私たちは、科学的根拠に基づき、人との接触や外出を避けることを強く求められました。その勧告を破って外で飲食をした人には、厳しい批判が浴びせられています。

 個人の決定と集団の決定を比べた場合、集団の決定のほうが、およぼす影響は大きいにもかかわらず、責任はあいまいになりがちです。集団の決定には非常に多くの人が関わるため、責任が拡散しやすいのです。

 その一方、個人の決定は、責任が明確なように思えます。

『自己決定の落とし穴』 (石田光規 ちくまプリマー新書、筑摩書房)

「だからあれほど言ったのに」という論理が適用されやすいのです。そのため、個々人には責任の論理が作用し、ある方向の決定を抑制されることがあります。

 このような状況は、さしあたっての秩序の維持には都合がいいでしょう。その一方で、時として集団を暴走させる懸念があります。誰も集団の決定に対する責任をもたなくなるからです。こうした状況が、組織的な不正や戦争など、悲劇的な結果を招くこともあります。

 個々人の決定ばかりを優先していれば、社会としての統一性が損なわれ、社会が成り立たなくなる可能性があるのは事実です。その一方で、責任の体系を築き上げる社会や集団は時に暴走し、個人を圧迫します。

 自己決定と責任は、このような緊張をはらんだ関係にあることを意識することも大事でしょう。