北大路欣也が明かす「70代で進化する人」が毎日していたこと

Photo by Takahiko Hara
人生100年時代、年齢を重ねるにつれ「環境の変化についていけない」と守りに入ってしまう人は少なくない。しかし、猛暑の京都での撮影も、若手との共演も、すべてを糧にしてしまう北大路欣也のエネルギーはどこから湧いてくるのか。人気シリーズ「三屋清左衛門残日録」最新第9作「永遠(とわ)の絆」で、三屋清左衛門を演じた北大路に話を聞いた。(俳優 北大路欣也、取材・構成/小倉健一)
42度のジャングルから極寒の川まで
環境の変化は「嘆く」ものではない
北大路欣也(以下、北大路) 以前、「ボルネオ大将 赤道に賭ける」(1969年)という映画の撮影で、ボルネオ島のジャングルで40日間ロケをしたことがありました。
日中の気温は42度。昼間は現地の動物たちでさえ、鶏も犬もみんな縁の下に隠れて、動いているのは日本のロケ隊だけです。
照明のレフ板を持っているスタッフが、熱中症で倒れていく。私も全身の皮が3回剥けました。船の甲板に卵を落としたら、ジュジュッといって焼けたくらいですから。
逆に、零下26度のアラスカで凍った川に入ったり(「アラスカ物語」1977年)、八甲田山では撮影のため吹雪が来るのを5時間くらい待ちました(「八甲田山」1977年)。映画「漂流」(1981年)の撮影では、ふんどし一丁でスコットランドの寒風の中に立ったこともありました。
そういう「上は42度から下は零下26度まで」の世界で体を張ってきた経験があるからでしょうか。「三屋清左衛門残日録」の最新第9作「永遠の絆」は夏の京都での撮影で「猛暑の京都での撮影は大変でしょう」と心配されますが、私はそれを「大変だ」と嘆くよりも、自然の成り行きとして受け止めています。
北大路 地球全体が変わってきているわけですから、京都だけが暑いわけではない。環境が変わるなら、自分もそれに合わせて対策をし、順応していけばいい。
それに、昔は撮影所に冷暖房も扇風機もなかったんですよ。その中で傑作を撮り続けてきた先輩方の姿も見てきました。その情熱を思えば、今の環境で弱音なんて吐いていられません。

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60代での初挑戦
キャサリン・ヘプバーンに見た「勇気」
――経験に裏打ちされたタフさですね。北大路さんが、年齢を重ねてもなお「挑戦心」を失わないのはなぜですか。
北大路 素晴らしい先輩方の姿を見ているからでしょう。
私は以前、ニューヨークのブロードウェイで、大女優キャサリン・ヘプバーンの舞台『COCO(ココ)』を観たことがあります。彼女がココ・シャネルを演じたミュージカルなのですが、その時彼女はたしか62歳だったと思います。
それまで映画界のトップを走り続けてきた彼女が、その年齢で初めてミュージカルに挑戦したんです。歌って、踊って、お芝居をして。
幕が開くと、そこには年齢など微塵も感じさせない、圧倒的なエネルギーがあり、カーテンコールではスタンディングオベーションが鳴り止みませんでした。
「この年齢で、まだ新しい扉を開くのか」と、その姿に震えるほど感動しました。その勇気と気迫に、強烈な刺激を受けたのです。情熱さえあれば、人間はいくつになっても新しい自分に出会えるのだと、彼女が教えてくれました。
仕事がなくても鍛えるのが役者
父・市川右太衛門の背中
北大路 私にとっての「理想の年の重ね方」のモデルは、やはり父の市川右太衛門です。
父はよく言っていました。「忙しいときだけが役者じゃないぞ。仕事がなくても鍛えるのが役者なんだ」と。
北大路 オファーがない時期でも、父は毎日欠かさず散歩に行き、体を動かし、発声練習をしていました。いつ仕事がきてもいいように「その時」のために、常に刀を研いでいたんです。
父は代表作の「旗本退屈男」を「100歳になってもやる」と言い、米寿(88歳)を迎えた時も、日本舞踊を立派に舞っていました。地に足のついた日々の鍛錬。それがあるからこそ、いざスポットライトを浴びた時に、揺るぎない輝きを放つことができるのです。

Photo by Takahiko Hara
一世一代の親孝行
79歳の父に贈った「日本一!」の掛け声
――そんなお父様に、北大路さんはある「親孝行」をされたそうですね。
北大路 はい。父は関西歌舞伎の出身でしたが、東京の歌舞伎座の舞台に立ったことがありませんでした。映画スターとして一時代を築きましたが、心のどこかに「歌舞伎座で演じたい」という思いがあったのでしょう。
ある時、私に松竹から「旗本退屈男」の舞台の話が来ました。私も長年演じさせていただきましたが、父の代表作で十八番です。
父はそのとき79歳でしたが、毎日歩いて足腰を鍛えて、立ち回りもできる。私はそれを知っていたので、プロデューサーにお願いしました。「この役は父、市川右太衛門にやらせてください。私は脇役でいいから、父を東京の歌舞伎座の舞台に立たせてあげたいんです」と。
さらに、「一場面だけでいいから、私と父、二人の退屈男が同時に存在する夢の場面を作ってほしい」と頼みました。私が観たブロードウェイミュージカルにもそういう場面があったのです。
それが実現できることになり、どうしても自分から伝えたくて、私は父の楽屋へ行き、話を切り出しました。「今年の8月、歌舞伎座で『旗本退屈男』をやってほしいというお話が来ていますが、どうしますか?」と。
父に「歌舞伎座? 大阪のか?」と聞かれ、「いいえ、東京の歌舞伎座です」と答えると、顔がみるみるピンク色に紅潮しました。父からすれば歌舞伎座はまさに檜舞台。あんな父の顔を見たのは初めてでした。
父が『旗本退屈男』の早乙女主水之介(さおとめ・もんどのすけ)を演じ、私は額に三日月傷を受ける前の若き日の主水之介を演じました。本番の舞台で、父が演じる主水之介が刀を出したときに、私は父の刀をうやうやしく拭いて、こう叫びました。
「日本一!」
満場の拍手の中で、父が本当に嬉しそうな顔をしていて……。あの時、親に向かって「日本一」と言えたことは、本当に幸せでした。
常に準備をしていたからこそ
最高のパフォーマンスができた
北大路 父は常に準備をしていたからこそ、その晴れ舞台で最高のパフォーマンスを見せることができたのだと思います。年齢を重ねるということは、衰えることではありません。準備さえしていれば、いつか必ず来る「最高の瞬間」を掴み取ることができる。父は身をもってそれを証明してくれました。
ですから私も、まだ見ぬ役、まだ見ぬ出会いのために、今日も明日も準備を続けます。何が来るか分からないからこそ、人生は面白い。私たちの舞台は、まだまだこれからが本番なのですから。
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「仕事がなくても鍛えるのが役者」。
市川右太衛門から北大路欣也へ、そして次の世代へ。この言葉は、不安定な時代を生きる全てのビジネスパーソンへの金言でもある。
それは北大路が演じる三屋清左衛門の「日残りて昏(く)るるに未だ遠し」という言葉にも当てはまる。日が暮れるにはまだ早い。
変化を嘆かず、年齢を言い訳にせず、挑戦し続けること。その静かなる情熱だけが、私たちをまだ見ぬ高みへと連れて行ってくれるのだろう。80代の現役俳優の瞳は、少年のような好奇心で未来を見つめていた。
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