平均年収280万円→615万円、売上は6倍に。三島のゼネコンが考える地方企業の生存戦略

静岡県三島市の建設会社、加和太建設。2000年代前半に業績が傾くも、驚異の回復を遂げた企業だ。そのわけを、3代目社長の河田亮一氏に聞いた。
地方の中小企業にとって、「現状維持」は決して悪い選択肢ではない。人口減少が進む地域では新規参入者も少なく、ある程度の売り上げさえあれば会社は回っていく。従業員の給与は控えめでも、経営者はそれなりの生活ができる――そんな会社は、日本中に多く存在する。
だが、その「ぬるま湯」に浸からず成長を追い求める企業がある。静岡県三島市の地方ゼネコン、加和太建設だ。
かつて売上高30億円台だった同社は、家業を継いだ3代目社長・河田亮一氏のもと、180億円規模の企業へと成長した。現在は200億円の突破を目指し、その先には上場も視野に入れる。
地方で「成長し続ける」ことを選ぶ理由は何なのか。「アクセルを踏み続ける」と語る河田氏に、その原動力を聞いた。
地元の"イケてる場所"の仕掛け人

三島市内初のウイスキー蒸留所、Distillery Water Dragon。加和太建設が事業者の誘致に関わった。
加和太建設の本社は、JR三島駅北口から徒歩1分の場所にある。晴れた日には富士山がよく見える、水がきれいな地方都市。ここは、私が大学卒業まで暮らしていた地元でもある。
取材にあたって調べてみると、この10年ほどで新たに生まれ、「イケてる施設」として話題に上がる場所やお店は、ほぼすべて同社が何らかの形で関わっていた。
例えば、廃園した幼稚園をリノベーションして作った交流施設「みしま未来研究所」。指定管理者として運営する「桃沢野外活動センター」。学校の宿泊行事で何度も訪れた古い施設だったが、おしゃれなコテージやサウナを備えた場所へと様変わりした。
東京で出会った感度の高い友人が、わざわざ三島市を訪れた理由の一つだというラーメン店「ラーメンやんぐ」。この店は、いつ行っても若い人でにぎわう。また、神奈川県内の飲食店で「いま、これが人気なんです」と勧められたクラフトジンが、三島市の蒸留所でつくられていたこともあった。これらの事業者はいずれも、加和太建設が誘致したものだ。市内の遊休建物を仲介したり、時には自ら購入したりしながら、人と事業を呼び込んでいる。
ただ、正直に言えば、私がこの街に住んでいたころの加和太建設は「名前は知っているが、特に印象はない」会社だった。どのようにして変貌を遂げたのか。
嫌だった「建設業の息子」

加和太建設代表取締役の河田亮一氏。一橋大学経済学部卒業後、リクルート、三井住友銀行を経て2007年に父が社長を務める加和太建設に入社した。2015年に社長就任。
「まったく継ぐ気はなかった」
現在、3代目社長として会社を率いる河田亮一氏はそう振り返る。建設業といえば、ドラマでは金の亡者として描かれがちで、ニュースに取り上げられるのは談合や贈収賄といった不祥事ばかり。建設業の息子として「こんな産業は嫌だ」と感じていたという。
その思いもあり、高校は海外に飛び出した。ただ、明確にやりたいことがあったわけではない。言葉や生活習慣の壁に直面し、どん底まで落ち込むなかで行き着いたのが、「社会を良くする仕事をしよう」という覚悟だった。
最初に志したのは政治家だ。日本の教育制度を変えたいと考え、一橋大学を卒業後、まずリクルートで学校法人向けの広告営業に携わった。教育とビジネスの両面を行き来する経営者たちと接するうちに、次第に起業への関心が芽生える。お金の流れや経営を学ぶため、三井住友銀行へ転職した。
起業を本気で考えるなかで、河田氏はこう思った。多くの選択肢に恵まれた人生は、海外に送り出してくれた親の存在があってこそだ。その感謝を伝えないまま起業して成功しても、後悔するのではないか。
バランスシートを読めるようになって、家業の経営状況も知った。銀行の先輩には「お前の会社潰れるよ」と言われた。「親孝行として2〜3年、一緒にやろう」と決意した。
父の携帯に電話をかけ、こう伝えた。
「嫌だけど、三島に帰って一緒に働くよ」
「ぼんくら息子が帰ってきた」
当時社長だった父・河田英治氏に言われたのは、「いろんな経験をしてきたんだから、新しい事業をやれ」ということ。命ぜられるまま、ピラティススタジオを立ち上げることになった。会社の将来を見据えた新規事業。だが、現場の受け止めはまったく違った。
「ぼんくら息子が勝手に戻ってきて、自分たちが稼いだ金で何をやっているんだ」
当時の加和太建設は、決して余裕のある会社ではなかった。2004年にはグループ会社が負債63億円を抱えて特別清算。河田氏が入社した2007年頃、一定年齢以上の社員は給与を3分の1カットされ、利益の大半は返済に充てられていた。