米製造業の黄金時代、なぜ再現困難か

米国の製造業にとって、戦後の世界は黄金時代だった。

1940年代から70年代にかけて製造業は活況を呈し、米国に著しい経済成長を、企業に拡大し続ける利益を、そして労働者には将来の明るい見通しをもたらした。多くの国民が高校を卒業すると工場の仕事に就いて労働組合に加入した。賃金は、住宅を購入し、家族を養い、尊厳を持って退職するのに十分だった。

国民の多くは、製造業が全盛期だった時代こそが本来あるべき姿だと信じており、活気ある新たな中間層の復活を製造業の再興に託している。あらゆる政治的立場の政治家が、この時代を失われたものとして語り、関税導入や米国製品の購入によって容易に取り戻せるかのように訴えている。

しかし、それは不可能だ。20世紀半ばの米製造業モデルは通常のものではなかった。歴史的な偶然だったのだ。そして、われわれはそれを取り戻すことはできない。 産業の黄金時代は、それが出現したのとほぼ同じ速さで消失した独特な条件下で生まれた。世界の競合国は爆撃によって屈服させられ、エネルギーは非常に安価で、米国の労働組合は雇用を外国のライバルに奪われる心配なく譲歩を要求できた。これらは歴史の偶然であり、適切な政策で取り戻すことができる資本主義の特性ではなかった。

1946年、ミシガン州ディアボーンでフォード・モーターの主力工場に到着する労働者

独特のバランス

黄金時代、そして中産階級の繁栄は、第2次世界大戦後の産業界と労働者の激しい駆け引きから始まった。「当時の主要産業である鉄鋼、自動車、トラック輸送、ゴム、石炭採掘では、大規模で頻繁なストライキが発生していた」と、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で労働・資本史を研究するネルソン・リヒテンシュタイン氏は述べている。

組織化された労働者階級からの絶え間ない圧力により「実質賃金が上昇し、健康保険や退職金を含む福利厚生制度が生み出された」と同氏は説明する。

労働組合の力は世論と連邦政策も形作った。1956年、ホワイトハウスの真向かいに建設された米労働総同盟産別会議(AFL-CIO)本部の落成式で、当時のドワイト・アイゼンハワー大統領は「労働者こそが米国である。頭脳と心と手で、この国で共有される富を生み出す男女こそが米国なのだ」と宣言した。

1956年、ワシントンでAFL-CIO本部の落成式が開かれた。写真はアイゼンハワー大統領(中央右)とAFL-CIOのジョージ・ミーニー会長

政府による労働組合への支援は経営陣の行動を抑制した。経営幹部の給与は労働者の中央値の数倍程度にとどまり、自社株買いは違法または好ましくないとされ、繁栄の果実は労働者の懐に入っていた。朝鮮戦争中は、インフレ圧力を抑えるために一時的な賃金・物価統制も行われていた。

しかし60年代半ばまでには、財政を巡る情勢が変化し始めていた。ベトナム戦争が連邦政府の財政を圧迫し、リンドン・ジョンソン大統領は軍事支出と「偉大な社会」などの国内政策のバランスを取ることを余儀なくされた。政府の財政赤字が爆発的に拡大するにつれてインフレが加速し、ドルの下落を引き起こした。1971年にリチャード・ニクソン大統領が金本位制を放棄したことは、1944年以来、安定した為替相場と世界貿易を支えてきたブレトンウッズ体制の崩壊を意味していた。

この決定により通貨の変動が激化し、国外における米ドルの購買力は低下した。その結果、米国産業と中間層を苦しめることになる経済的不安定さが10年にわたって続くことになった。

さらに石油ショックが起きた。1973年に石油輸出国機構(OPEC)による石油禁輸措置でエネルギー価格が4倍に跳ね上がり、製造業の利益を食い尽くした。同時に、日本、韓国、西ドイツが自国産業を再建する中、外国との競争が激化した。一方、米企業は年金などの累積するレガシーコスト(負の遺産)に苦しめられ、設備の刷新や研究開発への投資が阻害された。

エコノミストらは注視していた。経済学者ミルトン・フリードマン氏は1970年にニューヨーク・タイムズ(NYT)紙への寄稿で、企業の社会的責任は利益を増やすことだと指摘した。実際には、これは株主価値が労働組合への義務や地域社会との結びつきよりも優先されることを意味していた。93年にビル・クリントン大統領が北米自由貿易協定(NAFTA)に署名し、95年に世界貿易機関(WTO)を支持した際、それは裏切りというよりも新たなコンセンサスの論理的帰結だった。産業保護ではなく、自由貿易とグローバル化が繁栄を推進するという考えだ。

1903年に操業開始した当時は最先端とされたデトロイトにあるパッカードの自動車工場。58年に閉鎖された

政策立案者らが製造業放棄の是非について議論する一方で、米国のアイデンティティーは変容していた。60年代には鉄鋼労働者の子どもたちは記録的な数で大学に進学し、製鉄所に戻ることを望む者はほとんどいなかった。仮に戻りたいと思っても、両親が反対した。ダニエル・ベル氏が73年の名著「脱工業社会の到来 : 社会予測の一つの試み」で指摘したように、米国は「モノ」の経済から「アイデア」の経済へと移行していた。

社会的な高い評価が金融、法律、テクノロジー、メディアへと移るにつれ、かつて市民の誇りの礎だった製造業は時代遅れと見なされるようになっていった。1980年時点では金融サービスが国内総生産(GDP)に占める割合は5%未満だったが、2007年までにはほぼ倍増した。ウォール街の華やかさが、熟練労働者の尊厳に取って代わった。

鉄鋼業の崩壊

鉄鋼業は米国の産業衰退を代表するような象徴だ。「Running Steel, Running America(鉄鋼を動かす、米国を動かす)」の著者である歴史学者ジュディス・スタイン氏は、米国は1945年には世界最高の製鉄所を保有していたが、70年までには世界最古の製鉄所を抱えるようになったと指摘している。

業界最大手の一つだった企業について考えてみよう。全盛期のベスレヘム・スチールはあらゆる場所にあった。インディアナ、ペンシルベニア、メリーランド、ニューヨーク各州の製鉄所では、ニューヨーク市のエンパイアステートビルを支えるH形鋼が生産された。高炉では米軍艦や大口径砲に使用される鉄鋼が精製された。桁材はサンフランシスコ湾とハドソン川に架けられた。50年代半ばには、ベスレヘムは約15万人を雇用し、その大部分は鉄鋼の町に住んでいた。同社はそこで高い賃金を支払い、地域経済で重要な役割を果たしていた。

60年代と70年代の危機はベスレヘムに大きな打撃を与えた。国内経済は低迷し、最新技術を備えた外国の競合他社が業界に参入してきていた。ベスレヘムの雇用は70年代を通じて減少し続け、次の10年間で崩壊した。同社は2001年、競争や非効率性、そして膨大な年金債務を背景に破産申請を行った。最終的に、新設備への投資よりも退職者給付により多くを支払うことになった。

ペンシルベニア州ベスレヘムにあった同社本拠地の工場跡地は、現在カジノになっている。

今後の道筋

ベスレヘム・スチールは、米製造業の全盛期が数十年前に終わりを告げたことを思い出させる存在だ。ノスタルジアで目が曇ると、健全で持続可能に思えたものが実際には歴史的なアノマリー(例外的な事象)だったという事実が見えなくなる。

それは製造業が米国の将来の繁栄に無関係だということではない。それどころか、国家安全保障と経済の回復力にとって不可欠であり続けている。ただ、今後の道筋は過去とは全く異なるものになるだろう。

現在の有望な事例である、アリゾナ州の半導体、マサチューセッツ州の先端繊維、ミシガン州の電気自動車は、イノベーションや熟練労働者、低金利、複雑な世界のサプライチェーン(供給網)に依存している。これらは労働集約的ではなく、資本集約的だ。良質な雇用を創出するが、かつて鉄鋼の街を特徴づけていた組合員の大きな集団ではない。

2022年、アリゾナ州フェニックスで建設中の台湾積体電路製造(TSMC)の施設

米国のつかの間の黄金時代を再現することはできないし、それを神話化して永遠に語り続けることもできない。しかし、過去を青写真として使うのをやめれば、新たな産業戦略を構想することは可能だ。

――筆者のレイチェル・スレード氏はボストンを拠点とし、著書に「Making It in America(メイキング・イット・イン・アメリカ)」がある