クレカ乗車、首都圏で普及が進まない理由とは

タッチ決済対応のクレジットカードを改札機の読み取り部にかざす。事前の乗車券購入は不要だ(写真:筆者撮影)
3月25日の始発から、首都圏の私鉄・地下鉄11社局でクレジットカードのタッチ決済による「クレカ乗車」の相互利用が始まった。小田急電鉄、小田急箱根(箱根登山鉄道など)、京王電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道、西武鉄道、東急電鉄、東京メトロ、東京都交通局(都営地下鉄)、東武鉄道、横浜高速鉄道の11社局で、箱根の強羅駅から日光の鬼怒川温泉駅まで1都3県にまたがる54路線729駅をクレジットカード1枚で乗り継げる。
【写真で見る】渋谷駅の券売機上部に掲出されたタッチ決済の案内。11社局のロゴと対応する7つの決済ブランドが並ぶ

渋谷駅の券売機上部に掲出されたタッチ決済の案内。11社局のロゴと対応する7つの決済ブランドが並ぶ(写真:筆者撮影)
渋谷で開かれた会見には11社局の鉄道事業本部長がずらりと並んだ。だが、その発言からは「交通系ICカードに取って代わる」という熱気よりも、地に足のついた現実認識がにじんでいた。
改札外乗換という「関東の壁」を越えた
クレカ乗車の相互利用は、関西が先行している。2024年10月にOsaka Metro、近鉄、阪急、阪神の4社が548駅で一斉導入し、大阪・関西万博に間に合わせた。関西では三井住友カード主導で大規模なキャッシュバックキャンペーンも展開され、2025年9月の月間利用件数は導入直後の15倍以上に伸びた。
では首都圏はなぜ1年半も遅れたのか。最大の壁は運賃計算の複雑さだった。
東京メトロの小川孝行鉄道本部長は会見で「広汎かつ入り組んだ運賃計算に対応するため、新たなシステムを開発した」と説明した。具体的な課題は以下の2点だ。

東京メトロの小川孝行鉄道本部長が相互利用の対象エリアを説明した(写真:筆者撮影)
1つは、直通運転で複数の事業者をまたぐ場合に、複数ある乗車経路を比較して最安運賃を算出しなければならないこと。もう1つは、東京メトロや都営地下鉄に特有の改札外乗換駅の存在だ。上野駅で銀座線から日比谷線に乗り換える場合、いったん改札を出る必要がある。切符やICカードでは60分以内なら連続した1つの移動として運賃計算しているが、クレカ乗車でも同じ扱いを実現する必要があった。
11社局とオムロン ソーシアルソリューションズが協働して開発したこの運賃計算システムが、三井住友カードの「stera transit」やQUADRACの「Q-move」と連携することで、相互利用が実現した。従来はQ-move側で運賃計算とカード認証の両方を担っていたが、運賃計算を専用システムに分離した構成だ。基本的な運賃計算のロジックはICカードと同じで、最安経路を採用する考え方も踏襲しているという。
インバウンドには朗報、だが国内は「残り2%」
クレカ乗車の最大の恩恵を受けるのは訪日外国人だ。ロンドンやニューヨークの地下鉄ではすでにクレジットカードのタッチ決済による乗車が普及しており、海外旅行者にとっては慣れた乗り方でもある。日本に来て交通系ICカードを買い、チャージ方法を調べる手間がなくなる。

会見で示された課題のスライド。券売機前で外国人が列をなし、駅員の案内が必要な状況が生じている(写真:筆者撮影)
だが、国内の日常利用者にとっての位置づけは異なる。東急電鉄の伊藤篤志鉄道事業本部長はこう語った。「日本人に関してはインバウンドほどの意義は少ない。東急のIC化率は98%。あと2%をどう移行していただくかの打ち手だ」。

東急電鉄の伊藤篤志鉄道事業本部長。首都圏の相互直通運転の歴史を振り返りながら、事業者間連携の意義を語った(写真:筆者撮影)
クレカ乗車がICカードを置き換えるという見方とは、だいぶ距離がある。伊藤氏は具体的な場面として「ICカードを今日忘れた方が切符を買わずに乗車いただくための手段」を挙げた。東京メトロのIC化率も約95%で、残る5%は切符と企画乗車券だという。
東急の場合、相互利用開始前のクレカ乗車の利用件数は1日約4000件。全体に占める割合は1%にも満たない水準だ。上昇傾向にはあるが、ICカードの圧倒的な存在感は揺るがない。
関西で普及を後押ししたキャンペーン施策についても、首都圏では「大変有効であるという認識だが、今後の課題」と述べるにとどまった。海外向けの周知も各社が個別に行う状況で、共同プロモーションの計画はないという。
すでに福岡市地下鉄では、1日640円・月額1万2570円を超えると自動的に請求が止まる上限制を導入しており、定期券を買わなくてもクレカ1枚で同等のメリットを受けられる。江ノ島電鉄でもアプリ経由で1日乗車券をタッチ決済で利用できる仕組みが動いている。だが、関東11社局でこうしたサービスの導入は未定だ。
JR東日本は参画せず、独自路線を歩む
11社局の顔ぶれを見ると、JR東日本と京成電鉄が入っていない。会見で他社の参加見通しを問われた小川氏は「個別の意向についてはお答えできる立場にない」と前置きしつつ、「ICカードが主軸」「JR東日本や京成とも連携は深めていく」と述べた。
JR東日本は2024年12月に「Suica Renaissance」と銘打った10年計画を発表している。センターサーバー化によるサブスクリプション型の運賃プラン、ウォークスルー改札の研究、QR乗車券への移行など、Suicaを軸にしたサービス拡張を進める方針だ。同社広報部は以前の取材で「当面はクレジットカードのタッチ決済を導入する予定はない」と明言していた。
首都圏の交通決済は、私鉄・地下鉄のクレカ乗車とJR東日本のSuica刷新という2つの流れが並行して走る構図になっている。会見で「クレカ乗車が将来的にICカードに取って代わるのか」と問われた伊藤氏は「長期的には色々なことが考えられるが、生体認証なども始まっている。クレカ乗車が主軸になるとは想像がつかない」と慎重だった。PASMO協議会とは別の枠組みで進めている点も、この取り組みの位置づけを物語っている。

鉄道11社局とシステム・決済4社の担当者が一堂に会した。前列左から小田急箱根の大津俊成氏、小田急電鉄の立山昭憲氏、東急電鉄の伊藤篤志氏、東京メトロの小川孝行氏、京王電鉄の井上晋一氏、京浜急行電鉄の竹谷英樹氏。中列左から相模鉄道の金田有紀氏、西武鉄道の町田明氏、東京都交通局の稲垣宏昌氏、東武鉄道の池田直人氏、横浜高速鉄道の川瀬良幸氏。後列左から三井住友カードの佐々木丈也氏、JCBの熊田肇氏、QUADRACの高田昌幸氏、オムロン ソーシアルソリューションズの佐野司氏(写真:筆者撮影)
バスは鉄道より先を行く
鉄道がICカードとの共存路線を歩む一方で、バスはさらに踏み込んでいる。熊本では九州産交バスなど5社が全国交通系ICカードの利用を終了し、クレカ乗車と地域ICカードへ移行した。大阪シティバスも約700両への大規模導入を進め、首都圏では京王バスが3月27日から計約300両に拡大し、2027年度には現金の取り扱い自体を終了する計画だ。
バス事業者が鉄道より先に動く背景には、運賃箱の運用コストや運転士の負担軽減という切実な課題がある。鉄道各社が「ICカードが主軸」と慎重な姿勢を見せる中、バスは完全キャッシュレス化へ舵を切っている。
クレカ乗車は何を変えるのか
会見で印象的だったのは、伊藤氏が語った鉄道事業者間の連携の歴史だ。自動改札機、自動券売機、プリペイドカードのパスネット、そしてICカード。「お客様の移動体験をより便利にするため、共通の課題を共有し、技術や仕様をすり合わせてきた成果」だという。クレカ乗車もその延長線上にある。
ただし、現時点でのクレカ乗車には制約もある。対応改札機は各駅1~2台にとどまり、ICカードより処理速度が遅い。ラッシュ時に改札が詰まる原因になりかねない。定期券との併用は不可で、11社局のエリア外への乗り越しもできない。エリア外に出てしまうと入場記録の処理が面倒な手続きになる。子供運賃の設定もなく、小児がクレジットカードで乗れば大人運賃が適用される。

東急電鉄が渋谷駅に導入した新型改札機。電照式のパネルでIC・きっぷ・タッチ決済・QRの対応状況を表示する(写真:筆者撮影)
それでも、大手町駅からクレカ1枚で箱根湯本まで行ける、羽田空港から日光まで乗り継げるといった使い方は、訪日外国人や普段ICカードを持ち歩かない層には確かに便利だ。券売機の前で路線図を見上げる外国人観光客の列が減れば、駅員の負担軽減にもつながる。
クレカ乗車は交通系ICカードを「駆逐」するものではなく、インバウンド対応と磁気券(紙の切符)の削減を担う手段として位置づけるのが、現場の温度感に近い。東京メトロの小川氏が会見の最後に述べた「ICカードを主軸と位置づけたうえで、多様なお客さまに快適な乗車体験を提供する」という言葉が、11社局の共通認識だろう。
首都圏729駅でクレカ乗車がつながった日、改札の風景はまだほとんど変わっていない。対応改札機は端の1台だけ、利用者の大半はいつも通りICカードをかざして通り過ぎていく。それでも、券売機の前で立ち止まる人が1人減り、2人減りしていく変化は、静かに始まっている。